暴力が抑えられない人にとって必要悪なる組織も必要?

このQ&Aのポイント
  • 暴力が抑えられない人にとって必要悪なる組織について考えます。暴走族や暴力団などの反社会的な組織が存在し、それを止めるために昔の芸能界や野球選手、プロレス、ボクシング、相撲部屋なども必要であったと思われます。
  • 暴力は犯罪であり、いじめも許されないことは当然ですが、抑えられない人が存在し、そのタイプは組織によって抑えられるのでしょうか?体罰は許されませんが、暴力的な人に対しては殴ることや闘争心を野球などに向けることが効果的だったのではないでしょうか?
  • 「体罰はいけない」という意見は正当ですが、彼らにとっては暴力による統制が居心地よく感じられるのかもしれません。ただし、生徒のために体罰を行う教師や組織は問題視されるべきであり、力を持った人々が暴力的な組織に順応することは望ましくありません。
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暴力が抑えられない人にとって必要悪なる組織も必要?

暴力が抑えられない人にとって必要悪なる組織も必要? 反社会的な暴走族や暴力団はそうですし、 それを辛うじて止めているのが、昔の芸能界や野球選手 プロレス ボクシング 相撲部屋などもそうだったと思います。 暴力は犯罪で、いじめもいけないのは最もなのですが、 中に抑えられない人種がおり、そのようなタイプが 抑えられるのがその様な組織なのでしょうか? 「体罰はいけない」のですが、この様なタイプは 1 殴り、この人は叶わないと思わせる(占める 焼きを入れる) 2 暴れる精神を野球等に打ち込む事で闘争心があるので   その様な気質の者が使える(今はメジャーな競技も増え  大リーグへの挑戦する選手もいるのでそういえないが、  昔は球技なら野球 格闘技ならボクシングかプロレスか相撲  に限られていたのでそういう感じだったと思います) 3 家でも暴力に慣れているので、この様なタイプの方が使える と云う事なのでしょうか? 「体罰はいけない」「未成年の暴行なども法律で逮捕させるべき」 真っ当な意見ですが、彼らにとっては「暴力による統制」が居心地がよく、それで感情がコントロールされているのでしょうか? 大阪桜宮高校のバスケットボール部の小村氏や島根開星高校野球部の野々村直通氏等はその様な生徒の立場に立ってその思いを発揮させてやりたいと云う事なのでしょうか? 唯、1980年頃私の学校の運動部の顧問は 普通の生徒で仮入部で辞退する生徒に体罰 ついていけない生徒の退部も認めず体罰(結局辞めたが) 残った生徒は血の気の多い暴力的なタイプが多く、 優秀な成績を残してましたが、不良生徒の為に 一般生徒が犠牲にならないといけないのでしょうか? 又、当時は今ほど体罰が問題になりませんでしたし、 罰則や悪い事をすれば仕方ない位に思っておりましたが、 この顧問をする教師は「気合を入れる」「強くする」為に 体罰が必要であると考えており、普通の真面目な生徒で 「唯日常的に殴られるのは嫌」と云う生徒にも 「あいつは根性がない」といい大人しい生徒や特に非道せず 唯暴力的な組織に順応できない生徒にも自分の思いを押し付け ておりました。(戸塚ヨットスクールの校長と似た様な感じでした) 流石に当時でもこれは問題になり、この教師は退部を認めるようになりましたが、不良生徒を生かす道、その様な生徒を統制する為にはこの様な感覚になるのでしょうか? ご回答お願いいたします。

noname#250543
noname#250543

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  • KaneHen
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回答No.1

>>暴力が抑えられない人にとって必要悪なる組織も必要? このような感覚と言う物がいまいちわかりませんが(;^_^A それは多分違うと思います それは本当に反社会的なんでしょうか? 組織なんだから社会性はあると思います・・・当たり前じゃないですか(。´・ω・)? つまり今言われている反社会的勢力と言う物は、今ある社会の法や規則にのっとってみて、著しく反している人やその集まりの事でしょう(・・? つまり手段や方法が法的にも倫理的にも逸脱しているから問題として取り上げられます それが必要か(・・?と問われたら、何とも言いようがありません 何かを得たいなら、それに伴う行動と対価が必要でしょう、必要性の問題ではありません 仮にあなたが働かなくても社会は回ります、仕事をさぼれば誰かが代わりに穴埋めしてくれることでしょう、その結果命にかかわることもあるかもしれない 会社によって求められることも違うでしょう、客に求められること社会に求められることそれぞれ違いがあります、そしてそれに伴う責任の分担方法も違いがあります 誰がいつ誰とどれくらいの人間や規模で接するかそれでも違いがあります ある特定の価値基準がすべてではない、と言う事だけは忘れないでほしい 人が生きてかかわりを持てば社会性が生まれます・・・それを必要悪と言うのであれば 私は人を全否定することはできません

noname#250543
質問者

お礼

ご回答頂きありがとうございます。 組織なんだから社会性はあると思います・・・当たり前じゃないですか(。´・ω・)? 多分、そこで出来る人やはまる人には社会性を有していたという事かと思います。 それであわない人はいても良いと思うが、当時それだけで 「価値無」的な事を云われたので矛盾に思ったのです。 つまり今言われている反社会的勢力と言う物は、今ある社会の法や規則にのっとってみて、著しく反している人やその集まりの事でしょう(・・? 唯、学校の(あくまで私の居た)ルールに反している人の方が上述の部活動の気質などにはまっていたのでそうかとおもったのですが、どちらも反社会ではないということで、 その様なタイプには必要という事だったと思います。

その他の回答 (1)

  • aeromakki
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回答No.2

私はADHDですので、多少他の人よりキレやすい、 人に手を上げるなど、子どもの頃にはしていましたが、抑えられるようになったし、努力で何とかしています。 本物のキレやすい病気持ちが、努力で何とかしているわけです。 それができないなら、全員、精神障害を何らか持っているのでしょうね。 反社会性人格障害とか、自己愛性人格障害とか……。 つまりは、甘えです。 努力を怠っている、甘ったれの集団です。 やるべきは全員、カウンセリングに通わせるべきです。

noname#250543
質問者

お礼

ご回答有難うございました。 私はADHDですので、多少他の人よりキレやすい、 人に手を上げるなど、子どもの頃にはしていましたが、抑えられるようになったし、努力で何とかしています。 今はその様な診断があり、どう振舞うかカウンセリングもあると思います、やはり家庭環境などもありますが、自らの自覚が必要かと思います。 本物のキレやすい病気持ちが、努力で何とかしているわけです。 唯、悪い事とは気づかない人や気付いていても出来ない人も居られると思います。 それができないなら、全員、精神障害を何らか持っているのでしょうね。 反社会性人格障害とか、自己愛性人格障害とか……。 私も、発達障害があると思います(この様な人に順応できず「お前は価値無」と言われた事がトラウマになって 悪いと思いつつも、こだわってしまいます。 やるべきは全員、カウンセリングに通わせるべきです。 それで、私も不充分ながら出来ない自分(自堕落に生きるのではなく)を出来ないなりに来ていく術を付ける事ができましたので。

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