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古代ローマについての卒論のテーマ

先程誤って質問を削除してしまったため、再投稿させて頂きます。 私は今、卒論のテーマについて考えていて、古代ローマ帝政期の宗教を扱いたいと思っています。 特に参考文献が多いキリスト教に触れたいです。 しかし自分が思いつくのはありきたりなテーマです。 (例としてはイシス信仰や、ミトラス教の密議を抑えて)なぜキリスト教が 興隆したのか。 ここからどう掘り下げていくべきでしょうか。 これ以外でも些細な事でも構いませんので、アドバイスよろしくお願いいたします。

みんなの回答

  • D-Gabacho
  • ベストアンサー率64% (1059/1652)
回答No.3

もし「そんなことは百も承知だよ」ということでしたら、失礼しましたと謝るしかないのですが、歴史学の卒論を書くということは、扱うテーマに関連する史料と先行研究をすべて読んだ上で、自分なりの新たな知見を発表するということだというのは、理解しておられるのでしょうか?古代ローマ時代のキリスト教をテーマにする場合、当然、史料はすべて外国語、それも英語とかではなくラテン語とかになりますし、先行研究もほとんどが外国人の論文になるでしょう。そのあたりは大丈夫なんでしょうか?わたしが大学1回生のときに受けた卒論のガイダンスでは、そういったことを口をすっぱくして何度も強調していて、日本史以外で卒論を書くのは絶対無理だなと思ったものです。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10007/12519)
回答No.2

>イシス信仰や、ミトラス教の密議を抑えてなぜキリスト教が興隆したのか。 ⇒1つの見方として、以下のようなことが言えるでしょう。 多神教国家の古代ローマ帝国はその属州の宗教(ユダヤ教、他)に対して、初めは「ローマ神と皇帝」を崇拝するよう強要したが、諸地域の反抗や各種密教の存在と、それらとの習合現象などによって譲歩を迫られ、両者を「縫合」した太陽神の崇拝に切りかえた。すなわち、多神教が一神教化したわけで、このことが結果的にキリスト教に道を開いた理由の1つとされます。 多神教から一神教へ:当然ながら、ローマ帝国内では、ローマ人の政治的優性という理由から、ローマ人の宗教、すなわち征服者である首都のラテン人の奉じる宗教(多神教)が、相応の優越性をもっていた。これが徐々に一神教(キリスト教)化する状況を、少し長くなりますが、ジャン=レミ・パランク著、久野浩訳『末期ローマ帝国』(白水社1977)から《 》をつけて引用します。 《至るところに普及した「ローマとアウグストゥス」の礼拝は、公的な性格をもつものであるが、ローマ世界の支配者たちはその領土内において寛大であることを自ら示そうとしてきた。ユピテルとカピトリウムの丘の三神(ユピテル、ユノ、ミネルヴァ)は、他方において地方的偶像神を[崇拝対象として]そのまま存続させている。即ちギリシァにおけるゼウス・アテナ他、ガリアにおけるテウタテスとタラニス、エジプトにおけるイシスとオシリス、東方ないしカルタゴのセム族の地方におけるバール神などである。その間、たとえ各民族や都市が祖先伝来の宗教を保持していても、相互の接触が混淆をひきおこした。「ローマ的解釈」は、ギリシァのオリンポスの神々とローマのパンテオンの神々の神格を互いに同じものとみなし、東方の諸宗教の神格をも同様にみなした。帝国のもとでは多神教がどこでも存在している。誰もが自然の諸力または人間生活の諸機能における様々の属性を備えた多くの神々を崇拝できたのである。しかし一つの発展が様々の宗教を結びつけて融合現象を生み出した。これは様々の信仰の混合から成っていて、とりわけストア派のようなギリシァ哲学の影響を受けている。この学派は下級の神々の外に、そしてその上に「最高神」即ち世界の支配者で多かれ少なかれ太陽に化身せる最高存在を認めている。  アウレリウス帝は、270年頃帝国の守護神で皇帝がその「僚友」であるところの「不敗の太陽神」の礼拝を創始した。少なくとも知識人の思想の中では、融合宗教は一神教へと向っていたのである。三世紀に最も流行した哲学者プロティノスらの新プラトン主義は、プラトンの学説に宗教的色彩を与えた。知識人の社会の外でも、聖なるものの感覚、彼岸の世界における救済への魂の渇望が東方の諸宗教の盛行をもたらしている。それらの宗教の秘儀を伝授された信者たちの小集団が増加していって、それ自身一つの救済宗教であるキリスト教への道を開いていき、その礼拝式の神秘性のゆえに地方的な団体、即ち「教会」を結集していくのである。しかしこのキリスト教会は他の諸宗派と違って意見の不一致を許さない。キリスト教会は、イエスに化肉せる真の神を認めない者を拒絶し、想像上のものないし悪魔的なものとみなされる神的存在を崇拝する者を拒否した。かかる排他主義はキリスト教と異教との間に生じた抗争を説明している。たとえよりよく実情が知られるようになって、二世紀にキリスト教の儀式について行われた中傷的偏見が消滅しても、競争心が東方の流行宗教とキリスト教とを対抗させたのである。  三世紀の迫害は最初は部分的であった。デキウス帝とヴァレリウス帝の勅令(250-260)は、内外の国家的災禍に際して、キリスト教徒を民衆の不満の贖罪の山羊とすることによってこの敵対関係を利用したものである。愛国的感情に訴えることによって帝国を再建し、伝統的な異教を中心として精神的統一を立て直すことが考えられた。が、かかる苛酷な手段は長続きせず、260年ガリエヌス帝はキリスト教徒に信仰と礼拝の自由を認めたのであった。303-304年におけるディオクレチアヌス帝の相次ぐ四つの勅令は、キリスト教徒の礼拝を禁止することによって、また全ての信者に死刑をもって棄教を強制することによって、「神々の敵」を取り除くことを要求している。これまでに規定された諸種の処置のうちから、教会の閉鎖と聖書の消却、聖職者の逮捕、強制労働への追放、拷問による死刑が布告された。ただし、ディオクレチアヌス帝の諸勅令はどこでも実施されたのではなかった。副帝のコンスタンチウスは目をつむっていて血を流すのを嫌ったので、その結果ガリア地方はごく少数の殉教者を出しただけであった。ローマでは306年にマクセンティウスが即位してから厄介なことは起こらなくなる。ガレリウス帝は、迫害の扇動者でかつその最も残酷な執行者であったが、彼自身311年におけるその死の直前に寛容勅令を発布して、苛酷な手段を放棄した。帝はキリスト教徒に「既定の秩序に対して何ら反しないという条件で」信仰と礼拝の自由を承認している。》(引用終り) キリスト教の出現と対応:以上の引用から、4世紀初頭のキリスト教徒は、イエスの教えをすでに「信念」として取り込んでいる様子がうかがえる。ところで、キリスト教の出現に先立つこと数世紀、すでに地中海の西側諸都市においてユダヤ神学とギリシァ哲学を結合する試みが展開し、フィロンがこれを頂点に押し上げていた。「ヘレニズム的なロゴスの媒介によって、ヘブライズム的な神が世界を創造し、神自身が世界に啓示される」。この折衷主義の業績は、イエスの「単純化」(キリスト教普及の第一要因)に次ぐ、第二の要因であった。また、使徒パウロが、「キリストの福音はユダヤ的律法を条件とせず、それゆえに人種、社会の差別なく、すべての人に伝えられねばならぬことを確信した」時に、キリスト教の普遍性(catholicity→「カトリック」)が確認され、保証された。この、異邦人・異教徒への布教が、キリスト教普及の第三の要因であったと言えるだろう。

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1972/9602)
回答No.1

beetle123 さん、こんばんは。 宗教なんてものは古代ローマにとっては古代ギリシャのまねみたいなものでしたから、最初からちゃんとした教義を持つ宗教なんてなかった。だから、宗教的には寛容だったので、あそこまで領土が広がったんです。キリスト教を広げたのはあのユダヤ人たちです。あの人たちはこのローマの領土拡大で、国が滅びました。キリスト教もせんじ詰めればただのユダヤ教の一派にすぎませんでした。 初期キリスト教文化初期というのは弾圧の歴史ですね。皇帝にとっては皇帝とローマ市民或は奴隷が平等であるなんてことは承知できませんからね。 歴代皇帝の弾圧ののち、アウグスティヌス皇帝はキリスト教をとうとう抑えることができず、弾圧をやめて、逆に国教化してしまいますそこまででしょうか? 例としてはイシス信仰(キリスト教の一派コプト教におけるマリアみたいな神様)や、ミトラス教の密議(密儀じゃ、信仰を大っぴらにできないでしょ。)後には表向きキリスト教徒のふりをして秘密にやっていたようです。ミトラ教団なんて小さい教団で、キリスト教徒から異端呼ばわりされます。 イシス信仰 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%82%B9 ミトラ教 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%88%E3%83%A9%E6%95%99 初期キリスト教 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E6%9C%9F%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99

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