• ベストアンサー

元寇の役

先日、NHKで元寇の役について放送があり、見ていたのですが、実際にモンゴル軍と戦ったのは九州の武士のような説明があったのですが、その通りでしょうか? 私は、「鎌倉武士が戦った」と聞いていたので、てっきり関東の武士かな、と思っていたのですが…

  • 歴史
  • 回答数4
  • ありがとう数4

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.4

>実際にモンゴル軍と戦ったのは九州の武士のような説明があったのですが、その通りでしょうか? 主力が九州在住の武士団でした。 >「鎌倉武士が戦った」と聞いていたので、てっきり関東の武士かな、と思っていたのですが… 鎌倉武士というのは地理的な意味ではありません。 鎌倉幕府と主従関係にあった武士という意味です。 頼朝が鎌倉に幕府を開く以前には荘園毎に治安維持のための武力集団がいました。 元来は朝廷から任命された国司の役割でしたが藤原氏など在京の公家や寺院の荘園内には手が出せませんでした。 この為に荘園内には治安維持のための武力集団がいました。 頼朝がこの荘園内の武力集団を守護地頭として任命して朝廷に認めさせました。 その際に頼朝に忠誠を誓って主従関係を結んだ人を御家人としました。 御家人は関東に限らず全国に在住していました。 頼朝が亡くなった後に幕府の実権を握っていた北条氏もこの御家人を幕府の臣下といて引き継いでいました。 九州にあった太宰府は元々は大陸に対する外交の窓口でしたが、頼朝は幕府の基盤を固めるためにこの太宰府の長官を鎮西奉行として九州の御家人を統制させました。 元軍の来襲に備えて鎌倉幕府は全御家人に派兵を指令しました。 当時の御家人の中には九州に領地を持つ人がいてとりあえず九州の領地に居る武士を出兵させました。 当時大宰府の長官であった少弐 資能は幕府の指令を受けて鎮西奉行として豊後、肥前、肥後、筑後等九州各地の御家人に派兵を命じました。 結果として戦闘に参戦したのは九州在住の武士団だったということです。

tahhzan
質問者

お礼

そうですか。非常に興味深い話ですね。私は、てっきり両役とも台風のお陰で日本は救われた、のような解釈をしていたのですが、あの放送を見る限り、日本、それも、特に九州のサムライが果敢に奮戦したからこそ、今日の日本があるわけですね。そうですか。もう、九州の方に足を向けて寝られないですね(笑)。いやはや、ある種の感動に浸っております。現在の自衛隊でも、九州が最強だと言われているようなので、九州男児に対する畏敬の念を持ちました。ありがとうございました。

その他の回答 (3)

  • emaxemax
  • ベストアンサー率35% (43/121)
回答No.3

回答No.2です。 先ほどの回答は、文永の役(第一次日本侵攻)の話ですが、弘安の役(第二次日本侵攻)では、伊予の御家人・河野通有が負傷しながらも太刀を持って元軍の船に斬り込み、元軍将校を生け捕るという手柄を立てた記録が残ってますので四国の御家人たちも参戦したのでしょうね。 また六波羅探題から派遣された宇都宮貞綱率いる60,000余騎の大軍が北九州の戦場に向けて進撃しましたがこれは間に合わなかったようです。(到着前に元軍が壊滅してしまいましたので)

tahhzan
質問者

お礼

なるほど。それにしても6万の大軍とは凄いですね。ありがとうございました。

  • emaxemax
  • ベストアンサー率35% (43/121)
回答No.2

橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』「軍兵は、太宰小貳、大友、紀伊一類、臼杵、戸澤、松浦黨、菊池、原田、大矢野、兒玉、竹崎已下、神社佛寺の司等に至まて、我もゝゝと、はせあつまりたれは、」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』三弥井書店 2007年 194頁) とありますので、鎌倉幕府の命令によって九州各地の御家人らがはせ参じて戦ったということがわかりますね。

tahhzan
質問者

お礼

ということは、かなり奮戦し、日本を危機から救ったということなので、私達は、九州のサムライに感謝する必要がありそうですね。戦時中も九州の軍隊は最強と聞いているので、九州男児を見直しました。ありがとうございました。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15295/33014)
回答No.1

 これは元という外国が日本という国に攻めてきたわけですから、当時の政治の中心、幕府のあった、鎌倉から日本軍の指令が出されたわけですが、  地理的には対馬の領主が戦死し、壱岐などでは住民が盾とされ、指揮官は鎌倉から、兵士は現地調達だったのでしょう。挙国一致の防戦だったわけです。  https://kotobank.jp/word/%E5%85%83%E5%AF%87-60419

tahhzan
質問者

お礼

なるほど。そのような状況だったんですか。なかなか興味深いですね。ありがとうございました。

関連するQ&A

  • 元寇で戦った武士

    NHKの歴史探偵で、元寇を取り上げていました。そこで、しきりにモンゴル軍と戦ったのは鎌倉武士だ、と言ってました。私も、昔、それを聞いて、てっきりモンゴル軍を撃退したのは、鎌倉あたりの関東武士だと思ってました。しかし、実際は勇敢な九州の御家人というのが分かってから、何故、元寇の時に戦ったのは、九州の武士だ、と言ってあげないのか不思議です。そりゃ、鎌倉時代の武士だから鎌倉武士と言ってるんでしょうが、何か解せないものが残ります。実際、現場となった博多湾の防塁を見た時は、九州男児に対して尊敬の念さえ持ちました。何故、九州の武士が戦ったと説明しないのでしょうか?

  • フラグが元寇の総司令官だったら

    13世紀後半に2度に渡って行われた元寇は鎌倉九州武士団の勝利に終わりましたが、元軍の主力は高麗と南宋の二線級以下の兵力でしたね。 もしフラグ(元寇時期には既にこの世にいない)とその配下のモンゴル最強部隊が攻めてきていたら、戦況はヤバかったですか?

  • 元寇以前の九州武士と、鎌倉幕府の関係

    モンゴル襲来にそなえて、鎌倉幕府は九州一帯の武士団と主従関係を結び、統率したそうです。 しかし、それ以前はどうだったのでしょうか? 元寇があるまでは、九州に幕府の影響力がなかったのですか? 承久の乱の結果として、幕府は朝廷・貴族から奪った所領にも勢力を伸ばしたから、西国にも主従関係を結んだ御家人がたくさんいたはずです。 (もしかして九州はその「西国」に含まれないのでしょうか?)

  • 元寇

    こんにちは。 日本の歴史において、他国の軍隊から2度日本列島に上陸されています。 1度目は鎌倉時代の元寇、2度目は第二次世界大戦でのアメリカ侵攻。 本日教えていただきたいのは、元寇における元軍(元・高麗連合軍)と日本軍の武器・武装のことです。 ウィキ等で調べましたが、あまり記述がありませんでした。 多少、当時の絵巻が載っていたりします。 この当時、北九州で行われた白兵戦での双方の武器はどんなものだったんでしょう。 日本軍は大体戦国時代を想像すればよいでしょうが、特に元軍の武器はなんだったんでしょうか。 ただ、資料によると、~1279年まで南宋にて銃の生産が行われていたようで、元軍は銃を携帯していたのでしょうか。(持っていたら日本軍は堪らなかったでしょうね) 大モンゴル帝国ですから日本軍より近代的な武器を持っていたと思うのですが。 あと、水軍です。 日本の松浦水軍がかなり元軍の船にダメージを与えたようです。 この当時の水軍の武器・武装はなんだたのでしょう。 まだ大砲なんて無いでしょうから、石の投的機みたいなものとか、近ずいて火炎瓶みたいなものを投げるとか。弓、矢の先に火をつけて放つとか。 この時の戦術は別にしまして、双方の地上軍、水軍の武器を教えてください。 元軍の中には支配下の南宋の兵がかなり多くいて鋤、鍬を持っていたとも書いてありましたが。 神風の話は結構です。 よろしくお願いします。

  • 元寇の元軍の武器の「てつはう」はどうして鉄砲なのか?

    元寇(文永の役、弘安の役)での元軍(モンゴル軍)の武器の「てつはう」(てっぽう)という爆弾?兵器はどうして鉄砲(銃)ではないのに鉄砲という名前なのですか? 日本に鉄砲が入ってきたのは室町時代に種子島へポルトガル人の南蛮貿易ですよね。

  • 関西人の国防について

     鎌倉時代、2度に渡って元が日本に攻めてきました。この時身体を張って日本国を守ったのは関東武士団と九州の御家人です。  幕末、薩英戦争でイギリス軍と一進一退の攻防を繰り広げ、その後明治維新の先駆けとなったのは薩摩です。  太平洋戦争で勇猛果敢に戦った兵隊は九州、東北出身者が多いと聞きました。  これに対して、元寇に関西人が勇猛に戦ったとは歴史上聞いたことがありません。また、明治維新の動乱で列強と関西人がやり合ったとは聞いたことがありません。さらに日清戦争、日露戦争で関西人が指導的役割を果たしたとは聞いたことがありません。また、太平洋戦争で大阪第4師団は勝ち戦にはめっぽう強いが負け戦には及び腰だと聞きました。  そこで質問です。日本国の国難のとき、関西の人たちが身体を張って日本国を守った歴史ってあるのでしょうか

  • 日本と言う国は、この先どうやって行くべきか

    日本、初めて外国から侵略を受けけたのが、鎌倉時代。 いわゆる元寇です。 モンゴルの西洋文化を取り入れた「てつはう」と「投石器」によって御家人を 筆頭に鎌倉武士や九州の武家は壊滅的な痛手を負いました。 そして、豊臣秀吉の朝鮮出兵の失敗によって、地の利は相手側にあることを 思い知らされました。 それから、日露戦争に新兵器がロシア軍に現れ、バルカン砲というガトリング 砲を上回る性能の機関銃に日本兵は死傷者を重ねる一方だったのです。 そして、太平洋戦争はゼロ戦の活躍もあって初戦は有利に運びましたが、中盤 以降はアメリカの大量爆撃に晒されて押される一方でした。 こうしてみると、日本と言う国は外国の優れた武器に翻弄されて、死屍累々の 惨状を重ねながら外国に学び、追いついていった経緯があります。 これは、単に戦争というものだけではなく、明治維新の際や戦後復興の際も 見られたことですが、外国の文化を取り入れて成功した先人の知恵があったよう にも思えます。 日本は平成の時代を終えて新しい時代を迎えようとしています。 この先、どんな知恵や思想を持って日本人は生きていくべだと思いますか。 ご回答をお願いします。

  • 再発見されている歴史についての本

    先日、日テレのTV番組や、NHKの教育番組で放送していたのですが、 私の学生時代の歴史の教科書が書き換えられているという事。 仁徳天皇陵が、埋没者不明で地名の大仙古墳になっている事。 足利尊氏の絵が一武士。 鎌倉幕府は1192年ではない事。 など、いろいろ放送していました。 こういうのまとめた本って出版されてないのでしょうか? お勧めありましたらよろしくお願いします。

  • [のだめ]エリーゼ役は誰がやってるの??

    のだめカンタービレ、毎週楽しく見ています! 漫画の面白い所が、ドラマではやってないのが悲しいです・・・。 11月13日の放送では『ミソ字』とマングースの説明がないのが 残念でした・・・。 タイトルの通りなんですが、 エリーゼの役は誰がやっているのでしょうか?? 宜しくお願いします。

  • アリー役 キャリスタ・フロックハートについて

    何かと私生活の方が最近話題になっていますが、最近、彼女の年齢を見てびっくりしました。 現在、39歳なのですね。NHKで放送されたドラマのアリー役では現時点で推定33歳ぐらい(今も放送されていたら)なのですが。撮影時から30歳を超えていたという事になるのでしょうか? アメリカ放送と日本の放送でも時差のようなものがあったのでしょうか? アリーが30歳の誕生日を迎えるにあたって悩むシーンなどがありましたが、(次の年の放送でも31歳の誕生日に悩んでいた)実際はあの放送時は彼女は何歳だったのでしょうか? 詳しい方、是非、教えてください。 宜しくお願いします。