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カント哲学または認識に関して
- カント哲学とは、知覚に関する考え方や認識についての理論を扱った哲学のことです。
- 家を知覚する際、感性の働きによって空間的な枠組みで家の印象を受け取ります。悟性の働きによっては、家の形や大きさを把握します。
- ただし、知覚によっては難解なものもあります。例えば、計画や規則などは感性よりもむしろ悟性によってとらえられます。ただし、感性の働きの段階ではどのようにとらえられるのか、は明確ではありません。
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再度補足に回答します。 アリストテレスによれば、たとえば「私は人間である」という命題があったとして、主語が実体もしくは個物というもの、それに対して述語・人間である、が概念もしくは普遍と言われるものです。 アリストテレスは「文法で主語に置かれたものが実体である」とも言っています。 私たちは、「私は・・・・・」とか「対象は・・・・・」とか「魂は・・・・・」とか「時間は・・・・・」とか「自我は・・・・・・」とか、何ものかを主語に置いてそれを語るとその主語を実体的に存在するものと錯覚します。 だからアリストテレスのいう言葉は正確には、「文法で主語に置かれたものは実体とみなされる」というべきです。 だからカントは「純粋理性批判」の実体論的誤謬推理の批判で、プラトンの魂が実体という説と、デカルトの心とか自我が実体とする説を誤謬推理によるものだと批判しました。 このカントの批判以降、魂とか、心とか、自我が実体的に存在するという人はいなくなりました。 そして「カテゴリー」というものは、主語に適用されるものではなく、というのも主語は実体ないし個物ですから、個物とは一つのものでなければならないし、実体も一つのものでなければなりません。 そして「カテゴリー」は述語に適用されるもので、概念の区別や、分類方法です。 カントの「カテゴリー表」によれば、「カテゴリー」は大別すると、質・量・関係・様相に区分され、さらにそれを枝分けすれば、質の「カテゴリー」は事象内容性・否定性・制限性に分かれ、量の「カテゴリー」は単一性・数多性・全体性に分かれ、関係の「カテゴリー」は実体と属性・原因と結果・相互作用に分かれ、様相の「カテゴリー」は可能性・現実性・必然性に分かれます。 たとえば、建物が一つ、と言った場合、主語の建物が個物・実体とすれば、述語「一つ」というのが、量の「カテゴリー」の単一性、です。 そしてカントは主語が必ずしも実体とは限らない、と言ってアリストテレスを批判し、主語が実体というためには、それは直観によって規定されなければならない、といいました。 直観によって規定される、とは、感性によって検証されなければならないということです。 前置きはそのくらいにして、あなたのに質問に移りましょう。 あなたはいいます「家を知覚するとき、感性の働きによって、空間という枠組みにおいて家の印象を受け取ります。すなわち家の形や大きさを見てとります」と。 ・・・・・・前にも言いましたように、印象というのは感覚データだけで、形や大きさは感覚・知覚されません。それは直観の「形式」である時間・空間とか「カテゴリー」の役目です。 だからあなたも「空間という枠組みにおいて」と仰っているのは、その通りです。 「ものを一つのものとして認識する過程がどのようなものか」「ものを一つのものとして認識するのはカテゴリーを適用する前なのか、適用の最中なのか、後なのか」 ・・・・・カントにしたがえば、外的世界の感覚データを感性で受容し、直観の「形式」である時間・空間で秩序あるものとして整理整頓し、それを人間に先天的に備わった「カテゴリー」によって分類し、区別し、しかる後、総合する、それによって認識が出来上がる、といいます。 そしてカントは「形式なき内容は混沌であり、内容なき形式は空疎である」と言っていますから、認識の前の世界は混沌としたものと考えていたことが分かります。 「内容」とは感覚データの事であり、「形式」とは時間・空間のことです。 したがって、認識にあたっては、感覚データだけでは、混沌としており、時間・空間という「形式」があればこそ、私たちにとって世界は整然として秩序あるものと映じる、ということになります。 しかし、それだけではだめで、ものがどのような量、どのような質、どれとどれの関係、どのような様相にあるかを認識するためには「カテゴリー」が必要で、その「カテゴリー」を適用することで、最終的に認識というものが出来上がる、といいます。 したがって、このカントの考えが正しければ、順序としては「ものを認識するのはカテゴリーの後」ということになります。 ただし、そのものが一つということは、主語が個物・実体であれば、その命題を語りだしたときに、同時に一つでなければなりません。 個物がいくつもあったら個物とは言えないし、実体がいくつもあったら、実体とは言えないし。 質の「カテゴリー」の事象内容性というのは、主語の内容を分析的に展開したという意味ですから、もともと個物にはそれが一つということが含まれていることになります。 しかし、カントの言うように主語に置かれたからと言ってそのものが個物・実体かと言ったら、必ずしもそうとは言えない。 たとえば、あなたが前に挙げた、規則とか計画が、主語であることは可能でも、果たして個物・実体かとなると、どうだろうか、という問題はあります。 もし、個物・実体でないということになると、それが一つであることは量の「カテゴリー」を適用して、単一性か数多性か全体性か、を判断しなければなりません。 規則が一つのものならば、単一性ですから、量の「カテゴリー」が適用されます。 また規則がたくさんあるものならば、数多性の量の「カテゴリー」が適用されます。 また規則が、いろいろある規則を取りまとめて、それを総称したものならば、全体性の量の「カテゴリー」が適用されます。 計画についても同じことが言えます。 そしてその規則が、他の規則や計画との区別を行なう場合にも、その規則や計画が、他のものとは違うものと分類するために「カテゴリー」が適用されます。 つまり規則や計画が他とは違って、ただ一つこれだ、というためにも、「カテゴリー」による区別と分類が必要です。 あなたはいいます「あるものを一つのものとしてとらえるのは、一番目のカテゴリー(分量としてとらえようとする思考様式)があれば十分だという気がしていて、家と違って視覚的に形や大きさを持たないものはどういうふうにして、一つのものとしてとらえるのだろうか、と思ったわけです」 ・・・・・・つまり具体的なものが一つということは視覚的に分かるけど、抽象的なもの、形のないものはどういうふうにして一つのものとしてとらえるのだろうか、ということですね? たとえば、規則とか計画というものは、視覚的に一つのものとしては、すぐには分からない、視覚的に見えないから。 そのことをアリステトテレスは、主語であれば何であろうと個物であり、実体と言ったわけで、個物は一つ、実体は一つでなければならないと言いましたが、それをカントは批判してて、主語であっても、個物・実体とは限らない、といったわけです。 それが一つであるためには、「カテゴリー」が適用できるかどうか判断しなければならない、判断するためには、直観でそれを確かめなければならない、と。 規則や計画が、一つなのか、複数なのか、それを判断しなければならない、ということ。 「カテゴリー」を適用して、一つと判断したならば、それは一つなのであり、もし二つと判断したならば二つなのであり、もし複数と判断したならば複数であるということになる、ということ。 それでお分かりになったでしょうか? 前にも申しましたように、私なりの理解ですから、間違っているかもしれません。 他に専門家がいたらお聞きになってください。
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- 雪中庵(@psytex)
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人が真に感受しているのは、多様な感覚器官表面での量子相互作用であり、空間的な広がり&そこの存在は、視覚や聴覚などの(情報性の高い)先行感覚に対し、五感の相関した経験の蓄積に於いて他の(より生理的な)感覚を励起する=「そこに至れば何が起きるか」という予測として生じているのだ。 そして量子論的な世界像に於いて、そうした存在性は、認識される事で派生している=自戒仮説(過去=記憶=時間の流れ)と空間仮説(未来=予測=空間の広がり)の相補分化として生じているのだ。 そこに於いて物理は、そうした『何かあるんじゃないの?』という疑問(不確定性)として生じた時空への無の射影=「本当は内無いんだけどね」と無へと還元するものなのだ。 こうした最新の物理的知見を前提としない古典的哲学は、歴史的意味以上のものはない。
- koosaka
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補足に回答します。 いろいろたくさん補足がありましたので、全部回答できるかどうか分かりませんが、私の知っている範囲で回答しますが、間違っているところもあるかもしれませんので、あらかじめお断りしておきます。 まず「カテゴリー」とは何か、ということですが、アリストテレスによれば、「カテゴリー」とは、述語の分類であり、区別です。 対象物が主語とすれば、その対象物の述語の分類が「カテゴリー」です。 対象物をどのような量、どのような質、どれとどれとの関係、どのような様相、として考えるか、それが「カテゴリー」です。 あなたは「対象物を具体的かつ個別にとらえるときはカテゴリーによってとらえるわけですね」といいますが、対象物は主語ですから、それをとらえるのにカテゴリーなど必要とせず、単にそれを見れば具体的かつ個別ということは分かります。 「寝室の大きさ、広さをとらえるのは量のカテゴリー・・・・」といいますが、寝室は主語、そして「大きさ」「広さ」が量のカテゴリーです。 計画や規則は主語ですから、「計画や規則を具体的に把握するのは質のカテゴリーだと言っていいわけでしょうか」といいますが、計画・規則はそのままでは、単なる主語、どのように具体化するか、どのように把握するか、述語を付加するときに「カテゴリー」が必要になります。 そして「物を一つのものとして把握するとき、どのようなカテゴリーを使うかということです」といいますが、物を一つのものとして把握するのに、カテゴリーは必要ではないと思います。単にそれを見れば、一つなのは分かるのですから。 同種の他と区別するときに、あるいは同種の他の物との間に境界線を引くときに、述語によってそれを区別したり、境界線を引くのですから、「カテゴリー」が必要になります。 家があるとして、その家は主語、それが一定の大きさ、広がり、また広がりの限界のところで境界線を引くには、「カテゴリー」が必要になります。 「大きさ」「広がり」は量のカテゴリー。 そして境界線を引くには、他の建物、あるいは他の土地と区分しないといけませんから。 「規則や計画であれば、量のカテゴリーを使って一つのものと把握することができないので」といいますが、規則や計画は主語ですので、量でも、質でもなく、「カテゴリー」で把握する必要はなく、「カテゴリー」が必要になるのは、「他との規則と別のある規則の性質の違いに着目する、他の規則や計画との区別を行なう」ときに必要になります。 カントによれば時間・空間は直観の「形式」であり、「内容」が感覚器官で受容される感覚データ、その感覚データを時間・空間という「形式」で透過し、それをア・プリオリに人間に備わった「カテゴリー」と総合することで、認識が成立すると言いました。 印象が感覚データとすれば、印象の受取場が、というより、その「枠組み」が時間・空間です。「形式」。 「ハイデガーふうの考え方ですと、人間にとって物は何かのために存在するものです」 ・・・・・・つまり物は道具連関として存在する、「何のために」として存在する、ということですね。目的を持っている。 そして道具は現存在という人間のために、人間が使うために存在する。 そして人間はフッサールによれば意識を持ち、意識の本質は「志向性」にある、それをハイデガーは「関心」と言い換えた、つまり人間は周りに「配慮」しながら、それに「関心」を持つ存在である、ということ。 そしてハイデガーは現存在の本質は「世界・内・存在」といいました。 人間は世界の「内」に存在するのではない、人間が存在することが「世界」なのだから、人間と世界は切り離せない。 同じように、人間は空間の内に存在するのではない、人間であることが空間なのだから、人間と空間は切り離せない。 それに対してカントは時間・空間を直観の「形式」、そして「形式」は「内容」と切り離せない、両者は一体のものといいましたが、それは認識の場合であって、主体の側に備わったものというのはその通りです。 ハイデガーの場合は認識の場合ではなく、人間存在にとって時間・空間とは何か、を問題にしており、その場合は時間・空間は「主体と客体物の双方が同時にかかわる」というより、人間存在の本質として、「世界・内・存在」として存在する、というべきです。 取り急ぎ、回答しましたが、すでに申し上げたように私の理解する範囲の回答ですので、異論があるかもしれません。
カント哲学に忠実に行けば、#3さんの仰る通りだと思います。それでも参考までに、実体験を・・・(^^;)。 「計画とか規則」とかいうものの代表は数学だと思いませんか?。その基礎は確かに悟性にあると思います。しかし人間は、自分自身を客体化できる存在です。数学的訓練を積む過程で、悟性による理解の結果をあたかも現象のように捉え、数学的形式や論理の流れ,数式展開経緯を数学的感覚として持つ事はあり得ます。それが「名人」や「達人」だと思います。 数学と似たものとして、クラシック音楽を取り上げた話は聞いた事ないですか?。クラシック音楽の譜面は、オタマジャクシ(音符)とフエルマータ(<)とかの記号の塊です。 でもある程度なれて来ると、譜面を見ただけで音が聞こえるようなんですよ。そういう人達は初見の楽譜でも、一回見ただけで歌うように弾けるみたいです(^^)。
お礼
回答ありがとうございました。参考にさせていただきます。
- koosaka
- ベストアンサー率43% (78/179)
五官を通して受容されるのは、ロックの言う第二性質と言われるもの、視覚・味覚・触覚・嗅覚・味覚などの感覚データだけで、第一性質と言われる「広がり」「延長」「形」「運動」などは、カテゴリーであって、悟性に属するものであり、ア・プリオリで、認識というのは、外的刺激・感覚データである「内容」を直観の「形式」である時間・空間で透過し、それをア・プリオリなカテゴリーによって総合する、そうして出来上がるというのがカントの考えです。 家を知覚するとき、受容されるのは、家の第二性質だけであって、家の「形」や「大きさ」は知覚されません。 ロックやヒュームの言う「印象」というのは、第二性質のこと。 第一性質は実体なので、その実体の「属性」である第二性質が「印象」として受容されるのです。 家の分量、というのはカテゴリーの一つ、質・量・関係・様相の4つのうちの一つ、量のカテゴリーです。 寝室の大きさ、庭の広さ、部屋が何室あるか、というのも同じです。 あなたは「空間的な枠組みを通して印象を受け取ることが困難なものがあります。たとえば計画とか、規則とか・・・」と言っていますが、「枠組み」とはカテゴリーのこと、そして印象とはすでに申し上げたように感覚データのこと、そして計画とか規則は「印象」に基づくものではなく、知性・悟性に基づくものだから、「印象」を必要としません。 まあ、計画や規則を具体化するときには感覚データ・印象を必要とするかもしれませんが・・・・。 「計画とか規則とかは悟性の働きによって性質に着目する」というのはそのことです。 計画・規則を具体化するときに、性質に着目する必要が出てきます。 あらかじめ性質に着目する必要はありません。 「悟性の働き始める前の感性の働きの段階」では、計画とか規則は必要としないし、悟性があればよいのですから、イメージだけがあれば十分です。 イメージとは理念のこと、「イデア」であり、建物だったら、設計図です。
お礼
回答ありがとうございました。非常にわかりやすく解説して頂きました。カント哲学に対する当方のこれまでの理解が生半可なものだったことがよくわかりました。 そこで再度質問させて頂きます。対象物を具体的かつ個別にとらえるときはカテゴリーによってとらえるわけですね。寝室の大きさや広さをとらえるのは量のカテゴリーで、計画や規則を具体的に把握するのは質のカテゴリーだと言っていいわけでしょうか?その場合、計画や規則の把握を量のカテゴリーでもって把握することが困難なので、その場合は別のカテゴリーでもって把握するしかない。すなわち質のカテゴリーでもって把握することになるということでしょうか。 それとも、まだ当方がカテゴリーなるものを理解できていないようでしょうか? 特に私が関心を持っているのは、「もの」を一つのものとして把握するとき、どのようなカテゴリーを使うかということです。一つのものとして把握するということは、同種の他と区別することができる、あるいは同種の他のものとの間に境界線を引くことができるということです。 例えば、家であれば量のカテゴリーを使って一定の大きさを持つものと把握し、広がりの限界のところで境界線を引き、その家を一つのものと見なすのではないかと思うわけです。この理解でよろしいでしょうか。 また、規則や計画であれば、量のカテゴリーを使って一つのものと把握することができないので、質のカテゴリーを使って、すなわちある規則と別のある規則の性質の違いに着目して、他との規則や計画との区別を行い、一つのものとして把握するのではないかと思うですが、この理解でよろしいでしょうか。 もしかして、全くの勘違いなのかもしれませんが。 もう一つ、カントの言う空間と時間についてですが、--何かを印象として受け取るとき、印象の受け取りを可能ならしめるものが受容者の側にあるはずですが、その最も基本的なものが空間と時間ということなのでしょうか?印象受け取りの「場」のようなものと解釈しています。 ハイデッガーふうの考え方だと、人間にとって「もの」は何かのために存在するものです。また、その「もの」を使用する人間がいるはずです。もっと言えば、その「もの」に関心を持つ人間がいるはずです。今述べたようなことはある種の空間と時間の存在を前提としなければ成り立たないはずです。この場合の空間・時間とカントの言う空間・時間は同じものなのでしょうか。 もっとも、私の理解では、カントは時間・空間が主体の側に備わっていると考えましたが、ハイデッガーは主体と客対物の双方が同時に関わる場面にもともと存在しているかのように言っているように思えます。いかがでしょうか?
- kenpiro3313
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あまり言いたくないのですが、「哲学」自体が不要です。 医学が発達する以前の精神論であり、現代では無用な長物です。 考えることよりも、実践して感じた感性のほうが大切です。 失礼しました。
面白いね・・ 頭が良いのか 悪いのか・・(笑) こんな所で質問して 回答が幾つも付いて それのどれを あなたが選ぶのだろー? 一問多答の こういったサイトでは あなたの力量を超える回答が 得られたとしても あなたが それを素直に受け止める事が出来るかどうか・・なのに・・ 学ぶのならば もっと 違った方法が 幾らでもあるのにな・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 高度な質問ほど こんなサイトでは無駄だって事は理解出来ないみたいですね・・
お礼
---懇切丁寧な回答ありがとうございました。当方は現象学には多少の興味があるので、ここで説明して頂いたフッサールやハイデッガ-の考え方はおおむねわかるのですが。カントは理解していませんでした。そこで、また解説書の類から読み直してみようと思っています。 ただ、今現時点で関心をもっていることを片づけてしまいたいので、もう少しおつきあい願いませんでしょうか。今、私の関心事は「ものを一つのものとして認識する過程がどのようなものか」ということなのです。もっと言えば、ものを一つのものとして認識するのはカテゴリーを適用する前なのか、適用の最中なのか、後なのかということです。 そのことを家や規則・計画について考察することによって認識という現象を自分なりに理解してみたいと思うのです。もっとも、正しい理解の仕方とずれているのかも知れませんが。 --そして「物を一つのものとして把握するとき、どのようなカテゴリーを使うかということです」といいますが、物を一つのものとして把握するのに、カテゴリーは必要ではないと思います。単にそれを見れば、一つなのは分かるのですから。--とのことですが、カテゴリーが必要とされる段階以前のことなのでしょうか。だとすると、悟性ではなく感性での印象の受容の段階でものを一つのものとみとめるわけでしょうか。私の理解では、感性での印象の受容の段階ではものはぼんやりとしか把握されないので、一つのものとしてとらえることは難しいのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。 --規則や計画は主語ですので、量でも、質でもなく、「カテゴリー」で把握する必要はなく、「カテゴリー」が必要になるのは、「他の規則と別のある規則の性質の違いに着目する、他の規則や計画との区別を行なう」ときに必要になります。--とのことですが、当方の言い方がかなり舌足らず、かつおおざっぱなものだったことを認めます。 さて、「他の規則や計画との区別を行なう」結果、ある規則や計画が一つのものと認識されるのでしょうか? 私のこれまでの大まかな理解では、あるものを一つのものとしてとらえるのは一番目のカテゴリー(分量としてとらえようとする思考様式) があれば十分だという気がしていて、家と違って、視覚的に形や大きさを持たないものはどういうふうにして、一つのものととらえるのだろうかと思ったわけです。ご意見を頂けるとありがたいです。