- ベストアンサー
元寇以前の九州武士と、鎌倉幕府の関係
- みんなの回答 (1)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
九州の特殊事情は、大宰府という中央官庁の派出所が古代から権威の中心として機能していたことです。 中央から大宰府へ派遣された退官者の一部は、京に戻らずに在地武士団として基盤を築きました。これら大蔵氏系(秋月、原田、高橋、江上、田尻、菊池など)が北部九州を支配します。一方で荘園から生まれた武士団もあり、松浦党やその他中小の豪族(各地の地名となっている)、さらには古代から神宮司を務めた宗像や阿蘇などといった宮司家も勢力を築いていました。 これら九州の武士団は、承平・天慶の乱の鎮圧に活躍がみられ、平家政権が誕生すると、鎮西の武士はこれに協力することで、国司として任命されたり、その荘園管理を代行したりして結びつけを強めていました。で、平家が没落すると、これらは地位を失い、変わって鎌倉幕府から派遣されてきた「下り衆」と呼ばれる武士団が地頭職などを拝領して、入り込んできます。 下り衆の中には、有名な那須与一の一門もおり、平家伝説にも登場しますが、下り衆は、鎌倉幕府との直接的なつながりをいいことに、在地の豪族と各地で紛争を起こしていて、九州の各地は小さな内戦状態がかなり長い間続くことになりました。これは九州地方の特徴です。 下り衆は、その後の主要な武士団を形成するわけですが、そのなかでももっとも重要な者が、九州三人衆とよばれるようになる、少弐武藤、大友、島津の三家です。武藤家はもとは平知盛の家人から投降して源氏に鞍替えして、奥入り合戦での活躍で、頼朝によって鎮西奉行に抜擢された人物で、太宰少弐の官途を獲得したことから、後には少弐氏と言われるようになりますが、大宰府の管理を任されることになります。また大友と島津はそれぞれ頼朝の落胤伝説のある家で、頼朝の遺志によりこの三人衆に九州の統治は任されたという伝承が、九州では強く信じられ、それが政治史に大きな影響を残すことになりました。 承久の乱後、鎮西も六波羅探題の管轄に入りますが、元寇のときに現地で実戦を指揮した主将は、少弐一門(資能・経資)と大友頼泰でした。北条氏の九州への勢力拡大も進み、六カ国の守護職を北条一門で占めるようになりますが、元寇においては、九州武士団は恩賞をめぐって騒乱をおこしたため、北条実政が初代の鎮西探題として派遣されることになります。これが鎮西探題と大宰府という二元支配をうむことになり、三人衆と北条氏の対立の下地になるものでした。
関連するQ&A
- 「外交」における朝廷と幕府の関係
上記のことについて、「元寇」に関して、調べておりましたら、ネットで、下記のような記述がありました。 記 高麗国使の藩阜は、元国書と高麗国書を少弐資能に渡し、資能は鎌倉幕府の御家人ですから元国書と高麗国書を鎌倉に送ります。さらに、幕府はこの国書を朝廷に回送しました。 なぜ、幕府は朝廷に回送したのでしょうか?これは幕府が決断に悩んだとか面倒に感じたからではなく、外交は朝廷の仕事だったからです。 鎌倉幕府はあくまでも東国の地方政権と朝廷の軍事部門の集合体のようなものです。江戸の幕末、井伊直弼が朝廷に相談なく独断で開国したという話がありますが、外交は朝廷の仕事なのです。幕府が勝手に決めることは出来ません。幕府の意向が反映されるとしても朝廷の仕事です。 教えていただきたいのは3点です。 1 鎌倉時代、「外交は朝廷の仕事だった」のでしょうか??? 2 幕末期においても、「外交は朝廷の仕事だった」のでしょうか??? 3 私自身は、「そんなことはないだろう、幕府を甘く見ちゃいけないよ。ただ、鎌倉幕府の外交はお粗末すぎる。」と感じているのですが、上記のように、鎌倉時代、江戸幕末期において、「外交は朝廷の仕事だった」としたら、その根拠、あるいは経緯は何でしょうか???
- ベストアンサー
- 歴史
- 鎌倉武士は漢字が読めなかった?
鎌倉武士は武力のみで幕府を樹立させた。 よって学問教養は全くなかった。 それを知らしめるエピソードがある。 これは鎌倉幕府が成立して39年後。 後鳥羽上皇が幕府征伐を企てた、承久の乱の時のことである。 この時北条泰時が鎌倉から武士を率いて京都に攻め入ったが、この時朝廷から講和文書が下された。 漢文で書かれていたが、大将の泰時は読めない。 そこで家来を集めて言った。 「誰かこの文書を読める者はおらぬか」 すると部下の岡崎兵衛尉が「武蔵国(今の東京・埼玉)の藤田三郎なら、読めると思います」と返事をした。 5000人の兵の中で、漢字を読めたのはたったの1人!武士の大半は平仮名しか読めなかったようである。 とありますが、この逸話は事実でしょうか? この逸話が載っている文献は何ですか?
- ベストアンサー
- 歴史
- 鎌倉初期の西国武士の勢力
ある歴史の本を読みましたが、そこには承久の乱以前の西国では荘園領主(いわゆる皇室、公家、社寺)の力が強かったので武士の土地支配は未熟だった旨の記述がありました。 そこで質問します。なぜ、またどのくらい荘園領主の力が強かったのでしょうか。相変わらず在地地主(実際に荘園を管理している現地の有力者の意味)は荘園領主に搾取されていたのでしょうか。西国に幕府の力が及んでいなかったとはいえ、在地地主は武力を持っていたし、平安時代に比べ荘園領主からかなり取り分を奪っていたと思うのですが。げんに東国では武士が自分たちによる土地所有、収益権を実現しています。 自分では以下のように推理したのですが、この件に詳しい方がいらっしゃれば、誤りの指摘も含めてご教授願います。 (1) 西国武士も自身による土地支配を望んでいたが、彼らの権利を保障して くれるであろう鎌倉幕府の傘下に入る気がしなかった。これは西国武士と 源氏の主従関係が希薄であったためである。 (2) 西国では、在地地主は荘園領主に抵抗できるほど武装化していなかっ た。
- ベストアンサー
- 歴史
- 【承久の乱】 日本の統治権が武士に移ったのはいつの時代から?
「本能寺の変」は明智光秀が起した反乱ですよね? 言い換えれば「明智光秀の乱」でも通じます。 では「承久の乱」は後鳥羽上皇が起した反乱ですか? その当時は日本国の統治権はすでに朝廷になく、鎌倉幕府あった。 つまり貴族ではなく「武士」にあったと解釈していいですか? 日本の統治権が武士に移ったのはいつの時代からでしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史
- 承久の乱後の朝廷もしくは院について
鎌倉幕府が政治の実権を握るようになり、承久の乱によって後鳥羽上皇が倒された後も朝廷、もしくは院が政治を行っていた証拠として、承久の乱以後に出された公家の公式な文書、または命令文のようなものを探しているのですが何かよい資料はありませんか?できれば、承久の乱後に近い年のほうがいいのですが。
- ベストアンサー
- 歴史
- 公武の二元政治(鎌倉時代)
歴史の参考書で、鎌倉時代に、よく下図の二元政治が出てきます。質問なのですが、 (1) 「公家と武家がそれぞれに統治していた」とありますが、これは、「それぞれ別の地域の公領・荘園を、朝廷は国司を通じて、幕府は地頭を通じて統治をしていた」ということですか?それとも、同じ公領・荘園を両方が統治していたということですか? (2) また、それぞれ別の地域を統治していたということであれば、朝廷と幕府の「すみわけ」はどのようになっていたのでしょうか? (3) 「承久の乱」によって、朝廷と幕府による二元政治が終焉した、とあるのですが、このとき「国司」はどうなったのですか?
- ベストアンサー
- 歴史
お礼
ありがとうございます。 よくわかりました!