- ベストアンサー
広島市が軍都として選ばれた理由とは?
- 広島市は広島大本営が置かれたことから主要な軍事拠点となりました。
- 広島市は第2総軍司令部や広島師管区司令部などが置かれ、本土決戦に備えた防空作戦室も建設されました。
- 広島市は他の都市と比べて戦略的に便利な場所であり、軍人や軍隊にとって優位性があったため選ばれたのです。
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
>50万人ぐらいの軍人らの本部が広島城だったんでしょうか。 先ず、東京市(旧江戸)は「未だ、佐幕派思想が強く残っていた」事です。 江戸っ子は「天皇よりも、将軍・幕府に親近感」を持っていました。 討幕軍は、江戸っ子にとっては「侵略者」なんですね。 江戸城を天皇の住まいにして「支配者が変わった」事を見せても、江戸っ子の心は変わりません。 「裕宮(孝明天皇の子。後の明治天皇)は、山口で死んでいる。今の(明治)天皇は、相撲隊のだった農家の次男坊だ」 という話も、江戸っ子に広まっていました。 ※7卿の都落ちの時、三条実美が「人質として祐宮を連れ去った」 ※孝明天皇は、7卿の官位はく奪。幕府に対して追討令を出した。 ※が、何故か急いで追討するな!と伝えている。 ※大人になった祐宮を見た乳母は「この人は、誰?」と不思議がった。 ※祐宮は「右利き」だったが、明治天皇は「左利き」 ※御前会議では、明治天皇は一切の発言権が無かった。(伊藤博文日記) こんな状況ですから、明治天皇は「度々東京を離れ」「広島には200日も滞在」しています。 結局、広島は「精神的な第二の首都」なのです。 地理的にも「内海で良港」「朝鮮・中国への派兵が容易」「(飛行機が無い時代では)守り易く攻め難い」 そこで、広島に大本営を設置したのです。 >あの場所が軍都と呼ばれ拠点なのでしょう。 大本営が存在し、陸海軍の拠点が存在したからですね。 太平洋戦争開始の「トラトラトラ暗号無線」も、広島湾上の旗艦・戦艦長門から発信です。 >今あそこに自衛隊が居ないのはなぜですか。 広島市内には存在しませんが、江田島には今でも旧海軍の施設を継承した海上自衛隊が存在しています。 また、呉にも海上自衛隊が存在します。 どちらも、旧海軍の施設を継続利用していますよ。 岩国には、米軍が駐留していますよね。 陸上自衛隊は駐留していませんが、海上自衛隊・航空自衛隊は広島県に存在します。
その他の回答 (3)
- jkpawapuro
- ベストアンサー率26% (817/3046)
明治時代、西南戦争が終わり鎮台から師団制度へと改変され行く過程で日本は外国の軍隊と戦える近代軍隊へと組織されていきました。 当時の陸軍を支えるのは国民皆兵よる徴兵制度で、その軍隊を運ぶのが鉄道です。 日本は島国ですので当然攻めるにしろ守るにしろ陸軍がにらむのは大陸となり、日本の本土(本州の)鉄道の最西先端の大都市が広島となります。 ここから先は船で大陸に派兵することになります。 よって広島で組織された第五師団がいざ有事のときは最初に大陸に乗り込み橋頭堡を築く精鋭として組織され、広島も同時に軍都として開発されていくことになります。広島そのものが関門海峡にトンネルが無い時代の日本における大陸への拠点だったのです。
- eroero4649
- ベストアンサー率32% (11125/34629)
明治維新で日本陸軍というのが創設されたとき、当初は「鎮台」という組織が作られました。鎮台という名が示す通り、国内の治安維持が目的です。当時はまだ戦争は外国でする余裕なんてとてもなくて、内戦を防止するのが目的でした。西南戦争なんかもありましたからね。 鎮台は、まず最初に仙台、東京、大阪、熊本に作られました。九州が熊本だったのは当時九州で一番の大都市は熊本だったからです。更に、そこに名古屋と広島に作られることとなりました。名古屋は北陸地方の防衛・治安維持も管轄であり、広島は中国地方の防衛・治安維持が管轄でした。鎮台は当初小倉を予定されていたらしいですが、なんだかんだで一番の大都市である熊本になったのでしょうね。そして、大阪と熊本のちょうど真ん中あたりになりますし、海軍基地である呉とも近い広島が一番都合が良かったのだと思います。山口県には大都市がないですからね。 国内の治安が安定し、外交情勢も変化することで陸軍も対外戦争ということが可能な組織にする必要が出てきました。それで、鎮台制から師団制が導入されることになりました。 東京鎮台が近衛師団、仙台鎮台が第二師団、名古屋鎮台が第三師団、大阪鎮台が第四師団、広島鎮台が第五師団、熊本鎮台が第六師団となったのです。 これは私の想像なのですが、呉に近い第五師団は海軍の護衛を受けて速やかに出撃することが可能なので、即応部隊としての役割が大きかったと思います。第五師団は帝国陸軍内においては歴戦のエリート部隊として名高い部隊でしたね。 さて日清戦争が起きますと、これは新政府にとって初めての対外戦争でしかも相手はアジア最大の帝国である清朝ですから、これはもう気合が入るというか「絶対に負けられない戦い」みたいな気負いがあります。 当時はまだ電信手段がありませんから、情報が入るにはすごく時間がかかります。敵に近いところであればあるほど情報を早く手に入れることができますし、その分早く判断することができます。なので呉に近い広島が大本営に選ばれたと思いますよ。佐世保じゃ田舎すぎて国内統治に目が届かなくなりますからね。 外国の目線で見ると、太平洋側から攻めるにせよ日本海側から攻めるにせよ、広島は奥まった場所にありますから直接攻撃は難しいです。瀬戸内海は内海で、通信や移動にも便利です(より大部隊を迅速に展開するには船を使うのが一番です)。西日本を防衛するにあたり、絶好の場所にあるといえますね。 これが下関だと直接上陸攻撃がかけられる場所ですし、岡山だと関門海峡辺りの戦況に目が届かない。元々大都市ということは、多くの人員が住める場所とインフラが整っているということでもあります。まさに「軍都」と呼ぶにふさわしい場所でしょうね。 現在自衛隊がいないのは、やっぱり原爆の影響だと思います。ただ焼け出されただけではなくて、広島市民は被爆の後遺症で戦後も苦しめられ続けたので、戦争ということそのものに対する怒りや怨みは他の地域の人々では計り知れない部分があると思います。
お礼
>>太平洋側から攻めるにせよ日本海側から攻めるにせよ、広島は奥まった場所にありますから直接攻撃は難しいです。 そうなんですね。軍事に明るくないのであの場所が戦争や戦闘で有利になる理屈が解りませんが基礎を知る人から見れば広島は有利な位置にあるんですね 回答ありがとうございました
- ithi
- ベストアンサー率20% (1972/9602)
wasuremonodesu さん、こんにちは。 もともと広島には第五師団が置かれていました。宇品港という港もあり、陸軍の部隊が日清、日露戦争の時にここから朝鮮半島目指して出撃しました。また、近くには海軍の呉鎮守府があり、ここにも海軍の司令部が置かれていました。 第2次世界大戦末期、昭和20年ころには本土決戦が叫ばれていました。だから、ここに第2総軍の総司令部が置かれ、畑元帥が総司令官になりました。中国地方、四国のほか、九州も彼の支配下にはいっていました。だから、広島が一番、司令部を置く位置として適当と考えられたのです。 おそらく、自衛隊の司令部を置くとき、原爆の中心地広島には司令部を置くことを反対した人がたくさんいたんでしょう。無理からぬことです。 一寸ずれたところに第13旅団が置かれています。 第13旅団 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC13%E6%97%85%E5%9B%A3_(%E9%99%B8%E4%B8%8A%E8%87%AA%E8%A1%9B%E9%9A%8A) 第2総軍 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E7%B7%8F%E8%BB%8D_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)
お礼
ありがとうございます 長い歴史と由緒のある場所が広島城なのに先輩から受け継いだ伝統を重んじそうな保守の自衛隊が居なくなるのはやはり抵抗運動が凄まじかったんでしょうか
お礼
中国地方に住む日本国民はほかの都道府県より天皇陛下を尊敬する常識が強固で 天皇陛下も広島を信頼して重要任務を任せる 「後ろには天皇陛下がおられる」で結束が保たれた士気の高い軍団の居る場所があそこだったんですね 検索してもなかなか分からない心の部分が多少理解出来ました 時代背景や地域性の説明をありがとうございます