- ベストアンサー
真理値?
大学のレポートで、困っています。 「私はいまここにいる」と「Yは6時に弘前にいる」 この発話文は、それぞれ真か偽か。 どういう論点なのでしょうか?
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
お礼拝見しました。 そうですかてんぷらですかそういえばハモのてんぷらがおいしい季節ですね、ってチガウ。 『言語行為』、図書館で読み直してみました(今日から短い夏休みなんです)。 確かにいきなりこれ読むのはむずかしいですね。とくにサールはオースティンの考えをもとに発展させてるから、用語だけでもわけわかんない、ってことになるかもしれない(っていかにも詳しそうな口振りですが、私が教わった先生は分哲とポパーを憎んでいたので、ここらへんはやってません。本当にわかってんだかわかってないんだかってトコです)。 >「Yは6時に弘前にいる」 この命題でサールが問題にしているのは、固有名です。 「固有名は、相異なるさまざまな場合において、同一の対象を指示するように使用される。対象が経験する歴史的経緯の中のさまざまに異なる場合において同一の名前を使用するということは、対象自体が同一であるということを前提とする。(…略…)ところが、対象が一貫して同一であるということを前提とするということは、同一性に関するなんらかの規準がさらに別個に存在することを前提としてはじめて可能である」(『言語行為』p.295) つまり、いま(発話)の時点(t1)で「Y」と呼ぶ人物と、6時の時点(t2)で「Y」と呼ぶ人物が同じであるといかなる規準でいえるのか、さらに「弘前」という固有名で呼ばれる場所はいったいどのように同定できるのか、発話者がその問いに答える能力が前提となって、はじめてこの発話が意味を持つ、と言えるのです(#2で書いたのは微妙に違ってる。ゴメンナサイ)。 ここからサールは「固有名」についての考察をおこない、「固有名に意味はあるのか」という問いに対しては、否、といいます。ただ、そのあとで、こうつけ加えます。 「固有名とそれが論理的に結びついているか否かということを問題にする限りにおいて、私の解答は、「然り。ただし、あるゆるい仕方(loose sort of way)において」というものである」(引用同 p.300) とにかくこの考察の部分は長くなるので省略して、とりあえず、サールは固有名には意味はないけれども、ある条件においては意味を持つと考えている、ぐらいに理解しておいてください。 さて、その固有名が意味を持つという条件です。 話し手と聞き手の両者が、そこで使用された固有名に、なんらかの同定記述を結びつけることができるなら、固有名を置き換えることができるために、同定の条件を満たすことができます。 つまり「Y」という固有名を、話し手はたとえば「曙橋大学工学部電子工学科三年生学籍番号1168の彼」という意味で用いており、聞き手も同じ意味で受け取っているならば、この発話には意味があります。 つまり話し手は「Y」という名前を発言することによって、聞き手に「Yは曙橋大学工学部電子工学科三年生学籍番号1168である」というひとつの命題を伝達しています。そして、これが話し手、聞き手両方にとって、実際に同一の対象について真であれば、「Y」は同定されていると理解することができます。 「弘前」という固有名に関しても同じです。 「弘前は青森県にある場所である」(あるいは「弘前は駅前にある居酒屋の名前である」)という命題が、話し手聞き手両方にとって真であれば、「弘前」という固有名に意味があると考えることができます。 さらに6時の時点で弘前にいる人物が、話し手と聞き手が現時点で同定する「Y」という人物と一致する必要があります。 よって、「Yは6時に弘前にいる」という命題は、 ・話し手聞き手両方が「Y」および「弘前」というふたつの固有名について一致しており、 ・かつまた「6時に弘前にいる人物Y」が現在対象としている「Y」であると同定しうる 以上の条件を満たす場合においてのみ、真であるということができます。 …たぶん。
その他の回答 (2)
- ghostbuster
- ベストアンサー率81% (422/520)
サールの言語行為論ですね。 ここらへんあまり詳しく読んだことはないので、この書き込みは話半分(笑)ということにして、ぜひ、ご自身でジョン・R・サール『言語行為 ―言語哲学への試論―』(勁草書房)あたりを当たってみてください。“サール、言語行為”で検索してもいくつかサイトがヒットするようです。 サールは人の話に注目した言語哲学者です。 「ジョーンズは家へ帰った」と「私」が述べるとき、それはどういう意味を持つのか。 そういうとき、普通、聞き手は、ジョーンズ君は家へ帰ったんだな、と受け取るわけです。 そして、ブラウンさんがパーティに行ったこと、あるいはグリーン氏が酔っぱらっていることは意味していない。 けれどもなぜそのようなことが可能なのか。 なにごとかを意味しつつ何かを述べることと、なにごとも意味することなくなにかを述べることの間にはどのような違いがあるのか。 さらに、「私」が何かを述べることによって意味されることと、誰かが述べることによって、あるいは述べないことによって意味されることの関係はどういうことなのか。 そのような問題意識から、発話行為(speech acts)を研究したんです。 >「私はいまここにいる」 通常の状況において、この発話は奇妙なことです。 「私は自分の名前を記憶している」 「彼は息をしている」 「彼女の左手には指が五本ある」 などと同様、一般的な状況において、こうしたことを「わざわざ」述べることは奇妙なことです。 けれどもたとえばチャットの場合「私はいまここにいる」とはっきりさせることに意味がある場合も考えられます。 あるいは事故などで、一時的に記憶障害に陥った「私」であれば、「私は自分の名前を記憶している」という発話に意味がある。 同様に、倒れている「彼」が息をしていれば、あるいは残された犯人の手形が三本指で、「彼女」をその被疑者から外そうという意図があれば、上記の文章も、十分意味のある発話行為となります。 すなわち、状況が「逸脱的」であるときに限って、これらのことがらを述べることが適切であるのです。 その主張の脈絡が何らかの形で根拠を与えない限り、的外れな主張となるような発話は、無意味なものか、あるいは真理値を問えるものであるか。 サールは陳述の否定形を考えます。 「私はいまここにいない」 「私は自分の名前を記憶していない」 「彼は息をしていない」 「彼女の左手には指が五本ない」 標準的状況では否定の陳述は無意味である可能性はなく、端的に「偽」となります。 ということは、これをさらに否定して得られるもとの肯定的陳述は、「真」ということになります。 >「Yは6時に弘前にいる」 これで問われているのは 「名前Nを使用して時点t1において指示された対象と、同じ名前を使用して時点t2において指示された対象とは、いかなる規準によって同一とされるのか」 ということです。 で、この同一性の証明はどのようにやるのか、ノートにないんです(ゴメンナサイ)。 本もいま手元にないんで、ちょっと確認することができません。 中途半端な回答で申し訳ないんですが、私にわかっているのはここまで、ということで、あとは識者の回答を待つか、質問者さん独力でがんばってみてください。
お礼
ゴーストバスターさん、どうもありがとうございます。 サールの本を手にしましたが、難しかったです。簡易な言語哲学の本に目を通しました。 てんぷらを食べながら、「わたしはいまここにいる」が、真であるというということに、気づきました。考え方はゴーストバスターさんと大体同じです。 「Yは6時に弘前にいる」の説明のt1は、何を表すのでしょうか。もしよろしければ、教えてください。
- liar_adan
- ベストアンサー率48% (730/1515)
後半だけ。 「Yは6時に弘前にいる」 というのは、 実際にYさんが、6時に弘前にいるかどうかで 真偽が変わってきます。 真である可能性も、偽である可能性もあります。 こういう場合たしか「真偽は偶然的」というのだったかな…。 レポートで中心にしてほしいのは、おそらく前半の方でしょう。 この文、(わざわざ「発話文」と断っている)の 真・偽は偶然的か。それとも決められるか。 決められるとしたらなぜか。 さらに、文を構成している 「いま」「ここ」「いる」 などの要素は、どういう意味を持ち、 結論にどう関わってくるのか。 そのへんをを自分なりに分析して、レポートに書けばいいのだと思います。
お礼
ありがとうございます。実際、こういうところで、質問させていただくのは、初めてなんです。 哲学って、よくわからないのですが、自分なりに分析してみたいと思います。
お礼
こんな私でも分からせてくださる、丁寧で的を得た回答、ありがとうございます。 「Yは6時に弘前にいる」という発話文に関して、過去の習慣の場合と、未来の場合を分けて考えています。 「(今日いるかはわからないけどいつもなら)Yは6時に弘前にいる」という文と、「Yは6時に弘前にいる(だろう)」という文に分けて、考えています。つまり、発話の状況を区別したいと思います。 ゴーストバスターさんのおっしゃるように、固有名詞の大切な論点を組み込もうと思います。 丁寧な回答、本当にありがとうございました。