• 締切済み

メタファの可能性

言葉ってメタファの性質があって、 いくらでも言い換えたり、こねくり返して、 面白い表現が可能で、 文学や詩も出来たとは思うのですが、 もしかすると、 個人1人で出来るメタファはその人の性格とか知識に制限されている様な気がするので、 メタファって無限に思えますが、実は有限じゃないのかなー、と思って質問に至りました。 もちろん、知識を増やせば、その人のメタファの豊かさを高める事は出来るとは思うのですが、 メタファだけに頼ってしまうと、 いつまで経っても同じ様なものしか生み出せないのではないのかなー、と思いました。 ミシェル・フーコーの「言葉と物」 デリダの「脱構築」 これらも思い浮かべながら質問に至りました。 なんだか質問の趣旨がぼんやりしてきましたが、 ご教授お願い致します。

みんなの回答

  • Nakay702
  • ベストアンサー率80% (9731/12105)
回答No.2

面白いテーマを提起してくださり、ありがとうございます。 以下は、「メタファー(の可能性)をめぐる私の雑考」です。 (1)メタファーは、言語の基本構造の一部を成している、と言えるかも知れません。繋辞(copula)を見れば一目瞭然です。「AはBだ」という表現が頻繁に用いられます。しかし、よく考えてみれば、厳密な現実としては、A=Bはあり得ず、あくまでもA=Aでしかないですよね。にもかかわらず、こういう表現が使えるのは「メタファー機能」のおかげです。 (2)かつてオルテガという哲学者は言いました。「メタファーは、真理の狩人が使う猟銃である」と。その真意は何か。あるいは、その背景にあるものは何か。おそらく、「思想の分野で何か新しいことを言おうと思ったら、既成の表現では表わしきれない」という苦悩が横たわっていたに違いありません。 (3)「現代のエスプリ メタファーの真理」(田中一彦編)という本を見ると、メタファーが如何にさまざまな分野に関わるかということを改めて思い知らされます。哲学、心理学、臨床医学、宗教論、文学、芸術論、社会学、情報科学、広告論…。(突然のパロディーで恐縮ですが、「右を見ても左を見ても、世の中、メタファーばっかりじゃござんせんか」)。それはともかく、もし比喩表現に直喩(明喩)しかないとしたら、如何に言語表現が貧弱になることだろう。上記の多くの分野が成立しない、少なくとも「豊かさが大幅に制限される」ことでしょう。メタファー(隠喩)が大事なのです。 (4)言語学者サピアと人類学者ウオォーフは言いました。「我々はみな自分の用いる言語によってがんじがらめに拘束されている」(サピア・ウォーフの仮説)と。すなわち、我々の思考や行動、とりわけ知的営為が、言語に縛られており、それに左右され、決定づけられる、ということのようです。極端な単純化との謗りを受けるかも知れませんが、具体的な例を挙げれば、「語彙力1万語の人と2万語の人とでは、頭脳労働の能力が2倍違う」、というような仕儀になるのだと思います。  ということで、言語は、想像を絶するほどに広く深く我々の生活と営為に作用し影響を与えるようです。「すべての学問は言語学だ」と断言した学者もいるほど、知的営為での言語的拘束は計り知れないものがあります。そういう、言語の基本構造の一角、いや中核、メタファーは、知的営為全般に関わりますが、特に思想家や芸術家にとっては、「死活問題」になるほど重要な修辞法である、と言えるのではないでしょうか。

  • kaitara1
  • ベストアンサー率12% (1119/8895)
回答No.1

言葉とは別に精神活動すべて○○は××のようなものであるという比喩のはたらきによって成立してはいないでしょうか。ここで○○は現在当面している対象で、××というのは記憶として蓄えられている、それまでの経験とします。言葉というのは記憶をより取り出しやすくする働きがあるように思います。また○○を新しい××へと変換してくれる働きもあると思っています。

関連するQ&A

  • ミシェル・フーコーの思想とドンキホーテ

    文学を専攻しているのですが、授業で「ミシェル・フーコーの思想をもとに、ドンキホーテはなぜ現代文学のはしりといわれているのか述べよ」という宿題が出されました。 (自分で調べてみて、ミシェル・フーコーの思想というのは「言葉と物」「表象」などをさしているのかと思いましたが、今ひとつよくわかりません。) ミシェル・フーコーがドンキホーテについて述べた記述など、両者に関連性があることでしたら、どんなことでも構いませんので教えていただけるとありがたいです。 よろしくお願いいたします。

  • そのへんの人は哲学・現代思想の体系をどのように血肉とするのか

    おおげさなタイトルですみません。 たとえば、古いけどデリダっていう人がいますね。 デリダのいってることを、学者や学生や色んな人たちが、 ああでもないこうでもないと議論しています。 議論するからには、脱構築ってなんなの、とか、嘘でも 曲解でもいいから、ある程度把握してないといけません。 #私はぜんぜん知りません。 でもそのためには、たとえばフーコーの話題が出てくる から、フーコーについてもしらなきゃいけないし、 アリストテレスだって知らないと・・・ みたいに、間テクスト性(?)の罠にはまって、芋蔓式に えらいことになりそうな気がするのですが、 みんなどうやってそういう芋蔓体系をものにし、整理 しているのでしょうか?方法論が知りたいです。 そもそも、ものにしている人などいるのでしょうか。

  • 《永遠》とは人間に分かるか分からないかは分からない

     《永遠》とは 何か? が問いです。  《非知》であるというのが たたき台です。  思いっきり自由にご見解を述べてください。    1. そもそも永遠に生きたひとはいない。生物も無生物もいない。と経験則からのように推し測られる。  2. なのに 人間はこの《永遠》という言葉を持っている。つまり人間は時間的存在として有限だとし 永遠を無限だとすれば 有限のものが無限のことを語っている。これいかに?  3. かなり昔にどこかの野球チームは 永久に不滅ですということでした。これは むろん言葉のアヤであり文学的修辞です。ですが 永久・不滅そして永遠とは どういうことですか?  4. 限りがない・果てしがないと言ったとして その限りや果てをあなたは 見たのか? 調べたのか? と問い返さねばならない。のではないでしょうか。  5. 永遠とは何か? あなたは分かりますか?

  • 無限についての問答

    問う人: 一つ訊いてもえーか。 「人の道」: 何でも訊いてみい。 ここは質問し答えを出す場所や、なんにも遠慮は要らんのや。 問う人: 無限とは何や。 「人の道」: 有限でないことや。 つまり無限とは限りの無いことや。 無限の対極にあるのが有限や。 つまり有限とは限りのあることや。 問う人: どこに無限はあるんや。 「人の道」: そこらじゅう至る所に無限は有る。 一滴の水の中にも無限はあるんや。 問う人: なぜ一滴の水が無限なんや。 「人の道」: 一滴の水の中に無限の宇宙があるからや。 つまりこれがミクロの宇宙や。 一滴の水の中に高度な文明があるかも知れんのや。 誰もこれを否定することなど出来ん。 問う人: 一滴の水の他にはどこに無限はある。 「人の道」: それは我々が今見ておるこの宇宙や。 わしが手を伸ばす方向にどこまでも進んで行くと考えてみい。 いづれ壁にぶち当たり行き止まるちゅー者もいる、また一周して元に戻るちゅー者もいる。 これらの者は宇宙は有限と思っておるんや。 問う人: 宇宙は有限なんか。 「人の道」: そんなことはない。 宇宙は無限や。 宇宙に限りは無い。 問う人: 宇宙を有限と考えるのはどうしてや。 「人の道」: あのなあ、えーか、 宇宙を有限と考えるのは宗教漬になったアホの考えることや。 問う人: 一滴の水とこの宇宙空間以外にも無限はあるんか。 「人の道」: もちろん有る。 それは我々が認識する時間や。 この宇宙は無限の過去から無限の未来に至るまで永遠なんや。 宇宙には始まりも終わりも無い。 どーや、これで無限が何か判ったか。 問う人: よー判りました。 一滴の水の中にも無限は有る、宇宙に限りは無く、宇宙は無限や。 「人の道」: 無限が理解できんとどーなるかも判ったか。 問う人: はい、判りました。 宗教漬になると宇宙は有限であり、何時いつ始まったとかアホなこと言い出すよーになる。 「人の道」: 宇宙は無限に満ちており、この世界には始まりも終わりも無い。 もしこの考えが何かおかしいと思うんやったら皆にも訊いてみるとえー。 問う人: 宇宙は無限に満ちており、この世界には始まりも終わりも無いちゅーこと、皆はどー思うか聞かしてくれ。    

  • 栗原貞子さんの「生ましめんかな」を今の言葉で言うと。

    栗原貞子さんの有名な原爆詩「生ましめんかな」についての質問です。 「生ましめんかな」は今の言葉で言うとどのようになりますか? 「生ませたい」でしょうか。それとも「生ませてみせよう」でしょうか。 それともまた他の言葉になりますでしょうか。 どうぞ文学に詳しい方、宜しくお願いします。

  • 詩がわかる人なんて本当にいるのか

    若い頃から文学を愛好しています。 といっても、わたしには詩がわかりません。どこがいいのか、わかりません。もちろんわかるものもあります。 で、文芸評論家や自称「詩がわかる」人は、たとえばランボーやコクトーの名訳詩(つまりホンモノ)と、素人がでたらめに言葉を並べただけのインチキ詩(つまりニセモノ)とを、本当に区別ができるのでしょうか。わたしは区別できる人などまずいないと思いますが。 ご意見をお聞かせください。

  • 「よきひとよ」という詩の内容を教えて下さい。

    佐藤春夫という人の「よきひとよ」という詩の内容について教えて下さい。 現代文に直すとどういう事を言っているのでしょうか。 当方、文学の知識は一切ありませんので専門用語などは抜きでお願い致します。

  • 整式は有限次数のみ?

    大学入試を控えた受験生から質問されました。 問題文に「整式を求めよ」とある場合は、 有限次数の整式のみを考えればよいのでしょうか? ネット検索では無限次数の整式という表現を使う場合もあります。 「整式は言葉の定義として有限次数」と判断すべきなんでしょうか?

  • ボードレールの魅力?

    十九世紀フランスの詩人シャルル=ピエール・ボードレール(1821-1867)の魅力はどこにあるか?「ゆるい文学談義」をしようではないか?というのが、この設問の趣旨です。 日仏問わずボードレールに捧げられたオマージュは数知れず、影響力は図りしれません。しかし『悪の華』第二版を通読してみると、それが厳密に構成されたものであるという指摘はあるものの、テーマが多岐に及んでいて、彼に対するイメージは力点を置く詩で変わるように思います。 ・恋愛の詩人 ・メランコリックな詩人 ・サディスティックな詩人 ・宗教的な詩人 ・魔術的な詩人 ・政治的抵抗の詩人 ・貧者の側に立つ詩人 ・ダンディズムの詩人 ・芸術至上主義の詩人 などなど、あるといえるでしょう。 上記で書きつくせないほど、切り口によってボードレールの印象は大きく変わるはずだと思います。しかも、それぞれの要素は反目し合うこともあります。一例をあげれば、思いやりのある恋愛詩を書いたかと思えば、サディスティックな側面をのぞかせるなどです。読者の期待を唐突に裏切るという矛盾した言葉を彼の詩集は総体として抱えていると言えます。 ボードレールという作者に対する矛盾したイメージを統合して整合性をつけ、何が正当であるかと議論することは、この質問の趣旨ではありません。むしろ多様性を認めた上で、個人的かつ主観的な読書体験として、ボードレール作品が魅力的であるといい得る見地を、楽しみとして語ろうというのが、設問の趣旨です。これは趣味に属する類の設問なので、意見を戦わせるというより、文学談義を希望しています。 ボードレール作品で議論するテクストに制限は設けません。韻文詩のみならず、散文詩、日記、評論、書簡を含めてください。引用してくだされば議論が具体的になってありがたいですが、日本語でも仏語でもよいです。 個人的な感想、分析をお待ちします。

  • 中国文学の基本的な古詩について教えて頂きたいです。

    はじめまして。初めての質問で、至らないところもあるかもですがよろしくお願いします(_ _) 中国文学の古詩についてなんですが、調べればわかることかと思われると思いますが、教科書をどこかに忘れてしまってきてわからない状況です。 もしよかったら空欄に埋まる言葉をわかる方教えて頂けたら嬉しいです。 古詩は、『』や『』のような数多くの規則を持つ『』詩に対して、特に規則がないため、昔風の詩という意味で古詩と呼ばれる。 最古の五言斉言の作としては、前漢末ごろの『』が知られるが、後漢になると、『』から句をとりだし、五言詩の形が整えられた。 わかる場所があれば部分的にでも教えてほしいです。3つ目の『』は近体詩かな?と思いましたが、自信がありません。 よかったらよろしくお願いします<(_ _)>