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遣唐使船について

 天平時代などに数十年おきに遣唐使船が唐にわたっていたと思いますが、当時はろくな航海術もないのにどうやって海を渡っていたのでしょうか。たぶん羅針盤もないと思います。現在の地図でみれば朝鮮半島や中国大陸まではそんなに遠い距離ではありませんが、それを数か月もかかるというのはただの無謀な航海だったのでしょうか。  いったん海に出れば四方八方海しか見えず、どこに向かっているのかもわからないはずです。どうやって目的地に向かっていたのかを知りたいです。よろしくお願いします。

みんなの回答

  • tzd78886
  • ベストアンサー率15% (2590/17104)
回答No.8

日本近海の海流というのは、基本的には列島沿いに南から北へと流れています。つまり大陸から日本へ戻るのなら流れに沿えばいいですが、日本から向かおうとすると逆らわ無ければ行けないのです。逆に陸地から離れてしまうと逆流があるので南に流されてしまうことになります。フィリピンや小笠原諸島に漂流者が流れ着いた話はたくさんあります。当時の船というのは今とは比較にならないくらい小さなもので、今で言えば瀬戸内海で日常生活に使われている渡し船程度の大きさでした。そんな小さな船で海流を横断しようというのですから今の常識で考えれば無謀もいいところです。

rpg9
質問者

お礼

なるほど潮の流れの逆をついていたんですね。 それでは難破するはずですね。当時の航海術もろくにない時代に海を渡ろうとするのは相当な勇気が必要だったでしょうね。ありがとうございました。

  • D-Gabacho
  • ベストアンサー率64% (1077/1673)
回答No.7

遣唐使が日本を出発してから最終目的地である唐の長安に着くまでには、おっしゃる通り何ヶ月もかかっていますが、これは東シナ海を何ヶ月も漂流していたということではありません。 一例を挙げれば、宝亀8年6月24日に五島列島を出発した遣唐使船は9日後の7月3日に長江の河口付近にある揚州海陵県に到着。揚州から長安に向けて出発したのは10月15日。長安に入城したのは翌年の1月13日です。 また、天台宗の円仁が遣唐使船で唐に渡ったときは、承和5年6月23日に五島列島を発って、7月2日に揚州にたどり着いています。『入唐求法巡礼行記』を現代語訳したサイトがあり、それを読むと海水の色の変化を見て長江の河口の位置を推測していたことなどがわかります。 http://haijimadaishi.com/nyoirin/%E6%85%88%E8%A6%9A%E5%A4%A7%E5%B8%AB%E5%86%86%E4%BB%81%E8%AE%83%E4%BB%B0%E3%80%8C%E5%85%A5%E5%94%90%E6%B1%82%E6%B3%95%E5%B7%A1%E7%A4%BC%E8%A1%8C%E8%A8%98%E3%80%8D%E7%A0%94%E7%A9%B6/

rpg9
質問者

お礼

詳しい説明をありがとうございます。 URLも参考になりました。こんな記録が残っているんですね。じっくり読んでみようと思います。ありがとうございました。

回答No.6

北欧の海賊🏴‍(ドクロ)️、ヴァイキングは夜の星の位置で、アメリカ海岸まで行ったそうです。

rpg9
質問者

お礼

なるほど星の位置から場所を特定する方法もあるんですね。 ありがとうございました。

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (817/3046)
回答No.5

https://www.google.com/url?sa=i&url=https%3A%2F%2Fwww.weblio.jp%2Fwkpja%2Fcontent%2F%25E9%2581%25A3%25E5%2594%2590%25E4%25BD%25BF_%25E8%2588%25AA%25E8%25B7%25AF%25E3%2581%25A8%25E9%2581%25A3%25E5%2594%2590%25E4%25BD%25BF%25E8%2588%25B9&psig=AOvVaw1IWipgeFKgYawEhs5zBdLF&ust=1600227047852000&source=images&cd=vfe&ved=0CAIQjRxqFwoTCNCU47qc6usCFQAAAAAdAAAAABAD まあ地図見るのが一番でしょう。 URL貼れたでしょうか? ”weblio、の遣唐使>航路と遣唐使船”です。 だめならこれでググってください。 地図のとおり遣唐使が開始された当初は(まあ当初は遣隋使ですが)朝鮮半島の百済国と関係が良好で、ひたすら島伝い、陸伝いでの有視界航行です。 これが百済が滅びて航路がなくなるとさあ大変、朝鮮半島沿岸は敵対国になって使えません。 中国現地にはすでに留学生も居るし、当時は盛唐で中国でもっとも文化が栄えた時期ですし、朝鮮で敵対してる新羅と戦争になったときに備えて唐とも顔つなぎする必要があるし、もう航海技術はないけど遣唐使を辞めるわけにもいかないんですよね。 それで日本最西端の五島列島に行き、そこで風待ちをしていい風が吹いたら遮二無二西につっこむ、運がよければ中国のどっかの沿岸にたどりつくだろうという乱暴な強行突破です。 種子島に漂着してやりなおしとか、沖縄に流れ着いてそこからもう一回突撃とか、福建省にどうにか流れ着いてあとは現地役人に案内をお願いとかそんな感じです。技術は無いけどとにかく行かなくてはいけなかったんです。

rpg9
質問者

お礼

詳しい説明をありがとうございます。 URLも参考になりました。こんな記録が残っているんですね。じっくり読んでみようと思います。ありがとうございました。

  • kappa1zoku
  • ベストアンサー率29% (334/1137)
回答No.4

奈良にある平城京あとの広場に、当時の遣唐使船の復元が作られ置かれているそうです。 復元といっても、当時の船の資料などもないので、他の歴史書の類推以上はでないのですが、おそらくこんなものだったのでしょうくらいは想像できます。 羅針盤はなくても星を見ながら方向性や位置確認は当時でも行っていたのでしょうが、問題は帆や大人数での櫓かきです。当時の船の形状からして、(船底が平らなので波を切って進むことが望めない)とうてい潮の流れや風の威力に対抗できるものではありません。そのために難破する危険性が常にありました。 渡航ルートで一番考えやすいのは、朝鮮半島へ渡って、その岸伝いに中国へのたどり着くという方法です。 当時の新羅あたりが近いでしょう。(朝鮮半島の右側です) 対馬海峡の潮の影響がありますが、これが最初のルートだったと思います。 しかし、新羅が中国唐から独立をすると、日本との関係が良好ではなくなります。つまり、新羅の独立は、一番簡単な唐への渡航ルートの断念に繋がります。 次に考えたのが、東シナ海ルートです。 下記の長崎県五島列島の福江島にある遣唐使の出発地になります。空海の渡航出発の地という記念碑があります。 まあ、そうまでしても、当時の先進文明を手に入れたかったのではないでしょうか。 https://www.travel.co.jp/guide/article/10940/

rpg9
質問者

お礼

詳しい説明をありがとうございます。 URLも参考になりました。こんな記録が残っているんですね。じっくり読んでみようと思います。ありがとうございました。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15297/33016)
回答No.3

 もう優れた回答がありますので、これは寝言です。  佐賀県の「唐津」、長崎県五島の「唐船の浦」などの名前は、遣唐史船が長い航海に備えて最後の食料補給をしたり、風が収まるのを待った港です。  日本を離れる最後になって、生きて帰れないかもしれないのが、急に怖くなり、船から逃げた当時の優秀な学生僧の後裔が五島のお寺に残っていたりします。  その頃の航海の危険さがわかります。「天の原 ふりさけみれば春日なる 三笠の山に出でし月かも」は、まだ帰りの危険を思う心も 感じられます。

rpg9
質問者

お礼

詳しい説明をありがとうございます。 ろくな航海術もない時代に海を渡るのは相当な勇気が必要だったでしょうね。当時の留学僧たちに脱帽です。 ありがとうございました。

  • tzd78886
  • ベストアンサー率15% (2590/17104)
回答No.2

1番の方も書いていますが、当時航海というものは非常にリスクが高いものでした。無事に戻ってきたら船に位を授けたくらいです。日本では「丸」という船が多いですが、これは人と同様に扱ったためだという説もあります。マゼラン艦隊が5席で出発して戻ってきたのは1隻だけだったのはいかに危険だったかという典型です。大航海時代の船乗りというと荒くれのイメージがありますが、そんな人物でなければなろうとしなかったからです。 航海術としては星の位置から方角を定めたりしていましたが、蒸気機関が搭載されるようになるまでは自由にどの方向にでも進めるわけではなく、帆の向きを変えてジグザグに進んだりと大変技術を要する物でした。ガレー船のように人が漕いで進むものもありましたが、あのようなことができたのは地中海など内海の穏やかなところか、海峡のように短い区間に限られています。

  • sutorama
  • ベストアンサー率35% (1688/4747)
回答No.1

まず、知識としては、唐の時代630年から894年まで遣唐使船が18回派遣されましたが、日本に無事に帰ってきたのは、18回中8回に過ぎません そして、航路も朝鮮半島沿岸を迂回して中国に達する航路が開けていたと考えられています つまり、中国大陸から日本を行き来する航路は、ずっと海岸線をたとりながらであり、書かれているように数か月~往復3年(当時の記録)かかっていたようです

rpg9
質問者

お礼

なるほど海岸線をたどりながらだったんですね。それなら目で確認しながら航海できたでしょうね。それにしてもこの時代に海を渡るのは相当な勇気が必要だったと思います。 ありがとうございました。

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