普賢菩薩勧発品 第二十八について

このQ&Aのポイント
  • 法華経の「普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつかんぼつほん) 第二十八」の内容について、分かりやすく解説します。
  • 本章では、お釈迦さまが普賢菩薩に語った、法華経の修行者が身につける4つの法について紹介します。
  • これらの法は、修行者が護念されることや徳本をうえること、正定聚に入り、一切衆生を救う心を起こすことを目指す重要なルールです。
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法華経の「普賢菩薩勧発品 第二十八」について

法華経の「普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつかんぼつほん) 第二十八」の内容について、よく分からないところがあるので教えてください。 この章で、お釈迦さまは普賢菩薩さんに、法華経の修行者が身につける4つの法を語ったそうです。それが以下の4つらしいのですが、 1、諸仏に護念されること 2、もろもろの徳本をうえること 3、正定聚に入ること 4、一切衆生を救う心をおこすこと これらはどういう意味なんでしょうか? 言葉がむずかしくて分かりません。 また、この4つの法というのは、法華経の修行者が身につける「べき」ルールなんでしょうか?もしくは、法華経の修行者が自然と身につけることになる性質みたいなものなんでしょうか? 詳しい人がいらっしゃったら、ぜひ教えてください。 よろしくおねがいします<( _ _ )>

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  • marukajiri
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回答No.1

普賢菩薩の問いに対して、お釈迦さまは法華経の教えを修行するうえで大切な四つの項目を説かれました。この四法を成就することができれば、仏の滅後においても法華経の教えを得ること、つまり真理を理解することができるであろうと答えられたのです。 ご質問は「四法」についてですね。一つづつ解説していきましょう。 第一は諸仏護念(しょぶつごねん) これは、いつでもどこでも仏さまと一緒、どんな時どんな所においても必ず仏さまは見ていて下さる、護っていてくださるということを本当に心から信じたら、必ずそうなるということであり、まず自分は諸仏に護られているということを信じることが大事だといっています。 第二は植諸徳本(じきしょとくほん) 徳の本を植えるとは善根を植えるということ。言い換えれば、陰徳を積むということです。人に知られようが知られまいが、そんなことはまるで関係なく、こつこつと善の根を植えつづけるということが大切なことなのです。努力し続けることも必要なのです。 第三は入正定聚(にゅうしょうじょうじゅ) 正定聚というのは信心が決定(けつじょう)しているということです。信心が正しく定まっているということは自分勝手に決めてかからないということであり、自分本位に受け止めないということです。つまり、仏さまの教えのままに生きるということです。解釈によっては、良い縁を大事にして、志を同じくする人と関りや交わりを積極的にしていきなさいとも読み取れます。 第四は発救一切衆生(ほつぐいっさいしゅじょう) 自分の信心というものが定まったら、今度は一切衆生を救ってあげようという仏さまの慈悲が自分の行いになってこなければならない。慈悲や思いやり、感謝の心が元となって行動としてあらわれるのです。宮沢賢治が「世界全体が幸せにならなければ個人の幸せはない」と言ったのは、まさにその通りで、そういう生き方が法華経の生き方なのです。 第一から第四まで見ていくと、これは順番に修行者が行っていくべき道筋のようになっています。まとめてみると、私たちはいつでも、どこでも、仏の慈悲の中におかれています。これを信じなければ何も始まらないのです。そして善根を植えるということや、陰徳を積むということを行っていくのが修行者たるものです。そしてそのことによって信心が正しく定まることになるのです。そうすればおのずから慈悲の心も発動し、大勢の人を救いたいという思いが強くなっていくでしょうし、それは行動となってあらわれて来るでしょう。 法華経の修行者は、この四法を成すことが大事なのです。これを四法成就の教えといっています。これは自然と身につくものでは無く、ルールでもありません。人は時には迷い、間違ったことをしてしまうこともあります。そういう時は、原点に戻り四法の第一番目から順番に自分の心に問いかけ、お釈迦様の言われたことを守っていただろうかと反省すれば、正しい道に戻ることができるのではないかと思います。 お釈迦様が最初から、世の中全ての人を救いたいと思ったのではないでしょう。そういう悟りに至る道には順番があるし、段階を経ないとわからないこともあるでしょう。四法は、それを短い言葉で、わかりやすく示されたものでもあると思います。読み解く人のレベルが上がるほど、経典の言葉は深く重いものであることが理解できるようになると思います。

windows723
質問者

お礼

回答ありがとうございます。とてもシンプルな解説で、大変よく分かりました!法華経の修行者にとっての大切なポイントということだったのですね。

その他の回答 (1)

  • apple1963
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回答No.2

最初に回答されているmarukajiriさんが完璧な回答をされています。 私の投稿は余談になります。 日蓮宗の相伝によれば、勧発品の四法は方便品の四仏知見に該当しています。それぞれ「開仏知見・示仏知見・入仏知見・悟仏知見」に配当されます。 つまり、四法がそのまま法華経である、という事です。言い換えれば、これを実践する事が法華経を受持する、ということになります。

windows723
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >勧発品の四法は方便品の四仏知見に該当しています。それぞれ「開仏知見・示仏知見・入仏知見・悟仏知見」に配当されます。 ここがよく分かりませんでしたが、要するに、 >つまり、四法がそのまま法華経である、という事です。 こういうことだということですね。 「普賢菩薩勧発品 第二十八」は、法華経の核のようなものだったんですね。

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    鎌倉の鶴岡八幡宮の「鎌倉国宝館」の東大寺展に行ってきましたが、作品解説に下記のように書かれていました。 「地蔵菩薩は釈迦の死後、56億7千万年を経て、弥勒菩薩が出現するまでの無仏時代に人々を救うと言われ、特に地獄に落ちた人を救済してくれる菩薩として、広く信仰されている」 この考えを書いた仏教の経典を教えていただければ、幸いです。 鎌倉なので鎌倉五山がある禅宗かもしれません。 補足として、現在頭がこんがらがっているので、如来と菩薩の違いを簡単に教えてください。 再来するのは、お釈迦様(如来)ではなく、弥勒菩薩なのでしょうか。 このようなことをお寺で質問すると、檀家でない人には答えられません、とか、修行に身なので分かりません、と言われます。 よろしくお願いいたします。

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     または 《南無妙法蓮華経》は 真実の神ではないのか? と問います。  あらためて次の日蓮氏の著わした文章の中から ふたつの主題を取り上げて問います。  中で (ε)と(η)のひとまとまり および(κ)です。  なお ≪神≫と言ったのは ダルマ(法)もしくはダルマ・カーヤ(法身)のことを言います。  ◆(日蓮:当体義抄) ~~~~~~~~  http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.ph …  (α) 南岳釈して云く   「一切衆生・法身の蔵を具足して仏と一にして異り有ること無し」、    ☆(α‐1: bragel. ) これは ブラフマン神とアートマン霊我との一体を         表わす≪梵我一如≫として 一般化して捉えてよいと考えます。  (β) 是の故に法華経に云く   「父母所生 清浄 常 眼耳鼻舌身意 亦復如是」  (γ) 文、又云く   「問うて云く      仏・何れの経の中に眼等の諸根を説いて名けて如来と為や、    答えて云く    ( γ‐1) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして     清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す」    ☆ ( γ‐1 )=( α‐1)です。  (δ) 文、他経に有りと雖も 下文顕れ已れば 通じて引用することを得るなり、大強精進経の同共の二字に習い相伝するなり   (ε) 法華経に同共して信ずる者は 妙経の体なり    (η) 不同共の念仏者等は 既に仏性法身如来に背くが故に 妙経の体に非ざるなり、  (ι) 所詮妙法蓮華の当体とは 法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身 是なり、  (κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩業・苦の三道〔が〕 法身・般若・解脱の三徳と転じて 三観・三諦・即一心に顕われ 其の人の所住の処は常寂光土なり、  (λ) 能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは 日蓮が弟子檀那等の中の事なり  (μ) 是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり 敢て之を疑う可からず 之を疑う可からず、  ~~~~~~~~~~~~~~~  (1) まづ(α)から順に説き進むその内容は (α‐1)として解釈したごとく:   ○ 一切衆生 悉有仏性 (法華経)  ということだと理解します。《ひとは誰にあってもブッダター(仏性)がやどる》と。  (2) ところが その《任意の或る人》が ここではふたつの種類に分かれます。   (ε)  法華経に同共して信ずる者   (η)  不同共の念仏者等  すなわち 前者は《仏性を宿すひと》であるが 後者は  ◆ (η) 既に仏性法身如来に背くが故に妙経の体に非ざるなり  と言います。この一文の意味を問います。  (3) 《妙経の体に非ず》というのは    (3-1)  一般の《仏性を宿すひと》であり続けているが 《その仏性の発現が妨げられているだけ》というのか? それとも  (3-2)  人と生まれて宿していた仏性が或るとき真実のブッダ(ないしダルマ)に背いたがゆえに 《腐った種や煎られた種のように》  もはや芽を出し得ないというのか?  (4) もし後者=(3-2)だとした場合  それでも 法華経・如来寿量品第十六の《文底における独一なる本門》としての南無妙法蓮華経なるチカラは 真実の神――(μ) 《自在神力》――であって 普遍であり遍在であり 一方で時には依怙贔屓をすることはあっても 他方で基本的に言って 人にやどった仏性の発現をわざわざ抑えることはしない。のではないだろうか?  (5) この疑問は (κ)の文章につながります。    ◆(κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人  (6) ひとつに確かにここで《正直に方便を捨て》とあります。つまり 先ほどの念仏者等は《方便のオシヘを捨てていない》。  けれどもそれにもかかわらず 当人は《真実の神》だと信じている。    《方便を捨てていない》のではなく 《方便をとおして――そのオシヘは〔特に親鸞にあっては〕どうでもよいとして捨てており――真実の神に就いている》。  のだとしたら その真実の神である南無妙法蓮華経なるチカラは 念仏者等の仏性の発現を押さえて いぢわるをするといった気遣いはない。のではないであろうか?  (7) ◆(κ) 但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる  ☆ とは どういうことか?    (7‐1) 《法華経を信じ》というのは そのオシヘを信じることは出来ないものである(オシヘなる教理は 考えるものである)。ならば 南無妙法蓮華経なる神――(μ)《自在神力》――を信じるということにほかならない。  (7‐2) ならば 念仏者等が――名はアミターバ・ブッダやマハーワイロ―チャナ・タターガタ(大日如来)などなどとして違っていても―― 真実の神〔(μ)《自在神力》〕を心にいだくのであるゆえ 《妙経の体》と同じであり 仏性の発現も何ら妨げられることはない。  (7‐3) 《南無妙法蓮華経を唱える》こととは どういうことか? 次項に継ぎます。  (8) ◆(κ) 南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩・業・苦の三道〔=三障 が〕 法身・般若・解脱の三徳と転じて・・・  ☆ つまりこのように 《題目を唱える》ゆえに 《妙法の当体》となる。のであろうか? ほんとうにそうであるか?  つまり――唱題が 称名念仏と同じように わるいと言おうとするのではなく―― 仏性の発現は 人間の能力と努力〔のみ〕によって 実現するのものなのか? という問い。  親鸞の言うには 念仏は 《非行非善(修行ではなく善行ではない)》であるらしく これだと 念仏をおこなったから浄土に往生するとはさらさら言っていない。  (9) すなわち  ◆ (γ‐1=α‐1) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして           清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す      ☆  この仏性ないし《自性清浄心》なるわれわれの身と心とは 自然本性として生まれたときからそなわった仏性の発現を――わづかに《信じる》ことをとおして・という意味は 人間の能力も及ばずというかのごとく一切の努力を超越して――自然史過程として・自然史過程において(具体的にはヒラメキなどをとおして) ありがたいことに 見ることになる。のではないであろうか?  (10) 《南無妙法蓮華経》なる場ないしチカラは 真実の神ではないのか? 普遍神のことではないか? なぜ分派をみづからつくる党派を成すのか?