- 締切済み
何故、松平定信は最初から老中首座になれたのか?
何故、松平定信は最初からいきなり老中首座になれたのでしょうか? 普通、老中首座になる人は、初めは奏者番や寺社奉行になって、その後、大阪城代や西の丸老中を経て老中になり、その後にやっと老中首座になれるものです。 しかし、松平定信は最初からいきなり老中首座になったみたいです。 最初からいきなり老中首座になった人は松平定信以外にいるでしょうか? 他に聞いた事がありません。 何故、松平定信は最初からいきなり老中首座になれたのでしょうか? 8代将軍の孫である事が関係しているのでしょうか?
- みんなの回答 (5)
- 専門家の回答
みんなの回答
- oska2
- ベストアンサー率44% (2310/5141)
>何故、松平定信は最初からいきなり老中首座になれたのでしょうか? 8代将軍「吉宗」の孫だからです。 当時は、「政治を司る者は、世襲制」なのです。 現在でも、国会・地方議員は「世襲制」ですよね。^^; >8代将軍の孫である事が関係しているのでしょうか? ちょうど、田沼政治の「重商主義政策」の弊害が出た頃ですよね。 定信は、老中になる前から「徹底的に、田沼批判」を行っていました。 「賄賂政治」なんかは、定信派が広めた嘘なのです。 単純に、工業・商業が発展しても「武士の懐は、温かくならない」ですよね。 武士の生活は、あくまで「米」ですから。 重農主義の限界を感じたのが、田沼であり田沼政治なのです。 定信が言う「賄賂」は、現在で言う「証書・印紙税」を意味しています。 今でも、団体に加入するには「入会金・年会費などが必要」ですよね。^^; が、田沼政治では「1円も所得が増えない武家の不満が爆発」します。 そこで、「8代将軍の政治理念を再開する」思想に燃えた定信が支持を受けたのです。 まぁ、「定信の時代に、吉宗の政策を行っても失敗」するのは火を見るよりも明らかですがね。 余談ですが・・・。 重農主義から重商主義に上手に変化出来れば、時代は変わっていたでしよう。
- kurione
- ベストアンサー率53% (858/1598)
一番は田沼意次の改革への反動でしょうか。徳川 家重、徳川 家治の信任のもと田沼意次のあまりの権勢と幕政改革は御三家などへも遠慮無く、御三家や御三卿などは反発が募っており、徳川 家治の死に際して、田沼意次が失脚し徳川 家斉が15歳で将軍家となると御三家は徳川家中心の政治に復する事を期待して松平定信を老中首座にした。何故なら多くの幕閣は失脚した田沼意次により抜擢されており、徹底的に田沼色を排除しなくては田沼意次の復権もあり得る状況だったので首座にして強権を持たせる必要があった。松平定信はその条件にぴったりであった。元々御三卿のひとつ田安徳川家の出なので、場合によっては将軍となれる可能性があったし実際優秀であった。そのため田沼意次をどうどうと批判していた。田沼意次の影響で久松松平家の庶流で陸奥白河藩に養子に出された。結果、皮肉なことに徳川姓は幕閣になれないという条件がクリアーされ、しかも田沼意次により激しい憎しみを抱いている松平定信は御三家にとっては格好の人材であった。 もう一つの理由が、定信が田安家より養子に出される際に御三卿のひとつ一橋徳川家徳川治済(徳川 家斉の父)の画策がありました。この人物は表だっては田沼意次とともに息子の家斉を将軍家にしようとする画策をしつつ、田沼意次の弟や甥が家老として一橋家に入っており実権を握られていたため反田沼の黒幕でもあった事を考えると、当初から息子の徳川 家斉を将軍にして定信をわざと松平姓におとして幕閣に据えて実権を握ろうと画策していた可能性。
お礼
御回答ありがとうございました。
- kitsunetoneko
- ベストアンサー率27% (66/243)
松平定信氏は,確かに,徳川吉宗氏の,直接の子孫ですから,徳川宗家の跡取り候補などからは,事実上,外れたとは言え,優秀で,徳川宗家などからの推挙があれば,たちまち,徳川将軍家や,幕閣の重職や,中心的存在などに,就くことは,可能だと思います..確か,幕末期の大老,井伊直弼氏なんかも,いきなりの,大老職への大抜擢だったと思いますし,江戸初期の,徳川秀忠氏の隠し子,保科正之氏や,松平(大河内)信綱?氏,酒井忠勝氏なども,保科正之氏は,老中などではないですが,徳川家綱氏の,後見人として,幕政に関わりましたし,異母弟として,異母兄の将軍,徳川家光氏の信任なども,厚かったようです..松平信綱?氏や,酒井忠勝氏等も,保科正之氏と同様に,徳川家光氏~徳川家綱氏の時代などに,徳川家光氏の小姓などから,出世し,抜擢され,老中や,大老などとして,幕政などに,大きく関わられた方のようです..
お礼
御回答ありがとうございました。
- ithi
- ベストアンサー率20% (1973/9603)
zsjnmdx さん、こんばんは。 老中首座になる人は、初めは奏者番や寺社奉行になって、若年寄、その後、大阪城代・京都所司代や・西の丸老中を経て老中になり、その後にやっと老中首座になれるものです。 これは普通の5万石程度の大名が老中になるため経路みたいなものです。 徳川御三家の推挙により、老中首座、将軍補佐、従四位左近衛権少将という地位につきました。 もともと久松松平の名門の家11万石の石高は普通の大名より大きいですし、もうこの時は老中に任命されてもおかしくない溜間詰めでした。 松平定信 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E4%BF%A1
お礼
御回答ありがとうございました。
- maiko0333
- ベストアンサー率19% (839/4401)
今の日本でも民間人が(政治の経験がない人が)大臣になることができます。 アメリカでもトランプさんの娘は政治経験はないでしょう。 特に珍しいことでもないでしょう。 江戸時代には憲法のようなものはなかったでしょうし、 将軍が指名すればその位に着くことはあるでしょう。
お礼
御回答ありがとうございました。
お礼
御回答ありがとうございました。