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新中納言という呼称の謂れ
平の知盛は、新中納言という呼称で物語に描かれていますが、その謂れは何でしょうか? 中納言に「新」がずっと付いたままの意味が分かりません。
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律令体制の中で、国家最高の機関で、当時の行政・司法・立法の機関である太政官の中で、政策等の合議機関であり、決定機関である現任公卿(議政官)は、上から、大臣(太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣)・大納言・中納言・参議で構成されます。平知盛が権中納言に任官した当時、30名前後(途中で退任、新任があるので)の人数で、現在でいえば内閣の大臣に匹敵します。 この中で中納言は、律令制定時には規定がなかったのですが、その後規定外で設置された官職です(令外官‐りょうげのかん)。定員は3名とされたのですが、定員以上の任官が多くなり、定員外の中納言である「権中納言」の任命が多くなります。時代が下るにしたがって中納言・権中納言に任官される人数が増え、知盛が権中納言に任官した寿永元(1182)年10月3日現在で、中納言3名、権中納言7名の計10名がいました。この中で、平氏出身の中納言は上席から、中納言が平時忠、平頼盛、権中納言が平教盛、そして平知盛の4名になります。この4名は当時の習慣でいえば中納言・権中納言の区別をせず、中納言(殿)と呼び掛けられ、平氏出身者が1名であれば平中納言で足りるのですが、4名ですので区別する必要が生じます。そのような場合、邸宅・居住地の名称、兼任している官職名などが用いられます。 平氏の4名について言えば、平清盛の弟である頼盛は池殿という邸宅に住んでいたので「池(の)中納言」、同じく平清盛の弟である教盛は、六波羅の門の脇に邸宅を構えていたので「門脇(の)中納言」と称しています。この呼称は、平家物語にも登場します。なお、頼盛は翌年に権大納言に昇進するので池大納言。この頼盛は、按察使を兼任していたので、「按察使(の)中納言」と呼ばれた可能性もあります(2種類の呼び名を持つ人物もいます)。 さて、平時忠ですが、清盛の嫡妻である平時子の兄弟で、中級貴族の公家平氏の出身です(清盛の一族は武家平氏出身)。4名の中で(権)中納言任官が早く、「平中納言」と呼ばれます。次の年に権大納言に任官して、「平家にあらずんば人にあらず」と言ったとされる、有名な「平大納言」のことです。 これらに対して、平知盛は寿永元(1182)年10月3日に初めて権中納言に任官しましたので、先任の平氏の中納言に対して、「新任の平氏の中納言」の意味で、「新中納言」と呼称されます。そして、翌寿永2(1183)年7月の平家一門の都落ちに伴って、8月に平家一門は官職を解任(解官)されますので、呼称が固定化され、最後(元暦2-1185-年2月)まで新中納言と称されます。 平氏以外でも、藤原氏や(村上)源氏など、同じ時期に、同じ官職に、同じ氏の者が複数存在した場合、平氏と同じように、邸宅名・兼任官職名などにより、呼称が生じ、死亡、解任、転任、引退後でも、最終官職時の呼称で呼ばれることが多くあります。ただし、最終が官位(正1位・従1位など)だけ(散官)になった場合、中納言などの最終官職を付した呼称で呼ばれることも多くあります。 長くなりましたが参考まで。
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彼は,平氏全盛期にとんとん拍子に中納言(権中納言)になったわけですが,そのときに「すげえ!」という意味をこめてニックネームの「新中納言」ができ,それが後まで使われるんじゃないですか。いわば,青年のときに映画「若大将シリーズ」をヒットさせた加山雄三が,「永遠の若大将」と呼ばれるように 笑。 そういえば,官位としてはおなじの「黄門様」といえば,水戸黄門(水戸光圀)を特定するのがふつうですね。
お礼
回答をありがとうございます。 やはり、新は「新しい」の意味なのですね。 もしかして、「新中」とかというイレギュラーな語彙があるかと 密かに期待?しましたが、そんなわけなかったですね。
お礼
たいへん詳しい学術的なご講義、恐れ入りました。よく分かりました。 来週、「子午線の祀り」を観に行きますが、それを念頭に置いて鑑賞します。現在、岩波本の脚本で予習中です。 貴回答に接することができ、誠に誠に有り難き幸せでした。