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親王任国について
播磨守だ武蔵守と大抵の国では貴族や武士が国主の地位につきますが、親王任国だけは親王以外の人間が国主になることはできないため、貴族や武士では常陸介や上野介、上総介と国主の次官にしかなれません。 なぜ親王任国がほぼ北関東に集中してあるのかその理由がわからず教えていただきたく思います。 3か国とも令制国では大国に区分されいますが、大国はこの3か国以外にも何か国もあります。 それにも関わらずなぜこのような偏った場所に親王任国が偏ったのかがわかりません。 よろしくお願いします。
- 馬鹿鳥 仁左右衛門馬鹿犬(@osuwariha)
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親王国制度というのは元来親王の経済基盤の確保という意味で設けられたのだ、という説が主体ですが、それでは何故この三国かということになりますと、これだけの理由では一律の説明は難しいでしょう。 各々の国にそれなりの理由があったのではないのかと推量させれますが定説がありません。 常陸国はおそらく鹿島神宮が大きな理由かと思います。 鹿島神宮は非常に社格の高い神社で宮中の四方拝でも拝礼される神社です。 又藤原氏の氏神でもありました。 春日大社はこの鹿島神宮の神が鹿に乗ってやってきた神社とされていました。 現在の奈良公園の鹿のご先祖様です。 上総は元々捄国(ふさのくに)と呼ばれ麻の名産地でした。 貝塚の遺跡が多いことや前方後円墳の数が多いことでも知られている地方です。 勝浦、白浜、野島、田原、神前、浮嶋など紀伊半島と類似の地名が多いことでも知られています。 つまり非常に早い時期から人が住み機内と交流があった地域だと言えます。 当時の水田の水位調整技術では平地は難しく、谷津、谷戸などと呼ばれる、丘陵に囲まれた傾斜地が好まれました。 房総半島ににはこのような地形が豊富でかつ気候も温暖でした。 上野は、馬の放牧場として古くから官営の牧が作られていました。 毎年60頭の馬が朝廷に献納されていました。 当時の主要街道は中山道で関東平野にはいる入口が上野国でした。 坂東という言葉も碓氷峠の坂の東側という意味からきた言葉です。 歴代朝鮮半島の王国が滅亡した際の亡命者を移住させていた地域でした。 現在も高句麗や新羅などに因んだ地名が沢山残っています。 大和朝廷にまつろわぬ民(蝦夷)が住む陸奥(奥州)に対する最前線の地域の三国であったとは言えます。 いかに親王でも専用の領地とするには、西国は既得権の塊で、朝廷の人々にとってなじみの薄い最前線の国が指定しやすかっただけだ、ということかもしれません。 経済的にも遜色がない地域ですので、親王側にも納得性があったのでしょう。
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- jkpawapuro
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都から近い大国は朝廷の財源としても既得権益としても反乱のリスクとしてもややこしいので、遠隔地が選ばれたのではないでしょうか? 遠隔地で大国というと関東の5か国に陸奥、肥後になります。
お礼
ありがとうございます。
- technatama
- ベストアンサー率45% (416/918)
私自身は、この件について詳しくないのですが、ヤフー知恵袋に下記のようなQ&Aがありました。 ご参考までに。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14143747919?query=%E8%A6%AA%E7%8E%8B%E4%BB%BB%E5%9B%BD&status=solved
お礼
ありがとうございます。
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