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武士の身分について

伊達や上杉や島津や毛利といった外様の大名と、将軍家の直臣の本田とか大久保と井伊を比べるとどちらが偉いんですか?

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回答No.6

>どちらが偉いんですか? ケースバイケースです。 外様は幕政には関与できませんでした。 政治的な権力という意味では役職に就任している譜代大名の方が偉いともいえます。 大名の格付けということになると譜代だの外様だのという区分は左程意味を持ちませんでした。 領地の広さ(石高)や所有している城郭の種類で上下がありました。 国持ち - 準国持ち - 城主 - 城主格 - 無城(陣屋)などの格付けがありました。 どの大名を国持ち大名とするかと言う基準が明確ではなく習慣的に例外が沢山ありました。 国持ち大名でもとくに領地が広い大名は大身国持ち大名とされていました。 外様とされる加賀前田、長州毛利、薩摩島津が大身国持ち大名に該当しました。 大身国持ち大名であっても外様ですので幕政には関与できませんでした。 この他に朝廷から下賜される官位による格付けがありました。 従二位(左大臣・筆頭長官)・従二位(右大臣・長官・大納言)・従三位(中納言~中将)・従四位(少将~四品)・従五位(諸大夫) 外様である加賀前田は大納言・中納言の格式を持ち官位に関しては「御三家」と同格でした。 御三家のように江戸将軍家との血縁関係の遠近の違いによる格付けがありました。 参考 大名の格 http://www.geocities.jp/yuujirou8/siro/Gallery-10-14-2.html これらを総合した格付けとしては登城して将軍に拝謁するまでの間すごす詰めの間とよばれる控え室のどの部屋に入るかという格付けがありました。 大廊下 最も格式の高い部屋で上下二部屋ありました。 上には御三家(尾張、紀州、水戸)が入りました。 下には越前松平、作州津山松平、と加賀前田、薩摩島津が入りました。 上下の違いとは言え加賀前田、薩摩島津は大廊下ですので御三家と同格ということになります。 溜間 常溜りと飛溜りの二部屋ありました。 常溜りには彦根伊井、会津松平、高松松平が入りました。 伊井は大老を努める家柄でしたが詰めの間では加賀前田、薩摩島津よりも格下でした。 飛溜りにはその時代時代の大名本人の人物次第で入っていました。 大広間 外様の国持大名が入っていました。 定監の間 譜代大名が入っていました。 雁の間 高家が入っていました、 菊の間 三万石以下の譜代大名が入っていました。 参考 伺候席 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/伺候席

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  • oska2
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回答No.5

>伊達や上杉や島津や毛利といった外様の大名と、将軍家の直臣の本田とか大久保と井伊を比べるとどちらが偉いんですか? 江戸時代を通しての基準は・・・。 「官位」の順番で、藩主及び家臣の身分が異なります。 従二位右大臣:徳川将軍家 従二位権大納言:尾張家・紀伊家・加賀前田家 従三位権中納言:水戸家・御3卿 従四位上中将:高松松平家・彦根井伊家・薩摩島津家・仙台伊達家 正四位下中将:越前福井松平家・会津保科松平家など 従四位下少将:徳川御家門・外様国持大名など 従四位下侍従:老中・京都所司代 従五位下諸大夫:10万石以上の国持大名・譜代・外様 じゃ、大名でなく将軍直属の旗本の場合は? 残念ながら、あくまで将軍の家臣に過ぎません。 時代劇で「直参旗本が、田舎大名に対して威張っている」のは間違いです。 各大名も、組織的には将軍の家臣ですよね。 旗本・御家人は、将軍の親衛隊に過ぎません。 ただ、幕閣の重職に就任している間は「各大名よりも上位」に立ちます。

回答No.4

石高で言えば外様ですが 外様は幕府の重職(老中や大老)になれない (真田と言う例外がありましたが) 江戸時代以降は官位とか幕臣で上下が決まったみたい 例えば 戦国までは伊達政宗と井伊直政なら 伊達の方が上でした 井伊は家康の家臣に過ぎないので 井伊は伊達に頭を下げるし 席次も伊達が上座で井伊は下座です ところが江戸時代になると立場は逆転 伊達が井伊に頭を下げる立場です なので江戸時代以前は外様 江戸時代以降は幕臣が上 だったのでは?

noname#261478
noname#261478
回答No.3

微妙な質問だと思います。 政治的経緯から考えれば、関ヶ原の合戦で勝利した徳川方の重臣連中が絶対権力を握っていそうですが、藩の経済力や乱世以来の武勇による知名度と云う点では、破れたとはいえ伊達・島津・上杉のネームバリューは、徳川太平の世に入っても確実に生きていたからです。 実際、遅れてきた戦国武将の代表格とされる、あの伊達政宗候は、三代将軍家光の時代まで生き、家光の相談相手として家光から全幅の信頼を得ていましたから。 また、徳川幕府の創立者である家康候は、幕府を未来永劫、永続する強固なモノにするため、組織内で権力が特定の人間に集中しないように様々な仕組みを施しました。 最高意志決定者である【老中】や現場行政の事実上トップである【奉行】等の上級職の任期を期間交代制にしたり、細かく職制を分けて各々に別部署を設けたりして、一人の人間が全てを決めてしまうことが不可能な、非常に複雑な組織構成を実行しています。 ですから、たとえ幕府権力中枢に食い込んでいても、 要職の割には石高も少なく、また複雑化した組織の常として、ライバル同士の陰湿な脚の引っ張り合いは日常茶飯事なので、将軍家直臣と謂えども、親方日の丸の元で安定、安寧の地位が確立されていたとも言い切れない部分は大きいと思います。 いつの世も、結局は実力こそがものを云う時代なのかもしれません。

  • bekky1
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回答No.2

偉い?というのを、どういう具合に判断するかですが。 上田秀人著の時代小説を読むと、面白いですよ。 当時?のしきたりにうるさく、門の開閉から、衣服、歩き方のいちどりなども毎回こだわって、場面構成・説明されるのでいろいろな人間関係・上下が出てくるのですが、石高関係なく、直臣優先です。 言葉遣いから、会話するときの位置などまで、本人の石高関係なく、「主家」の看板がものをいう。  主家としては徳川本家が至上です。 そして、陪臣より直臣が上。

  • stss08n
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回答No.1

●歴史上の関ガ原で”戦争に負けた、事実が、その後も”後を引いています。! ●武士が”朝廷からの政治的委託を受けている以上”偉いのは、征夷大将軍の、 将軍家*親族+姻族が、”格式から、伊達・上杉・島津・毛利・より”格上です。

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