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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:カント哲学または認識に関して)

カント哲学または認識に関して

koosakaの回答

  • koosaka
  • ベストアンサー率43% (78/179)
回答No.3

五官を通して受容されるのは、ロックの言う第二性質と言われるもの、視覚・味覚・触覚・嗅覚・味覚などの感覚データだけで、第一性質と言われる「広がり」「延長」「形」「運動」などは、カテゴリーであって、悟性に属するものであり、ア・プリオリで、認識というのは、外的刺激・感覚データである「内容」を直観の「形式」である時間・空間で透過し、それをア・プリオリなカテゴリーによって総合する、そうして出来上がるというのがカントの考えです。 家を知覚するとき、受容されるのは、家の第二性質だけであって、家の「形」や「大きさ」は知覚されません。 ロックやヒュームの言う「印象」というのは、第二性質のこと。 第一性質は実体なので、その実体の「属性」である第二性質が「印象」として受容されるのです。 家の分量、というのはカテゴリーの一つ、質・量・関係・様相の4つのうちの一つ、量のカテゴリーです。 寝室の大きさ、庭の広さ、部屋が何室あるか、というのも同じです。 あなたは「空間的な枠組みを通して印象を受け取ることが困難なものがあります。たとえば計画とか、規則とか・・・」と言っていますが、「枠組み」とはカテゴリーのこと、そして印象とはすでに申し上げたように感覚データのこと、そして計画とか規則は「印象」に基づくものではなく、知性・悟性に基づくものだから、「印象」を必要としません。 まあ、計画や規則を具体化するときには感覚データ・印象を必要とするかもしれませんが・・・・。 「計画とか規則とかは悟性の働きによって性質に着目する」というのはそのことです。 計画・規則を具体化するときに、性質に着目する必要が出てきます。 あらかじめ性質に着目する必要はありません。 「悟性の働き始める前の感性の働きの段階」では、計画とか規則は必要としないし、悟性があればよいのですから、イメージだけがあれば十分です。 イメージとは理念のこと、「イデア」であり、建物だったら、設計図です。

feeders
質問者

お礼

回答ありがとうございました。非常にわかりやすく解説して頂きました。カント哲学に対する当方のこれまでの理解が生半可なものだったことがよくわかりました。 そこで再度質問させて頂きます。対象物を具体的かつ個別にとらえるときはカテゴリーによってとらえるわけですね。寝室の大きさや広さをとらえるのは量のカテゴリーで、計画や規則を具体的に把握するのは質のカテゴリーだと言っていいわけでしょうか?その場合、計画や規則の把握を量のカテゴリーでもって把握することが困難なので、その場合は別のカテゴリーでもって把握するしかない。すなわち質のカテゴリーでもって把握することになるということでしょうか。 それとも、まだ当方がカテゴリーなるものを理解できていないようでしょうか? 特に私が関心を持っているのは、「もの」を一つのものとして把握するとき、どのようなカテゴリーを使うかということです。一つのものとして把握するということは、同種の他と区別することができる、あるいは同種の他のものとの間に境界線を引くことができるということです。  例えば、家であれば量のカテゴリーを使って一定の大きさを持つものと把握し、広がりの限界のところで境界線を引き、その家を一つのものと見なすのではないかと思うわけです。この理解でよろしいでしょうか。 また、規則や計画であれば、量のカテゴリーを使って一つのものと把握することができないので、質のカテゴリーを使って、すなわちある規則と別のある規則の性質の違いに着目して、他との規則や計画との区別を行い、一つのものとして把握するのではないかと思うですが、この理解でよろしいでしょうか。  もしかして、全くの勘違いなのかもしれませんが。  もう一つ、カントの言う空間と時間についてですが、--何かを印象として受け取るとき、印象の受け取りを可能ならしめるものが受容者の側にあるはずですが、その最も基本的なものが空間と時間ということなのでしょうか?印象受け取りの「場」のようなものと解釈しています。 ハイデッガーふうの考え方だと、人間にとって「もの」は何かのために存在するものです。また、その「もの」を使用する人間がいるはずです。もっと言えば、その「もの」に関心を持つ人間がいるはずです。今述べたようなことはある種の空間と時間の存在を前提としなければ成り立たないはずです。この場合の空間・時間とカントの言う空間・時間は同じものなのでしょうか。 もっとも、私の理解では、カントは時間・空間が主体の側に備わっていると考えましたが、ハイデッガーは主体と客対物の双方が同時に関わる場面にもともと存在しているかのように言っているように思えます。いかがでしょうか?

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