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戦国時代の天下統一

戦国時代の天下統一 戦国時代に様々な戦国武将達が 天下統一を目指しましたが、 何故、天下統一を成し遂げようと思ったのでしょうか? 国を治めた武将達の政治で今も色濃く残る 法律や慣習はどういったものがありますか?

みんなの回答

回答No.4

信長が一番有名ですね 彼は「日の本(日本)から戦を無くすために誰かが天下をまとめる必要がある」と言う明確な目的の元 天下統一を目指していました

zettaibig1
質問者

お礼

azuki-7さん回答ありがとうございます。 信長は神経質で非常に短気、 大量虐殺など非情で残忍な所もありましたが 優しい面もある人物でしたね。 戦を無くすために厳しい人間になったのかな?

  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2310/5141)
回答No.3

>何故、天下統一を成し遂げようと思ったのでしょうか? 既にある回答とは異なりますが、天下統一は信長・秀吉・家康を除いて考えていなかった様ですね。 武田信玄にしても「都に上る」事が目的ですよね。 都に上る=天皇の臣下になる=全国各地の武家を支配する。 今川義元の上洛も、同様です。 「統一」とは、戦国の世で群雄割拠していた全国各地を一本化する事ですよね。 じゃ「天下」とは・・・。 信長の「信長記」では、「天下=都=天皇・朝廷」の様です。 つまり、名目上の天皇の権威を借りて(形式上臣下になって)全国の武家を支配する事です。 戦国大名自らが頂点に立って、全国を支配する事ではありません。 信長・秀吉・家康は、直接支配を目指しましたが・・・。 >国を治めた武将達の政治で今も色濃く残る法律や慣習はどういったものがありますか? 家康の「農民(納税者)支配」ですかね。 1.百姓は、死なない様に貯めない様に支配しろ。 この家康の命を法制化した慶安御触書では、百姓(納税者)について次の記述があります。 1.百姓は、米を食うな。 1.百姓は、酒を飲むな。(酒は、米から造ります) 1.百姓は、茶を飲むな。(茶畑は、水田にはならない) つまり、米の一粒でも多く年貢(税)として納めろ!と言う事ですね。 慶安御触書以後、幕閣での年貢搾取を皮肉った唄があります。 1.胡麻の油と百姓は、搾れば搾る程よく採れる。 どうですか? 上記の「百姓」を「国民」に代えてみましよう。 幕府崩壊から約150年過ぎても、基本的な政策は変わっていません。 自民創価学会連立政権・旧ポンコツ民主党政権時の税制と同じですよね。^^; 武士(政治家・公務員)はどんどん裕福になり、納税者はどんどん貧しくなります。

zettaibig1
質問者

お礼

oska2さん回答ありがとうございます。 やはり、信長、秀吉、家康は戦国時代の中でも 異彩を放っていたんですね。 考えるスケールの大きさには圧倒されます。

  • meido2010
  • ベストアンサー率15% (68/448)
回答No.2

武田信玄は晩年になって京の都を目指しました。 織田信長の治世が我慢ならなくなった。という理屈ですが、実は 若い頃から天下統一を夢見ていたのも事実です。 その為に合議制によって新しく領地になった土地の領主も分け隔て なく扱ったと言われています。また冬に合戦をやり農耕で忙しい 夏秋には田畑を荒すことは無かった。と言われています。 特に治水事業には重点を置いてやったそうです。 今でも信玄堤という有名な堤防が残っています。 徳川家康が武田家の家臣を織田信長に見つからないように匿って 幕府成立の際に徴用したのも有名な話ですね。

zettaibig1
質問者

お礼

meido2010さん回答ありがとうございます。 信長はやはり色々な所から問題扱いされていたんですね。 信玄の堤防は知りませんでしたので、 調べてみたいと思います。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11129/34640)
回答No.1

>戦国時代に様々な戦国武将達が天下統一を目指しましたが 実はそれは後世の私たちの思い込みで、当事者の戦国大名はそんな大それたことを考えていたのは信長、秀吉、家康クラスのごく一握りだけです。ま、伊達政宗は誇大妄想狂なところはあるから彼は夢見ていたかもしれませんけれども。 彼らは各地方の土着の企業の社長みたいなものなのです。新潟の会社の社長が考えることはまずは地元で確実に儲けを増やすことで、まずは県内に支社を作り、やがて隣の県くらいには手を出そうと思うかもしれませんし、「いつか東京に支社を作りたい」くらいは夢見るかもしれませんが「業界日本一を目指す」までは考えないでしょう。それと同じなのですよ。 夢もロマンもないですが、戦国大名のほとんどはチマチマと自分の勢力を広げることに一生懸命だったのです。 ベンチャー企業が急成長をすると、社内組織がその成長についていけないことはよくあります。戦国大名も同じで、例えば一代で最も勢力を大きくさせたのは実は徳川家康でもなければ織田信長でもなく、毛利元就なのです(秀吉は特殊な存在だから除外)。だから毛利家というのは非常に脆弱な組織でした。優秀な息子二人が吉川家と小早川家を継いで、というか乗っ取って毛利本家を支えましたがグループ企業とはいえ元々は別の会社。それぞれに毛利家の直接の配下にはなりませんでした。また家臣団もツギハギだらけで内部育成したわけではないので(内部育成した人材が不足しているのは秀吉も同じでした)、それぞれが半独立組織みたいなものでお殿様の命令に絶対服従ではなかったのですね。 だから秀吉の大返しとか関ヶ原のときなんかにやたらと腰が重かったのです。お殿様が「出陣じゃあ~!」といっても必ずしも家臣は命令通りには動いてくれなかったのです。 これは武田家、長尾(上杉)家、朝倉家、長宗我部家、島津家などでも同じでした。トップダウンで家臣団が手足のように動いたのは有名な戦国大名では織田家と徳川家くらいでした。 先日読んだある本で、「上杉謙信は自分が戦国時代に生きているという自覚がなかった」ということが書いてありました。それはどういうことかというと、非常に保守的で忠誠心が強かった謙信は室町幕府という存在が有名無実化している現実を受け入れておらず、まだ室町幕府が健在であると思っていたというのです。 そう考えると、彼が関東管領という実権が全くない肩書にやたらとこだわったことに辻褄が合います。なるほどな、と思いました。 >国を治めた武将達の政治で今も色濃く残る法律や慣習はどういったものがありますか? 「地方の政治家は、代々受け継がれる」ってことでしょうかね。三浦半島の辺りで「小泉家が代々政治家をやるのっておかしくない!?」なんて大きな声でいったら変人扱いされることでしょう。小泉進次郎氏はまさに「若殿」の雰囲気ですよね・笑。そして某忖度政治家はバカ殿の雰囲気ですよね。

zettaibig1
質問者

お礼

eroero4649さん回答ありがとうございます。 天下統一は一握りの人間しか目指してなかったんですね。 会社経営に例えると非常に分かりやすく 腑に落ちました(笑)

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