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駕籠はいつ頃から姿を消したのですか。
明治時代になっても近距離の移動には駕籠が便利だったと思いますが、東京の街から駕籠が見られなくなったのは、いつ頃からですか。 近距離の移動で、駕籠に代わって登場した乗り物は何ですか。人力車ですか。 新聞記事か何かで確認できますか。 よろしくお願いします。
- kouki-koureisya
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改めましての続きです。 前回[新聞集成明治編年史.第一巻/林泉社]の吉原廓内掟でもそうですが、 キーワード「駕籠」索引検索とかネット検索では、なかなか打開策が見出せ ません。かと言って全文検索など出来るはずもありません。 そこで「駕籠」から離れ漠然と明治期の東京府関連情報を追求する中、 [古今百風吾妻余波.第1篇/岡本昆石(経朝)編/森戸錫太郎/明18.10] http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767832/24 [24/100](6丁ウラ=右側頁右端4段目)「駕籠/かご」 同じく [古今百風吾妻余波. 1編 / 岡本昆石 編纂 ; 鮮斎永濯 図画] 東京府:森戸錫太郎, 明治18[1885] http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko10/bunko10_06553/ http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko10/bunko10_06553/bunko10_06553.pdf [17/66] を見かけました。書籍タイトルは「古今百風吾妻余波」ですが、 目次題目は「東都看版譜」とあって他の看板等は明治期の物が多いようで、 素人目には明治初期の名残か明治18年頃の物かの判断が出来ません。 これだけでは埒が明かないので、明治期の東京府関連情報の中、 統計の類はないものか、地方税(駕籠税)課税対象なら営業用・自家用の駕籠 数が見出せてもおかしくないものの、全く擦りもしないところ、 下記3冊に遭遇しました。 [東京府農商工要覧.第1回/東京府農商課/明治20.4.27] http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801532/172 [172/252](320頁) 府内運送賃銭 明治二十年 種類 /毎一里ノ運賃 昼間/夜間 人力車一人乗 〇・〇六〇(円) 〇・〇九〇(円) 人力車二人乗 〇・一〇〇 〇・一五〇 駕 籠 〇・四〇〇 〇・六〇〇 [東京府農商工要覧.第2回/東京府農商課/明治22.12.30] http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801533/191 [191/271](358-359頁) 府内運送賃銭 明治二十一年 種類 /昼間運賃(一里ニ付)/夜間運賃(一里ニ付) 人力車一人乗 六〇(厘) 九〇(厘) 人力車二人乗 一〇〇 一五〇 駕 籠 四〇〇 六〇〇 [東京府農商工要覧.第3回/東京府農商課/明24.4.21] http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801534/184 [184/298](340-341頁) 運送諸賃銭 明治二十三年十二月三十一日調 種別 /昼間(一里ニ付) 夜間(一里ニ付) 人力車一人乗 八〇(厘) 一二〇(厘) 仝 二人乗 一二〇 一八〇 駕 籠 三五〇 五二五 ─(中略)─ 駕籠ハ垂駕籠ヲ以テ標準トス 上記3冊から明治23年12月31日時点における 東京府下での営業用の駕籠の存在が浮かびました。 よって「東都看版譜」の「駕籠/かご」看板は明治18年頃の物と考えても 問題はないようです。 これを前回分と組合せますと、 明治四年中は辻駕籠の激減期で、遅くとも明治8年に至っては 一部例外(病人・葬式・嫁入)を除き東京中で駕籠を見かけなくなったものの、 明治23年12月31日時点でも営業用の駕籠は存在した。 これらを矛盾なく当て嵌めようとするならば、 一部例外(病人・葬式・嫁入)は自家用・営業用の別などが?ですが、 明治8年の「東京中」は区部域、明治23年頃は「東京府下」のうち 概ね郡部域のいわゆる山駕籠とでも考えざるえません。 以上
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- 畑 茂夫(@Flareon)
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新潟だけど、お嫁さんを駕籠に入れて送り迎えする習慣が昭和初期にも残っていて、そうした送迎用や病人搬送用でその時代にもあったみたいだよ。
お礼
ご回答ありがとうございます。 昭和初期でもそんな風に使われていたのですか!! 参考になりました。 お嫁さんを“迎える”ときに使うのは分かるのですが、“送り迎えする”がちょっと分かりません。 その家ではお嫁さんがとても大事にされていたのでしょうね。
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