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旅行先で、集団食中毒を隠そうとした?企画者について
お世話になります。 もう10年以上前なのですが、パッケージツアーで30~40人くらいでアジアの国に行きました。 (国を特定しないのは、その国について中傷したくないからです) 参加者はほぼ20代、同伴者として40~50代の教育関係者3名でした。 ある時、内陸部のマイナーな遺跡へのショートトリップがあり、夕食として現地の田舎料理を頂きました。 その時の料理は、確か「川魚の姿煮(大鍋)」「青菜の炒めもの」 「鶏肉またはカエル肉の甘辛炒め」「卵ときくらげの炒め」「野菜スープ」 といった感じで、見た目は豪華だったと記憶していますが、 おそらく食材の鮮度が悪く、味付けも素朴だったと思います。 なので味は正直まずく、みんな不満をいいながらも空腹な人は食べている様子でした。 私は個人的にはあまり手を付けなかったのですが、その翌日~2日後にかけて、腹痛や下痢を訴える人が半数現れました。 宿舎に戻ったあと、病院で検査を受ける人もいました。 私はそのとき、宿舎の近くの食堂に入ったのですが、そこでたまたま、企画者の夫妻が相談していました。 彼らは私に気づかなかったのですが、食事にほとんど手を付けず、30分くらいずっと困ったように相談していました。時には女性の方が焦燥した感じで声を荒げ、口論していました。 「腹痛の人がたくさん出ているのに付き添わず、何を相談しているのだろう??」 と若かった自分はそれくらいの無邪気な疑問しか出なかったのですが・・・ 食堂を出る時、私に気づいた彼女達は、ちょっとびっくりしていたようですが、笑顔で挨拶してくれました。 その翌日、ツアー客全員に、「原因はバス内の空気が汚れていたことに」と告げられました。 私を含めて一部の人は「空気が悪くてなぜ腹痛?(頭痛や吐き気の人はいない)」「行きと帰りのバスは同じだったのに、夕食後の帰りのバスでだけ発生したのは?」といった疑問を言っていたようです。 ある人は下痢からカゼを併発し、そのまま帰国した人もいましたが、おおむね皆2~3日で治り、ツアー客はこの事件を忘れていきました。私と友人だけ、「出すもの出したから(食あたりが)治ったんだろう」と皮肉っぽく笑っていました。 今更ながらその件を思い出したのですが、やはりどう見ても食あたりの症状でしたし、空気が悪かったという説明は厳しい物があったかな、と思います。しかし企画者の立場として、責任問題にせず、うまく「無かったこと」にするには、バスでの空気汚染は妥当なセンかな、とも思いました。 ここで倫理の問題が発生するのですが、一番丸く収めるためには「ウソ」は必要なんでしょうか? 個人的に思うのは、企画者がレストランをしっかり選定しなかったミスです。日本と違って大陸の田舎は新鮮な食材も少なければ、調理知識も都市部とは数段劣ります。そうした下調べは足りなかったでしょう。とはいえ、当時はネットも無く、現地ネイティブの同行者もおらず、やはり運が悪かったという弁護もあります。 なぜ私がこの事件をずっと覚えているのかというと、食中毒そのものではなく、「相談して、事故を隠蔽しようとしたこと」という、人間の汚さのようなものを見たからです。 死人が出たわけではないので、不幸中の幸いだったと思います。しかし軽度なミスなら隠蔽していいのか?という疑問もあります。つまり、いくら若者が相手で騙しやすいとはいえ、数十人を引率する人間の責任感の問題です。 例えば、食中毒であったことを認め、すぐに病院に行ってよく効く下剤や漢方薬を買い集めてくる、医者を宿舎に2~3日常駐させる、といった真摯な対応もあったと思います。それなら逆に信頼も回復できたはずです。 企画者の夫妻(50代男性とその配偶者の40代女性)について、今もたまに思い出し、倫理とか責任感ってなんだろうなあとふと思ったりしています。騙したり隠蔽することが「大人」なんでしょうか?だとすれば自分は大人にならなくていいかな、とか思うわけです。 みなさんはこの事件について、どう思われますか? 自由な意見を頂けましたら幸いです。 また、空気が悪いことで腹痛だけピンポイントに発生するようなウイルス?症状ってあるんでしょうか。臨床医学的に納得させて頂ければそれはそれで長年の疑念が寛解しますので助かります(笑)
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- eroero4649
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自分がそういう立場になってみるとわかりますよ。自分のミスを皆の前で認めるって、ものすごく勇気がいる行為です。なぜなら、特に人数が増えれば増えるほど「ミスを認めるなら責任をとれ」と迫ってくる人が出てくるからです。 それができるかどうかで、その人の人間の器がわかるのですよ。世間の人々の、そうですね、まあほとんどといっていい人たちは結局そういう立場となると自己弁護と責任回避にまわります。だって世の中にわが身ほど可愛い存在はないですからね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 そうですね、おっしゃる通り多くの人はそういう選択肢を取るはずで、だからこそ記憶に強く残ったんだと思います。食堂で焦燥した感じで口論していた「大人の相談」が、当時若者だった私にとっては印象深かったわけです。 こうした行動を見ると、司馬遷の史記など、いわゆるアジア的価値観、儒教的価値観と道徳について考えさせられます。何千年も同じような問題が議論されているので、深いテーマと思います。 まあ個人的には、ミスを認めたとしても死人が出たわけでもないし、医療費くらいの賠償かと思いますので真摯に対応すべきだとは思いました。むしろ、それを回避するためにウソをつくという方が「重大な過ち」という認識です。カルマ論の考えでもありますが・・・ 逆に、相手のミスや過ちにつけこんで態度を大きくする人間というのは、それだけ自分の魂に傷をつけてしまっているわけです。社会はそんな人達ばかりではないと信じたいですね。