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かみとゴッドが別々だなんて あり得ない

 ヤハヱーとアッラーフとが 異なるなんてことは 与太話である。  ブラフマンとブッダとが 違う神だなんて いったいどういう料簡を持てば言えるのか?  あっちの神とこっちの神が違ったなら おてんとさまは西から上がらあね。  いい加減 世界は目を覚まさねばなるまいって。ね?

みんなの回答

  • sunabo
  • ベストアンサー率35% (24/67)
回答No.25

no.22のお礼コメントの一番下に、 神がすべて普遍神から来ているという主題 とあります。普遍神が主題のはずです。 no.24のお礼コメントについて誤記と考えますので訂 正が正しいか確認ください。 2行目 誤)A B C ・・・・H のそれぞれの神 正)A B C ・・・・H のそれぞれの普遍神の名   前 3~5行目 誤)これらは じんるいにとって唯一つの――なぜな   ら 真理は誰にとってもひとつ――神である普遍   神に それぞれの民族がつけた名前である。と言   っています。 正)これらは じんるいにとって唯一つの――なぜな   ら 真理は誰にとってもひとつ――普遍神に そ   れぞれの民族がつけた名前である。と言っていま   す。 12~14行目 誤)もっとも 人によって わが神は 普遍神であると   言って 正)もっとも D.クリスチアニズムの民族のある一人に   よって わが神は 普遍神であると言って 15行目 誤)A~H は 集団を成す人びとにとっての神の名前を   出しています。 正)A~H は 集団を成す人びとにとっての普遍神の名   前を出しています。 神という言葉でごまかそうとしていると感じます。感じ ることは感じてしまうので仕方がありません。感じてい るということを意識して、質問者様のいうことを否定的 にとらえないように努力します。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ no.22のお礼:神がすべて普遍神から来ているという主題とあります。普遍神が主題のはずです。  ☆ 言いかえただけです。問いとしての主題は 《多神教と言っても 実質的には 一神教と同じ状態を呈している》です。  ★ no.24のお礼・2行目~~~~~~~~~~  誤)A B C ・・・・H のそれぞれの神  正)A B C ・・・・H のそれぞれの普遍神の名前  ~~~~~~~~~~~  ☆ 普通名詞の《かみ――つまり D 神 F かみ G エローホ H イラーハ――》を除いて    正)A B C ・・・・H のそれぞれの神は 普遍神につけた名前としてある  がただしい。  ★ 3~5行目  ☆ これは 《誤》のほうも ただしい。です。  ★ 12~14行目 ~~~~~~~~~~    誤)もっとも 人によって わが神は 普遍神であると   言って  正)もっとも D.クリスチアニズムの民族のある一人に   よって わが神は 普遍神であると言って  ~~~~~~~~~  ☆ 《正》のほうは 《誤》の表現についての具体的な一例を示しています。  《誤》は 必ずしもあやまりではありません。  ★ 15行目  ☆ これは 上に出て来た《2行目》の場合に似ています。が ここでは どちらもただしいと考えます。  一般に実態として 《神の名前》である。理論的に把握するなら 《普遍神につけられた名前》である。と。  ★ 感じているということを意識して、質問者様のいうことを否定的にとらえないように努力します。  ☆ いえいえ。わたしは ザック・バランです。  批判はどしどしフルボッコでおこなってください。質問に出すということは 批判がいちばん欲しいということです。  ほかの人たちには ていねいに批判をしてやってください。  

  • sunabo
  • ベストアンサー率35% (24/67)
回答No.24

no.23にて、 質問者様にとっては、普遍神の名前は普遍神です。 とあります。 これは、質問者様は普遍神を普遍神とだけ示しなさい。 とも読み取れます。書き方を誤りました。ごめんなさい 。no.23に質問者様の主張の範囲を狭める意図はありま せん。 下記のように訂正いたします。 誤) 質問者様にとっては、普遍神の名前は普遍神です。 正) 質問者様にとっては、普遍神の名前は、A.ブラフマン であり、B.空であり、C.アミターバ・ブッダであり、 D.神・聖霊であり、E.宇宙霊魂であり、F.かみであり 、G.ヤハヱ―であり、H.アッラーフであり、I.普遍神 です(順不同)。 A~Hに普遍神がないと、 人(民族)の各々が普遍神 を普遍神と示せないはずです。そうすると、人(民族 )の中の一人である質問者様も、普遍神を普遍神と示 せないはずです。

bragelonne
質問者

お礼

 いえ そういうことではないと思います。   A B C ・・・・H のそれぞれの神  これらは じんるいにとって唯一つの――なぜなら 真理は誰にとってもひとつ――神である普遍神に それぞれの民族がつけた名前である。と言っています。  (ただし 中で     D 神    F かみ    G エローホ    H イラーハ  これらは 見てのとおり 普通名詞としての《かみ》です)。  もっとも 人によって わが神は 普遍神であると言ってそれを信じる場合があっても 何の問題もありません。普遍神に普遍神という名をつけても だいじょうぶです。  A~H は 集団を成す人びとにとっての神の名前を出しています。  ★ A~Hに普遍神がないと、 人(民族)の各々が普遍神を普遍神と示せないはずです。  ☆ ですから 人間に《ひと とか 人間》という名がなくても それぞれの人間は 《人 ないし 人間》であると言えると思います。そういう役目を 普遍神という言葉が担っています。  ご回答をありがとうございます。

  • sunabo
  • ベストアンサー率35% (24/67)
回答No.23

これは回答ではありません。ごめんなさい。神がすべて 普遍神から来ているという主題について指摘いたします。 no.21のお礼コメントに、 普遍神は有神論では名前が人(民族)によって異なって いる。 とあります。 人(民族)に質問者様が含まれます。質問者様にとっては、 普遍神の名前は普遍神です。次のように示せるはずです とあるA~Hに普遍神がないです。

bragelonne
質問者

お礼

 たとえば 《ひと あるいは 人間》という名の人はまづいないでしょう。  ただし それぞれに自分の固有の名を持っています。(同じ名で重なる場合もありますが)。  でも みな一人ひとりは 《ひと あるいは 人間》です。  神についてそれぞれの名の神が すべて普遍神として捉えられるのは 具体的な人びとそれぞれにとって 《ひと / 人間》が共通に当てはまるのに似ています。  ご回答をありがとうございます。

  • sunabo
  • ベストアンサー率35% (24/67)
回答No.22

no.21のお礼コメントにて、 普遍神は有神論においては名前が人によって異なってい て、アッラーフと示せるはず。 と言っています。 no.3のお礼コメントにて、 誰もアッラーフは神の名だと言っていません と言っています。 no.3,6,8,11,12,16,18で質問を閉じるよう提案しながらも 、踏みとどまって、回答を続ける様子に好ましさを感じ ました。考えつづけるのは大事だと思います。 no.21の回答にて、no.15の回答に同意しました。しかし ながら、ひとくくりに一神教とするのは言い過ぎだと考 えなおしました。一神教は人類滅亡の鍵だという意見へ の同意を撤回いたします。誤りました。ごめんなさい。 話は変わって、神仏習合による、有神論の仏教があるか もしれません。そのあと神仏分離が行われたので、神道 の神と仏教の仏が別の神だという人はいるかもしれませ ん。 ピー信仰 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%BC%E4%BF%A1%E4%BB%B0 というのがあるらしいです。タイで仏教とバラモン教の 習合が行われているそうです。ヒンドゥーの神ブラフマ ーを祭るそうです。ブラフマンとブッダが同じ神という 意見につながるかもしれません。 でも、ブラフマンとブッダが別の神だという意見は見つ かりませんでした。ブラフマンとブッダが別の神だとい う意見は、質問者様のものだと考えます。 どういう料簡か回答いたします。4つあると思います。 一つ目は、修辞疑問文で強調するためです。 ブラフマンとブッダが別の神ではない。というためです 。かみとゴッドとブラフマンとブッダとヤハヱーとアッ ラーフとあっちの神とこっちの神は違わないという断定 を強調するためです。 二つ目は、論争するためです。 断定を強調して反論を誘います。反論してくるどれかの 一神教を擁護するの人と言い争って見せます。アッラー フが神の名というのが誤りなら、ブッダが神ということ が誤りなら、反論がたくさん来るので、より言い争いが 盛んになります。断定を撤回しない方が、より言い争い が盛んになります。仮に以前に誤りと指摘されてても、 訂正の必要はありません。 三つ目は、一神教を悪く見せるためです。 質問者様も普遍神を持ち出して一神教を装います。質問 者様は適当なところで、一方的に話を打ち切ります。反 論してる人も、質問者様も、ひとくくりに一神教に見え ます。一神教は対立を生み取り消せない印象を作ります 。一神教が悪く見えます。 四つ目は、世界の目を覚まさせるためです。 一神教が悪く見えると、私にはわからない何らかの質問 者様の思いついた理屈でもって、世界の目が覚めます。 もしかすると、no.15の回答は、世界の目が覚めることを 人類滅亡と読み取ったのかもしれません。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ アッラーフ  ☆ は アル・イラーハ( the God )であり ユダヤでは ハー・エローヒーム( the Gods ;単数は ハー・エローホ)。これらは 確かに普通名詞です。神という言葉です。ヤハヱーは 固有名詞で 神についた名です。  つまり そのような区別をおこなっていないわけではない。と答えました。  ★ no.3,6,8,11,12,16,18・・・  ☆ この回答者が つねに自説について根拠や理由を示しているとお考えですか?  ★ でも、ブラフマンとブッダが別の神だという意見は見つかりませんでした。  ☆ 前回示しました。:  ☆☆(No.21お礼欄) ~~~~~~   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ B は A の反措定です。対極をえらんでいます。《無い神》を神とする無神論です。  C はけっきょくB の《無梵無我一如》を乗り越えて A  の《梵我一如》に戻したかたちです。  ただし その梵(ブラフマン)をそのまま承け継がずに あらたに《ブッダ》という名前で いくつかにつくりました。浄土宗と真言宗のそれぞれの神を挙げています。  名前が別であり しかもその現われた経緯から行けば ブラフマンとブッダとはほとんど同じものです。普遍神の言い換えとしては まったく同じです。  ★ ピー信仰  ☆ は いわゆる原始心性のアニミズムだと捉えます。世界とわれとが未分化の状態にあるようなかたち。ではないでしょうか。  もちろん あとの時代では 原始心性を脱皮し世界とわれとが分化した心的状態でのブラフマニズム(ヒンドウイズム)やブディズムによる影響を受けています。  ★ 一つ目は、修辞疑問文で強調するためです。  ☆ レトリックは おまけです。口調と言いますか口吻と言いますか そういうおまけをつけています。  ★ 二つ目は、論争するためです。  ☆ 神と言えば 普遍神のことである。というのは 定説でありうると思っていますから そのこと(定説として常識として受け容れられること)を目的としています。  ★ 一神教  ☆ と 普遍神とは まったく違います。神は 一神教のようなシュウキョウではなく オシヘでは有りません。  普遍神を信じよとか拝みなさいとか そういう問題ではありません。  ★ 質問者様は適当なところで、一方的に話を打ち切ります。  ☆ まぁ みっともよくないと言われればそれまでです。  途中で応答しなくなるのは ひとつに もうすでに過去に何度か(そうですね 二・三十回ほど)やり取りをして来ている場合に 同じ内容(つまり 堂々巡り)になって来ているので 打ち切っています。  もうひとつに すでにこちらが二回か三回説明しているのにそれを無視して 何度も同じ反論を繰り返す しかもそのときこちらの説への批判において 根拠や例証を示さない。こういう場合に 打ち切ります。  No.17も 同じ事情です。(こちらの言っていることに耳を貸しません。そういう過去のいきさつがあります)。  ★ 四つ目は、世界の目を覚まさせるためです。  ☆ ふつうに自然に合理的に理解しうる《宗教ではなく神論としての普遍神》説だと思っています。  ★ No.15  ☆ の回答者さんは あくまでシュウキョウを問題にしています。  ここでは 神がすべて普遍神から来ているという主題をあつかっています。  

  • sunabo
  • ベストアンサー率35% (24/67)
回答No.21

ふつうの生活日常のもんだいとしてとらえて、あっち の神とこっちの神が違うっていうことと、おてんとさ まは西から上がるっていうことは関係ないです。 違うってことも、同じってことも、ひとつってことも、 たくさんってことも言えないです。 質問者様の考えは、かみとゴッドとブラフマンとブッ ダとヤハヱーとアッラーフとあっちの神とこっちの神 は違わない。神はこれこれではない。と否定に注目し たものだと類推して魅力を感じていました。 でも、質問者様は同じであるということに加えて、さ らに、普遍神ひとつである。と言っています。神はこ れこれであると言うのは宗教につながると思います。 質問者様の考えは一神教のように思われます。 私はno.15の回答に同意できて、一神教は人類滅亡の 鍵の一つだと思います。もうしばらくは人類滅亡して ほしくないので質問者様の神は同じで普遍神ひとつで ある。という考えに同意できません。 また、質問者様の考えから、世界が目を覚ますことに どうつながるのか読み取れません。 ブッダは神じゃないと思います。だれかが料簡を持つ という仮定が怪しいです。どなたが、ブラフマンとブ ッダとが違う神だと言ったのかわかりません。質問に 答えるのが困難です。

bragelonne
質問者

お礼

 普遍神は ただ ≪有る神 と 無い神≫とに――人によって自由に――分かれ また 前者の有神論では 名前が人(民族)によって異なっている。というだけです。  つまり 次のように示せるはずです。:   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如    霊:かみ(超自然。普遍神がいくつもの分身に分かれている)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  ご回答をありがとうございます。

  • shiren2
  • ベストアンサー率47% (139/295)
回答No.20

どうしてそんな結論になったのか、ようやく理解出来ました。 例えば自称「最高の頭脳を持つ人間」が3人現れたら、 少なくともうちの2人は嘘吐きだというのが常識的な考え方です。 しかしあなたは、全員が本物で、嘘吐きは一人もいないと思ったわけですか。 最高神と名の付くものは、最高であるが故に差は出来ないはず(=無個性かつ同一)。 そこは正しい。 けれども、挙げた名前の神々のうちの何体かは 最高神でもなんでもないという可能性を考えなかったのが致命的ですね。 ついでに言えば、天地を創造した神は最高という唯一無二の立場である保証はありませんし(単に天地を創造する能力があるだけ)、それこそ人間が勝手に最高の存在だと言っただけです。 更に言えば、その存在は一柱である保証(同一存在である保証)もありません。 理論は穴だらけという感じですが、久々に楽しめたのでお礼を言っておきます。 お礼コメントありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ けれども、挙げた名前の神々のうちの何体かは / 最高神でもなんでもないという可能性を考えなかったのが致命的ですね。  ☆ ですから 普遍神へといづれ揚棄されるという可能性において すべて同じひとつの神だと推理しています。致命的でも何でもありません。  ご回答をありがとうございます。

  • shiren2
  • ベストアンサー率47% (139/295)
回答No.19

>その神とその日本人の神とは けっきょくやはり同じである。となるのではありませんか? あまりに理解が酷いので言っておきますが、 ヤハウェは自分以外を神として崇めてはならないとはっきり言っている神ですよ。 南無阿弥陀仏なんて唱えたら、その時点でアウトでしょう。 なぜ日本人の神と同じであると思ったのか、全くわかりませんね。 それともあなたの脳内にしか存在しないヤハウェで、 聖書に書かれているものとは別物なんでしょうか。 そうであれば失礼しました。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ヤハウェは自分以外を神として崇めてはならないとはっきり言っている神ですよ。  ☆ (1) 《神が語ったと人間が書いている》のです。  (2) そのヘブル語聖書をそのまま受け容れて ヤハヱーは ねたむ神であり ほかの神をあがめてはならないと言っているとしましょう。  そうすると 人間は どう考えどうするか?  もし神がいやしくも神なら・そしてほかの神も神であるなら そのそれぞれの神は すべてひとつの同じ神であるはずだ。と考えるでしょう。  その考えは 神の側からしても ただしいとなることでしょう。  なぜなら 真理が 別々のものとしてあるわけがない。となりますから。  あっちの真理とは内容の異なる真理が ほかにある。――こういうことが 人間から見ても神から見てもありますか?  ということは すでにヤハヱーのときから その神は いづれ真理としての普遍神に揚げて棄てられると分かっているということです。  ★ 南無阿弥陀仏なんて唱えたら、その時点でアウトでしょう。  ☆ いまは 神のこと一本に論点をしぼっています。オシヘだとか何かおまじないを唱えるとか そういう問題は 扱いません。  ★ 日本人の神  ☆ についても すでに上に説明しましたように ただひとつの普遍神に行き着きます。  ご回答をありがとうございます。

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.18

>ダルマ・カーヤ(法身)としてのブッダを思うべきです。 >三身常住という理論(?)までつくっていますが この内容は 必ずしも明確で的確なものではありません。  これらが いい見本です。質問者様は >根拠や理由そして例証を示さない。一事が万事 いつもこの調子です。  こちらが >せっかくていねいに説明してやったのに 何にもならなかった。  質問者様の話にはいつも論理というものが欠けています。  論理が破綻した結論ありきの話など考えるに値しません。

  • yuniko99
  • ベストアンサー率15% (31/204)
回答No.17

言わんとする事は分かります、ただその様な寛容な心を広めるためには 宗教大改革が必要です。 皆さんアッラーフとブッダは全然違うと思っていらっっしゃいますから それが同じだということを説かなければなりません 統一教会がキリスト教の神霊の統一を試みましたが失敗に終わっています いっそ宗教がなければややこしくないのですが。

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.16

>この内容は 必ずしも明確で的確なものではありません。  それを言うのであれば、そもそも >ダルマ・カーヤ(法身)としてのブッダを思うべきです。 という内容自体が必ずしも明確で的確なものではありません。  ましてや、その明確でもなければ的確でもない事柄を根拠として、 >だから・つまりそれでも 法身については――けっきょくブラフマン神に倣ったと言えるほど同じ内容として――はっきりしていますので これを取り出し 普遍神の言い換えとして当てることができます。 などという話は、無根拠に無根拠を重ねた結果に過ぎず、考えるに値しません。  従って、 >ブラフマンとブッダとが 違う神だなんて いったいどういう料簡を持てば言えるのか? などという「ヒンドゥー教の神」と「神ではないブッダ」を同一の"神"であるかの様に言う事自体がそもそも間違っています。 >おそらく あなたの反論は ≪かみ――普遍神――≫について問い求めないまま議論をしていることから来ていて かみ合わないのでしょう。  いいえ、全く違います。  話がかみ合わない原因は、≪かみ――普遍神――≫であるものとないものを一緒くたにして全て≪かみ――普遍神――≫であると根拠もなく断じている考えを主張している質問者様にあります。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~   >ダルマ・カーヤ(法身)としてのブッダを思うべきです。  という内容自体が必ずしも明確で的確なものではありません。  ~~~~~~~~~~~  ☆ これが いい見本です。  根拠や理由そして例証を示さない。一事が万事 いつもこの調子です。  せっかくていねいに説明してやったのに 何にもならなかった。  ご回答をありがとうございます。

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     1. 《空》を 神と見立てればよいものを あくまで人間の境地だと言い張った。  2. すなわち 《目覚めた(ブッダ)》状態としてであり 言ってみれば《神として》ではなく 《神の場に行き来できる存在》として にんげんなる《われ》にその境地があるのだと言い張った。  3. ブッダ状態としての《さとり》とは ここで あくまで《確率》として存在するというものである。言いかえると その存在についてもその状態についても ついぞ人が確定して認識しえず言葉によって表現しえない場なのだと。  4. 言いかえると ブッダよ あんたのさとりを 示せという疑いや要求に対しては あくまでシラを切る。《表現しえず》と。  さとったのなら 人びとに分かるように説明せよと言われても 沈黙をまもる。  人びとが それはこれこれの状態を言うのではないか? と尋ねた場合には いやいや さとりとは そんな生ぬるい境地などではないと答える。  では どうなのか? という問い返しには だんまりを決め込む。  5. したがって ブッダのさとりは 表現の問題におさまるかとさえ考えられる。  人びとに分かるように説明しえないならば そのさとりは インチキではないか? という問いに対しては いやいや われははるか昔からはるかこの先までブッダである。と言って聞かない。  説明が出来ていないではないか? という問いに対して いやいや われは その現場を取り押さえられても姦淫はしていないとどこまでも言い張るごとく ブッダなりと答える。ブッダはブッダなんだよおーんと。  ――このような《表現およびやり取りの問題》にすべてをおさめようというおそろしく決意の固い宗教家なのではないか?  6. 一方で 人びとの求道の心を引き出し ただし他方では さとりの証明にかんしては 量子を特定して示すことは出来ないというような論理で どこまでも逃げ しかもブッダ論をぶちつづける。      *  この質問は 下記の質問でのやり取りを承けています。   【Q:ブディズムの再生はあるか。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7563932.html  その趣旨説明から 次のくだりをふたたびかかげます。上の    1. 《空》を 神と見立てればよいものを・・・  について説明している箇所ですから。  ☆☆ (信仰の類型) ~~~~~  ( d ) 有神論および無神論それぞれとしての信仰を 類型的にまとめてみます。互いに同等であると見るというものです。  |非経験の場|経験世界の分身|信仰の形(非思考の庭)|  ○ 神道  |かみ|かみがみ|もののあはれを知る;きよらかなおそれ|  ○ ヒンドゥーイズム  |ブラフマン|神々|アートマンなるわれ|  ○ ブディズム  |空|神々|如来蔵(信じないと信じる)|  |マハーワイローチャナ|マンダラ|秘密なるわざ|  |アミターユス|無し|絶対他力;自然法爾|  ○ 聖書  |ヤフヱフ|無し|名を受け容れる|  |キリスト|無し|名を受け容れる|  |アッラーフ|無し|クルアーンに拠る|    ○ 西欧古典古代  |宇宙霊魂;世界霊魂|神々|《わたし》|  ~~~~~~~~~~  7. 有神論(たとえば 梵我一如)をしりぞけ それでも無神論〔という信仰〕の立ち場をも採らないならば その存在論・その人間の境地論は 《非思考の庭》としての信仰と 思考としての経験思想とのあいだで どっちつかずのままに終わる。というおそれが 大きいと思われる。  果たして どうか?

  • 普遍神を名づけた個別神をめぐる主観は 特殊絶対性

     1. 神はすべて 同じひとつの普遍神である。これは 一般絶対性とよぶ。  2. 一般絶対性なる普遍神を 個別に名をつけて――あるいは 名などはなく神も無いのだと見て――主観がえらんだ神は 個別絶対性である。  3. すなわち 《無い神》または《有る神:オホモノヌシ;ブラフマン;ヤハヱ―;アッラーフなどなど》。  4. ブラフマン(梵)なる神は わが自然本性なるアートマン(霊我)と一体である――すなわち 梵我一如――と忖度するのは 特殊絶対性の始まり。  5. ただし アン-アートマン(無‐霊我:無我・非我)を唱える場合にも その元に言わば無梵(ア‐ブラフマン)なる《無い神》をかかげ そのようなマクロコスモス( 宇宙)とミクロコスモス(人)との一体を言うようであるから――つまり《無い神》派にあっても―― 類型としての梵我一如は 共通なようである。  6. アミターバ・ブッダなる《有る神》の場合は 主観が アートマン(霊我)の代わりに ブッダター(仏性)なる霊において呼応する。すなわち 仏仏一如なる梵我一如パタンである。  7. つまりここまでは 類型としての梵我一如が なお《一般絶対性=個別絶対性》のもとに その基礎となり基本となっている。  8. そこから主観はさらに 神についておのが思いを描き出す。  9. 神は われと――信仰なる《非思考の庭》としてだけではなく――思考においても・また感性にあっても つながっている・・・といったように 主観が 飛んで行く。これが 特殊絶対性である。  10. おれはきのうの夜 神を見たんだと言うのも ひとつの特殊絶対性である。そんなわけねえよと応じるのも 同じく特殊絶対性。なぜなら どちらも 証明できない。(だから 絶対性ないし神と呼んでいる)。  11. この理論で――つまり 添削をお願いしさらに実践理論を展開して行って欲しいのですが・それが 質問ですが――おおよそ世界に起きている《神をめぐる心的現象》のすべてについて 理解の基礎としての糸口を明らかにできるのではないでしょうか。  なお 次の趣旨説明欄をも参照ください。  【Q:一般および個別絶対性理論 ならびに特殊絶対性仮説】  https://okwave.jp/qa/q9358717.html

  • われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか

     次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いです。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?  (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

  • われわれは各々が ブッダであると何故言わないか

     あらためて問います。  資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 2 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 1 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いのかたちで考えてまいります。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(霊我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《有る神》と呼んでもまた《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りているナゾの何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら――ただの程度問題なのだから――余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それも中途半端に触れたりするのではなく すでに初めに大前提としてそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) しかもおそらくは 《非思考の庭》にあって そういう前提ないし想定の理論が成り立っているのであろうか。 つまり そのようなナゾとそしてナゾではなく認識しうる経験世界との――ヒラメキなどをとおしての――切り結びの問題か?  (9) ブッダということは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか?)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないのか? なぜゴータマの代化城なるマボロシから卒業しないのか?

  • 神は人の脳内に宿るもの

      神は人の脳内に宿るもの、決して既成のものとして他から与えられるものではありません。 その神を自らの人間精神に基いてデザインし、その神に本願を与え、その神に命を吹き込むのである。 ついでにその神にエンブレムを与えれば完璧である。 そしてその神を信仰すればよいのである。 他から与えられた神、既成宗教は全て偶像崇拝である。 イエスキリストも、アラーも、ブッダも、全て偶像である。 既成宗教なんぞクソ喰らえ、これでよいのではないか。