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殿様の分家について

cse_ri2の回答

  • cse_ri2
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回答No.5

はっきり言えば、ケースバイケースです。 分家させてもらう者、家臣の養子となるもの、他の大名家 に養子にいくもの、後継者のスペアとして、捨扶持程度の 禄をもらって生きるものなど、さまざまな実例があります。 家臣の養子となった例として、保科正之の例もあります。 3代将軍徳川家光の弟でしたが、妾の子であり、また正妻 の権力が強かったため、父親からも認知されないまま、 保科家の養子となります。 その後、3代将軍の時代になってから、ようやく将軍の弟 として認知され、家光に引き立てられて会津藩の初代藩主 となりました。 他の大名家に養子に行く例は、多すぎてとても書ききれません。 一例として、上杉鷹山・松平容保をあげます。 後継者のスペアとして捨扶持をもらっていた例としては、 No.4の方の回答にある井伊直弼、幕末の土佐藩藩主であった 山内容堂があげられます。

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