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高校生です。1年ほど前から世界5分前仮設などの哲学

高校生です。1年ほど前から世界5分前仮設などの哲学的な考えが頭から離れず、とてもこわくなり、苦しくなります。いまは自分は実は自分ではないのかみたいな考えが頭から離れず怖くなります。 どうしたらよいでしょうか

みんなの回答

回答No.9

そもそも君の時間は生まれた瞬間に死んでいる。 君は死を理解することを目指し、死にきれない屍として、世間に私は生きているとウソを言っている。 時間の止まった君にとって、5分という先は永遠に訪れない。 生まれた瞬間に終わった君には時計の針は意味をなさない。

noname#221368
noname#221368
回答No.8

 質問を誤解している可能性は十分にありますが、   「なぜ自分は自分でなければいけないのか?」 と似た問いにみえました。  どうせ偶然に生まれてくる人間なら、なぜ自分は日本のA君やA子ではなく、アメリカ生まれのボブではないのか?、という・・・。  人間は自分の存在を意識的に自覚できる生き物です。なので出自の偶然性が許せなくなる時があります。でももしボブとして生まれたら、それはもはやA君やA子ではないんですよ。それはボブです。そしてボブはボブで、どうして自分はA君やA子ではないのか?、と自問するでしょう。  それは自分が唯一無二の存在である事に気づく瞬間でもあります。そう自覚する事は、そんなに悪くはない事だと思いますよ。

  • HeyXey
  • ベストアンサー率26% (134/498)
回答No.7

 そうそう、『自分は哲学者である』とか『哲学的に思考している』と言う人は、ひょっとすると『自分は特別な人間だ』と思いたがっている人ではないかと僕は見ているのです。  ひとには『自分は意味のある重要な存在であると思いたい』欲求があります。「正しい人間である」「特別な存在である」「重要な人物である」「人から好かれる人間である」…そう思いたい“自己重要感に対する”欲求が常に存在します。  学校へ行くと自分のことをよく受け入れてくれるOOさんがいる。すごく嬉しい、すごく楽しい。お昼休みの何気ない会話の中で、私たちは自己重要感を満たされ、相手の自己重要感を満たしているのです。この質問・回答だってそうです。  表面的な哲学的真偽のこととは別に、そういう心理的な潜在的欲求を読み取ることの方が実社会では大切なのです。そして、たいていの場合は気づかないフリをしておきます。  自己重要感に対する欲求は、言い換えれば「よりよく生きたい欲求」、「自分の人生には意味があってほしいという願い」だと思います。決して汚い欲求などではありません。潜在意識に追いやって隠そうとすると、いびつな形で現れるのです。  回答のピントがずれてしまいましたが^^;、要は問題の枠組みをずらすこと、それによって『これが全てだ(すべてに優先する)』という考えから抜け出せるのではないでしょうか。僕もそうでした。『究極の要約』を目指すことで、すべての問題が解決すると思っていた節があります。でも、そのような要約など無いのです。

  • HeyXey
  • ベストアンサー率26% (134/498)
回答No.6

 そうですねぇ、さらに上から眺めればいいんじゃないでしょうか。  ある命題があるとして、その命題が正しいか正しくないかを考えるという地平線のようなラインがあるのですが、さらにその上から眺めるような「命題」、すなわち「その命題の真偽を考えることに意味はあるのかどうか」という命題を設定するのです。  とても哲学的な考え方のように思われるかもしれませんが、こういうのは我々が日常的に行っている思考プロセスではないでしょうか。思考の“枠組み”を変えて考えるということです。いたって普通の考え方です。

  • koosaka
  • ベストアンサー率43% (78/179)
回答No.5

ホント、高校生なんですか? 私の高校生の時は、あなたのようなことは考えたことはありませんでした。 私が哲学のようなものを考え出したのは、18歳の時からです。 ある日、ショーペンハウワーの「自殺について」という短いエッセイを読んで、死について考え初め、それで哲学に関心を持ちました。 プラトンは「死について考えることが哲学の初め」と言っていたので、それからはもう、ずっと死について考えることで過ごしました。 真夜中に、死を考えていて、眠れなくなることもありました。 恐くて、怖くて、この自分が世の中からいなくなってしまうということをどう考えたらよいのか、それがどうしても分かりませんでした。 それで学校を卒業した後、たしか24歳ころに、鎌倉の禅宗寺院を訪れ、毎日座禅をして過ごしました。 座禅によって、この不安を取り除いてもらえると期待したからです。 でも、指導僧から、本当に死の恐怖を乗り越えたかったら、出家して僧侶になり、何十年もの修行をしなければならないと言われ、座禅を諦めました。 そして会社勤めをしながら、ずっと哲学書を読んできました。 でも、哲学書を読んでも、分からないことばかりで、私の疑問と私の不安はずっとそのまま続きました。 今でも、その不安をずっと引きずっています。 もう、こうなったら一生、不安と付き合って行くほかはないかと、思っています。 ちなみにラッセルの「世界5分前創造仮説」についてラッセルみずから以下のように言っています。 「懐疑論者によれば、現在において生じるものである記憶には、記憶されていることが今とは別の時点で生じたということを証明することはできない。というのも完全に間違った数多くの記憶も込みにして今から5分前に世界は現在のような在り方で誕生したかもしれないからである。・・・・・もっともらしくない仮説のように思えるだろうが、論理的には論駁不可能なのである。過去は再生できない以上、過去の事象に関する信念を直接裏付けることができないのは明らかである」 どういうことかというと、人間には記憶間違いがあるけれど、正しい記憶と間違った記憶の区別ができない、ということ。 そしてその記憶が、今から別の時点で起こったことと証明することもできない、と言っています。 なぜならば、過去は過ぎ去って、どこにも存在しないからです。 たとえば、私が何かをして、それが過去のある時点で生じたことを証明しようにも、すでに過ぎ去っていて、それを検証、つまり確かめるすべはない、ということ。 確かに、私がそれをしたのは昨日の何時何分と特定できるかもしれませんが、それは私が時計の時間を信じているからで、つまり時計の場所を指示しているにすぎません。 でも、その時計の時間、時計の場所を指示して、本当にその時刻にそれをしたことを証明しようにも、過去の出来事は過ぎ去っているので確かめようもありません。 もし、検証する手段があるとしたら、私の記憶しかありませんが、その記憶というものが「あいまい」である以上、記憶しているから、実際にその時刻にそれが起こったことを証明できないという点では同じです。 このことは世界の誕生にも言えます。 私たちは現在の宇宙は今から146億年前に1個の素粒子から、そのビッグ・バンによって始まったとされますが、20世紀初頭、星の赤方偏移という観察から、宇宙が遠ざかっていることが分かり、それをさかのぼって行けば、たぶん1個の素粒子に行き着くのではないか、という仮説に基づくものです。 そして時間というものを直線的、規則的、等間隔・一方向という前提のもとに考えて、それを146億年前と言っています。 でも、時間が直線的かと言ったら、必ずしも直線的ではないから、146億年まえにそんなことがあったかどうか分かりません。 過去は過ぎ去ってどこにもないのですから、確かめる手段がありません。 というわけでラッセルは世界はたった5分前に誕生したと言っても、論理的に言ってそれを論駁できないだろう、と言っています。 論理的には・・・・・・ もちろん、論理的でなく、事実的に言ったらそんなことはありません。 私は今から10分前にスーパーに買い物に行って帰ってきたばかりですから、5分前に世界が誕生したなんてありえないと思っています。

回答No.4

時空構造を原理にまで遡って論理的に説明する、 物理学(相対性理論、量子力学)や天文学(宇宙論) を学びましょう。 絶対時間や絶対空間、あるいは存在を先入化した 古典哲学は、言葉あそび(といって悪ければ文学) に過ぎません。

  • e_editor
  • ベストアンサー率35% (19/54)
回答No.3

ハイデガーの存在と時間を読んだらいいと思います。

noname#216212
noname#216212
回答No.2

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E4%BA%94%E5%88%86%E5%89%8D%E4%BB%AE%E8%AA%AC これですね・・ では あなたが産まれて16年以上の歳月は 五分間の間に起った事なのかな?・・ 歴史は 五分で造られたのかな? ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ カップヌードルじゃ あるまいし・・ そんなに簡単に造れない・・

  • cactus48
  • ベストアンサー率43% (4480/10310)
回答No.1

世界5分前仮設って何の事?。それを詳しく書いて貰えないと答えようが ありません。それと同じ質問を複数するのは違反だから、どちらか一つを 閉め切りましょう。

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