- 締切済み
紀州徳川家家臣団
- みんなの回答 (1)
- 専門家の回答
みんなの回答
- hena-hena
- ベストアンサー率72% (8/11)
紀伊家の家臣団は大きく分けて3つ、 1つ目は「お附衆」と呼ばれる、家康から付与され紀伊家の家臣になった者。 2つ目は新規召抱えされた浪人。 3つ目は地士です。地士とは郷士の事で領地内の名族や旧家から選ばれ召抱えられた者を指します。 家臣団の中核となったのは「お附衆」で全家臣の5.5%に当たります。 お附衆の中で特に有力だったのが安藤直次、水野重央、三浦為春、久野宗茂の各家で 禄高も群を抜いていました。 それに水野太郎作家を加えて「紀州藩五家」と呼ばれ代々家老を世襲していました。 召抱えられた浪人は後北条氏、福島氏、尼子氏の旧臣や武功の浪人などがいました。 中でも福島正則の旧臣・大崎長行が家禄1135石で筆頭格とされました。 地士は家禄50石の「六十人者地士」30石の墨田党の子孫を中心とした「墨田地士」などがいました。
関連するQ&A
- なぜ紀州・尾張・水戸/徳川御三家
いつもお世話になってます。 ふと疑問に思ったのですが、徳川御三家の領地はなぜ紀州・尾張・水戸なのでしょうか。 大阪でも京都でもなく。 「交通の要所」って訳でもなさそうですし、「仮想敵国」に対する「睨み」にもなってないような・・・。 ご存知の方がいらっしゃいましたらお付き合い下さいませ。
- ベストアンサー
- 歴史
- 徳川家重の生母・お須磨の方の父と母について
9代将軍・徳川家重の生母・お須磨の方の父と母の地位や身分は、紀州藩家臣の中では高い方だったのでしょうか? 徳川家重の生母・お須磨の方の父と母が、どれぐらいの地位や身分だった(どれぐらいの高さだった)のかを教えてください。
- ベストアンサー
- 歴史
- 須磨(須摩)は、いつから徳川吉宗に仕え初めたのか?
徳川吉宗の側室で、9代将軍・徳川家重の生母である "お須磨の方(須摩)" は、いつから徳川吉宗に仕え初めたのでしょうか? 吉宗が紀州藩主になるよりも前でしょうか?、後でしょうか? お須磨の方(須摩)は、いつから徳川吉宗に仕え初めたのかを、教えてください。
- ベストアンサー
- 歴史
- 徳川光貞が亡くなってから源三が生まれるまでの期間は
徳川吉宗の実父で、紀州藩の第2代藩主である “ 徳川 光貞(とくがわ みつさだ)” が亡くなってから、徳川吉宗の三男(生母は深心院(お梅の方))である “ 徳川 源三(とくがわ げんぞう)” が生まれるまでの間の期間は、どのぐらいの期間(何年と何ヵ月と何日)あったのでしょうか? 徳川吉宗の実父で、紀州藩の第2代藩主である “ 徳川 光貞(とくがわ みつさだ)” が亡くなってから、徳川吉宗の三男(生母は深心院(お梅の方))である “ 徳川 源三(とくがわ げんぞう)” が生まれるまでの間の期間は、どれぐらいの期間(何年と何ヵ月と何日)あったのかを教えてください。
- ベストアンサー
- 歴史
- 戦国時代など、中堅の家臣の人を下の立場から呼ぶ時は
戦国時代に限らなくても良いのですが、昔は中堅の家臣の人を目下の人はなんと呼んでいたのでしょうか? 例えば真田幸村は、特に大阪の陣の時に至っては、「若」とか「家老」のような身分や立場など一切ないでしょうが、それでも配下の者はいましたよね? その配下の者達は、幸村のことをなんと呼んでいたのでしょうか? 「様」付けでしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史
お礼
ありがとうございます。