終末期の死の迎え方について

このQ&Aのポイント
  • 終末期の死の迎え方について悩んでいる方への相談です。認知症発症から14年経過した母親の食事の問題についての悩みや、「自分で食べられなくなったらおしまい」という考え方とそれに関連した胃瘻の問題についての質問をしています。
  • 母親の食事に関しては、食事をとらせるのが技術的、手間的に困難であるが、食べさせることができれば今のところ命に別状はないと思われると述べています。一方で、「自分で食べられなくなったらおしまい」という考え方については、胃瘻を行うことも含まれるため、「延命治療」に該当するかどうか疑問を抱いています。
  • 質問者の希望は、延命治療はしないが、自然に生きられる間を生きてほしいというものです。しかし、自然に生きる定義や、介護での支えが困難になる可能性についての問題点も指摘しています。また、不適切に寿命を縮める行為や安楽死の問題も考えなければならないと述べられています。最後に、可能な限り幸せに生きて、楽に死んでいくことを願っていると述べられています。
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終末期の死の迎え方について

認知症発症から14年経過した母親がいます。最近食事をとらせるのにものすごく苦労しています。一般的に「自分で食べられなくなったらおしまい」という線引きもあると思います。延命治療はしない方針だったのでそれでいいと思っていました。 しかし最近、そのとおりにすると不当に寿命を縮めるような気がしてなりません。何をどう理解し、どう考えればいいか相談させて頂きたいと思います。 ・会話不可。一言も発しなくなって3年。覚醒時は目は開いていて意識はある。 ・今日は昼ご飯をキザミ食で食べさせるのに3時間かかりました。 ・どうしようもない時はエンシュアなど栄養ドリンクで補っています。 ・食べない(食べるのに時間がかかる)原因はいろいろです。ご飯の最中も認知症でぼーっとして口が開かない時間が長かったり、頻繁に寝てしまったり、拒否だったり、L-ドパの副作用で多動(ジスキネジア)、その他もろもろ。 ・本人の食べる体力や咀嚼する力及び飲み込む能力、消化能力は十分保たれています。誤嚥もしません。 平たく言うと、食べさせるのが技術的、手間的に著しく困難だというだけの事で、それさえクリアできれば今のところ命に別状はないと思われます。 普通は誤嚥性肺炎など選択の余地がなくなるので悩まないのですが、そういうものが無いので生きているうちに介護が事実上困難になるのではないか心配しています。 ===質問=== こういう場合、エンシュアですら飲まなくなったら胃瘻を行うのはいわゆる「延命治療」に該当しますか? 逆に「自分で食べられなくなったらおしまい」を実行したら、不適切に寿命を縮める行為ですか? ======== 私の希望は「延命治療はしない。自然に生きられる間を生きてほし。そして自然に生きている間は痛い、苦しい、ひもじいなどの思いをしないよう全力でサポートする」というものです。 その希望の問題点は、「そもそも”自然に生きられる間”の定義が難しい」「”自然に生きている間”を介護で支えるのが事実上困難になるのではないか」という事です。 寝たきりで会話不可であっても意識のある人に「自分で食べられなくなったらおしまい。胃瘻をしない」を実行するのって本人はひもじい思いをするのではないのか。それに、不適切に寿命を縮める行為、もっと言えば安楽死ではないのか(いや餓死は安楽と言えるのか?)。 逆に苦しまずに死ねる急性疾患(脳梗塞とか?)で死を迎えられるのなら、緊急搬送→TPA注射などせず、そのまま死なせてあげるのはありかもしれないとも思います。 自然に生きられる間を可能な限り幸せに生きて、楽に死んでいってほしいと願っています。可能な限りピンピンコロリに近い最期になればよいと思います。

質問者が選んだベストアンサー

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  • takochann2
  • ベストアンサー率36% (2022/5565)
回答No.2

 そうですね、判断は難しいです。病気を治すという医学的判断で治療をするのではなく、患者さんの死生観や家族の考えか治療方針に反映されますから。現時点で患者さんの考えを最もよく知っているのは家族であるので特に難しいです。医療関係者にできることは現状の説明と、選択した治療法でどのようなことが今後想定されるかを話すことくらいです。  主治医や担当看護士などとなんでも相談してください。ただ、一度胃瘻などは導入すると、もし中止したくなった場合に、導入よりも中止の方が判断は難しくなるし、導入の時よりも心が苦しいので注意が必要です。

subarist00
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。おっしゃる通りで「とりあえず胃ろう」みたいな場当たり対応しているとかえって追い込まれます。胃ろうにすれば解決、終わり、じゃないって事なんですよね。 先の事を読まなければいけないという事は未経験者だからハードルが高いのだと思います。それだけじゃありませんが、経験に学べば少しはハードルが下がるのでしょう。

その他の回答 (1)

  • takochann2
  • ベストアンサー率36% (2022/5565)
回答No.1

意識がほとんどなく、口喝や空腹などの生理的欲求もなく、食事の希望もなければ、食事を中止し自然な最期を迎えるのは一般的で問題はないです。本人は苦痛なく最期を迎えるでしょう。不当だと感じるなら胃瘻を検討されればよいでしょう。

subarist00
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。問題の答えがわからないという以前の問題で、何を問題としたらよいのかわからない状況です。で、いろいろ検索して読んでいるのですが、やはり結局は自分で考えて判断するしかない、という事のようです。 以前は「自分で食べられないという事はそれだけ弱っているのだろう。だから食べていたとしても遅かれ早かれだろう。」と思っていたのですが、その時が近づいてみると必ずしもそうとは限らない、と思えてきました。 「食べられなくなったらおしまいでいいや」というのは、死期は向こうからやってくる前提で思い込んでいたわけですが、実はそれは死期が向こうからやってくるわけではなく、場合によっては自分で死期を選んでいるのではないかと思えてきました。 検索していて下記をみつけました。 社団法人 日本老年医学会 高齢者ケアの意思決定プロセスに関するガイドライン 人工的水分・栄養補給の導入を中心として https://jpn-geriat-soc.or.jp/proposal/pdf/jgs_ahn_gl_2012.pdf 結局のところ家族は自分で理解し判断せよ。専門家は自分の考えを押し付けず、家族が何度も考え方を変える前提で付き合え。そんなところでしょうか。 なぜ難しいのかというと、まず本人の現在の状態ですら分かったという確信が持てない事、さらに先々どのように変化するかも千変万化な上に、先々の状況を考えて判断せざるを得ない場合もあり得ること、さらに感情的なものとも無縁ではない事。 医学的に状況が明らかであったとしても、どうしたいかは感情的な部分で差は出ると思います。明確にさよならを言って別れたいか、寝ているうちに気づかずそのまま逝ってもらったほうが本人は苦しまず、怖くなく、寂しくなく死を迎えられると考えるか。 その意味ではうちの場合、会話ができなくなって3年。明確にさよならを言って別れるという選択肢はとっくにありません。ただ目は開いていてまだ意識はあるし、たまに呼びかけには反応します。でも、今回の反応が最後かもしれません。最後の反応がいつになるのかもわかりません。でもともかく何を理解すればいいのかすらわからないので、ともかく問題を整理して、何が課題なのかを明らかにする事だけでもしようと文章化していますが、書いているうちも涙が止まりません。 一つの方法論として、あとから振り返ってみて「あの時まで生きればよかった」ということがわかるとすれば、そのように予定を立ててそこまでは延命でも何でもやって、その時が来たら終わらせるという選択肢はありだと思います。やはりがんが進行するような場合に比べて認知症は時間が長く、先々本人の容体がどう変化していくのかがわからないから難しいのかな、と思います。

subarist00
質問者

補足

訂正です 「食べられなくなったらおしまいでいいや」というのは、死期は向こうからやってくる前提で思い込んでいたわけですが、実はそれは死期が向こうからやってくるわけではなく、場合によっては自分で死期を選んでいるのではないかと思えてきました。 ↓ 「食べられなくなったらおしまいでいいや」というのは、死期は向こうからやってくる前提で思い込んでいたわけですが、実はそれは死期が向こうからやってくるわけではなく、場合によっては「自分で死期を選んでしまう」「しかも自分が選んでしまったことを食べられなくなった時に初めて気づく」のではないかと思えてきました。

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