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「徳川家」の家臣や侍女など支える人たちのご飯は

「徳川家」の人たちの重臣や側近、侍女や支える人たちってどうやって「ご飯を食べてた」んでしょうか?各藩からの「献上品」だけではとても足りないと思うし、合戦事となると食糧や武器にお金がかかると思うんですけど、各所からの年貢や献上品だけで生活って可能だったんでしょうか? もしも、米などの年貢を藩士などが「買い取る」場合は、農民にお金を払わないといけなかったと思うけどそのお金ってどうしてたんでしょうか? 何処かで「商売事」をしてたとか?それか、どこぞのマイナイやら税金でご飯食べてたとかでしょうか?もしも百姓の場合お金に変えてくれないと生活もなにもできなかったのでは?

noname#246748
noname#246748
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回答No.3

主君から知行地を与えられてそこからの年貢で生活するのが基本の形です。高禄の家来(大名旗本クラス)はこの基本の形のままですが、それよりも身分の低い家来は蔵米(年貢で納められた米)を支給していました。この米で生活するのです。米以外のものが欲しい場合には米を売って金に換えその金で物を買います。ただし後の時代になると蔵米そのものの支給ではなく蔵米を売った金を支給されるように変わってきました。 > 各所からの年貢や献上品だけで生活って可能だったんでしょうか? 献上品は微々たるものですが、年貢は膨大です。上記のように年貢で生活するのが基本です。 > 米などの年貢を藩士などが「買い取る」 年貢は買うものではありません。税金のように百姓が領主に収めるものです。領主の家来は領主からの支給されます。

noname#246748
質問者

お礼

なるほど、詳しく教えてくださりありがとうございます。

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回答No.2

江戸時代の徳川家の所領は関東一円ですが、駿府や伊豆、房総、な どと上州、日光、茨城の一部などは雑居地になっていて、その為 関東取締役、つまり、八州回りという役職があり、年貢の不正 があるかないかを調査していました。 この広大な土地を徳川家だけでは制御できないので、代官制度と いうものがありました。代官はその土地から年貢を取り、それを 徳川家に献上することで役職を果たしていたのです。 つまり、悪代官というのは、この年貢を横取りしていたという ことですね。当時の農民はあまりに年貢の取り立てが高く、江戸 表に直訴するものもいたようですが、直訴は御法度という決まり を破るのですから、斬首は覚悟の上でのことです。 徳川家が財政的に逼迫していたのは事実ですが、それは飢饉による 年貢の取り立てが東北地方でできなくなっていたので、伊達藩 や上杉庄内藩などが疲弊していた訳で、それからの献上米が現金 に変えられないほど少額だった。ということですね。 ちなみに長州藩は当時、豊作でした。

noname#246748
質問者

お礼

なるほど、そういうからくりがあったんですね。ありがとうございます。

  • rikimatu
  • ベストアンサー率19% (628/3297)
回答No.1

武士などの給料支給は 知行取り(単位は石)  知行取りは主として旗本に対する支給方法である。  旗本は200石以上御目見え以上の者をいう。  旗本は知行地を治める能力ありとされて、そこから年貢を取ることを許されるのである。年貢の割合は、四公六民から五公五民が普通であったから、200石取りの旗本であれば四公六民として80石が取り分、120石が農民のものということになる。この80石のうち、実際に食べる分だけを現物納入させ、残りは現地で金に換させて金納させた。 蔵米取り(単位は俵)  蔵米取りは主として御家人に対する支給方法である。  これは、玄米が直接支給されるということであるが、2月に1/4、5月に1/4、10月に2/4というように分けて支給された。(切米)  例えば、200俵取りの御家人であれば、石に換算すれば1石=2.5俵であるから80石となる。つまり、200石取りの旗本と200俵取りの御家人では計算上の手取り給与は同じとなる。 現金支給の3種類で何も農家から買うのではなく商人から買っていたと思います。お金にしても米を商人に売っていたのでしょう

noname#246748
質問者

お礼

ありがとうございます。

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