松平定永と田安徳川家の関係について

このQ&Aのポイント
  • 松平定永は田安徳川家とは何の関係もない人物です。
  • 徳川治察の死亡により、田安徳川家の血筋は途絶えました。
  • 後に一橋徳川家の徳川治済の相続によって田安徳川家は再興されましたが、それは始めの田安徳川家の血筋ではありません。
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松平定永は田安徳川家とは何の関係もないはずなので

『徳川治察が亡くなった ⇒ 始めの田安家の血筋は途絶えた?』 と考えてよいでしょうか? 徳川 治察(とくがわ はるさと、とくがわ はるあき)が亡くなった事をもって、『始めの田安徳川家の血筋は途絶えた。』と考えてよいのでしょうか? (⇩)下記の URL の『徳川 治察(とくがわ はるさと、とくがわ はるあき)』の wikipedia のページには、 【徳川 治察(とくがわ はるさと、とくがわ はるあき)】 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E5%AF%9F https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E5%AF%9F 妻子ともにいなかった。ただし、当時田安邸には陸奥国白河藩主・松平定邦と養子縁組が整ったばかりの実弟松平定信が暮らしていた。そのため、同年9月1日、母宝蓮院は、大奥の老女・高岳に定信による田安家相続の希望を伝えた。しかし9月7日、側衆稲葉正明から御三卿の創立者である将軍徳川吉宗の意向、すなわち御三卿の当主に子供のいない場合は相続は認められないことを伝えられた。なお、治察の死亡は同年9月8日に公表された。その後、天明7年(1787年)に一橋家の徳川治済の五男斉匡(徳川家斉の弟)が相続するまでの14年間、田安家は明屋形(無当主)の状態に置かれた。 と書かれています。 弟の松平定国や松平定信がいた事はいましたが、 例えば、松平定信の嫡男・松平 定永(まつだいら さだなが)は、田安徳川家とは、何の関係もない人物と思われていたはずです。 つまり、 徳川 治察(とくがわ はるさと、とくがわ はるあき)が亡くなった事をもって、『始めの田安徳川家の血筋は途絶えた。』ととらえてよいのでしょうか? その後、天明7年(1787年)に一橋家の徳川治済の五男斉匡(徳川家斉の弟)が相続して、田安徳川家は再興されますが、それは、始めの田安徳川家の血筋ではなくて、一橋徳川家の徳川(一橋)治済の血筋です。 よって、 徳川 治察(とくがわ はるさと、とくがわ はるあき)が亡くなった事をもって、『始めの田安徳川家の血筋は途絶えた。』ととらえてよいのでしょうか? 教えてください。

noname#246198
noname#246198
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  • D-Gabacho
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回答No.1

同様の質問に以前回答したように、「血筋が途絶えた」は、血筋を継ぐ者がこの世に一人もいなくなったという意味になります。 松平定信の嫡男・松平定永が、田安徳川家と無関係の人間と思われていたかどうかは知りませんが、田安徳川家との関係を人々が意識していたかどうかと、田安徳川家の血筋の人間かどうかは何の関係もありません。周囲の人間がみんな奴隷の子と認識していたとしても、事実が国王の子であるなら、それは王家の血筋を継いでいるということです。 まして徳川治察が亡くなった時点では、質問文に引用されているWikipediaの文章にも書かれているように、弟で当時17歳の松平定信は、すでに養子縁組していたものの田安邸に居住しており、治察の正室宝蓮院は養子縁組を解消して定信に田安徳川家を継がせようとしていました。定信が田安徳川家の血筋の人間であり、田安家を継ぐにふさわしいと認識していたからです。 治察が亡くなったことをもって「始めの田安徳川家の血筋は途絶えた」ととらえるのは、あまりにも無理がありすぎます。

noname#246198
質問者

お礼

側衆稲葉正明から御三卿の創立者である将軍徳川吉宗の意向、すなわち御三卿の当主に子供のいない場合は相続は認められないことを伝えられた。 そうなので、 松平定信の嫡男・松平定永 以降は、田安徳川家の血筋とは関係ないのですよね

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