• 締切済み

神に聞けないので神に代って答えてください。

私は無神論ではなくむしろ肯定派なのですが、有名なパラドックスで苦しんでいます。 神は全能であるという命題があるなら・・・ 神が持てないほどの重い石を神に作ってもらう。 その石が作れたら神に持ってもらう。 神が持ち上げれば、神が持ち上げられない石を作れなかったことになり全能ではなくなる。 神が持ち上げられなければ、その時点で全能ではなくなる。 このパラドックスをどのように解決したらよいでしょうか? ホント、ローマ法王にでも聞きたいくらいです!

みんなの回答

  • oyatsuya
  • ベストアンサー率21% (111/517)
回答No.30

神は、質量のある重い石を作った。 神は、重い石の重心であるスピリットを抱え上げた。

ponyo7
質問者

お礼

御礼が遅くなりました。 ありがとうございました。

回答No.29

>例えば全能なら一個しかない石を左右に同時に投げよというようなものでしょうか? 全能の神なら 一個の石を左右に同時に 投げる事は出来ます! 肝心なことは 論理が破綻しているかいないか? 絶対に持てない石を持つことは 論理が破綻しています 全体に割れない石を破る←これも論理が破綻してます 一個の石を左右に同時に投げることが出来ないと 考えるのは それが出来ないと思い込んでいる 能力に限界のある者の発想です

ponyo7
質問者

お礼

御礼が遅くなりました。 ありがとうございました。

  • Tefu_Tefu
  • ベストアンサー率27% (87/322)
回答No.28

こんばんは ponyo7さん >神は全能であるという命題があるなら 全能ということは、神はどんなことでもできて、神の好きなように自由にできる。自由意志がある。 だから、神は持ち上げられる石を作るのも、持ち上げられない石を作るのも自由である。 また、作った石を持ち上げることもあれば持ち上げないこともある。 と考えます。 人間は神に似せられて作られたそうですから、似たところがあります。 人間はできてもしないこともある。 「神のわがまま」、人間なら理解しましょう。

ponyo7
質問者

お礼

ありがとうございます。 それで納得する人もいるでしょうが、無神論者は納得しないと思います。如何でしょうか…。

  • yuniko99
  • ベストアンサー率15% (31/204)
回答No.27

神は宇宙を持ってるんですから 神の持てない程の重い石を作る事は出来ません。 神は「真理に従って」何でも出来るのです。それが神の心だからです。 神に持てない程の重い石などありません、それを作らせることは人間には出来ません。

ponyo7
質問者

お礼

ありがとうございます。 >神の持てない程の重い石を作る事は出来ません この時点で全能ではなくなるのではないでしょうか? >それを作らせることは人間には出来ません。 人間が作るのではなく神が作ります。

noname#225485
noname#225485
回答No.26

矛盾さえも包括するのが神と言うものです。 全能というのは人が決めたに過ぎません。 矛盾さえも神が作り出した物です。 なんせ神は自然その物ですから…この世界全てが神なのです。 当然矛盾も含まれるのです。

ponyo7
質問者

お礼

ありがとうございます。 それで納得する人もいるでしょうが、無神論者は納得しないと思います。如何でしょうか…。

回答No.25

簡単です! 神が持てない石を作れた時点で全能の要素を持つ! その石を持てない事は全能を否定しない! 持てない石を持てる事を全能とは言わない! 持てない石を持つことは矛盾です! 辻褄が合わない事を繰り返し考えることを無駄と言います!

ponyo7
質問者

お礼

ありがとうございます。 例えば全能なら一個しかない石を左右に同時に投げよというようなものでしょうか?

  • stmim
  • ベストアンサー率24% (57/236)
回答No.24

私はキリスト教的な神は存在しないと考えています。 しかし、質問の論法で神の存在を否定するとしたら問題だと思っています。 ponyo7さんは神は論理を超越する存在だと思いますか? (1)神は論理を超越する存在だとしたら その場合は神はどんな矛盾することもできることになります。 たしかに人間にはそのような矛盾した状態がどのようなものであるのか理解不能です。 人間にはパラドクスでも神には、そんなのおかまいなしに実現できるのです。 (2)いくら神でも論理矛盾を超越できないと考えるなら 論理の枠内で全能ということになります。 全能であるから神はすべての石を持ち上げることができます。 「神が持ち上げられない石」というのは論理的に存在しません。 もし論理の中だけで考えるなら、その存在しない石のことを考えても意味がないでしょう。 論理的に存在しない石を神につくらせるなら、その時点で神に論理を超越させていることになります。(1)で考えることになります。 神が論理を超越する存在であろうとなかろうと説明可能です。 この論法によっては神の存在は否定できないと思います。

ponyo7
質問者

お礼

御礼が遅くなりました。 ありがとうございました。

noname#213494
noname#213494
回答No.23

神は人間を「神の子」として創造しました・・ ならば 神は人間を子として認めてるので 神よりも もっと知能を人間が持つ事を願っています・・ 親って 子供が自分よりも優れていくのを喜ぶのですよ・・ なので 神の気持ちとしては 全知全能が問題では無いのです・・

ponyo7
質問者

お礼

ありがとうございます。

noname#221368
noname#221368
回答No.22

 自分は無神論者で、以下で書く事は言葉の遊びに過ぎないと本気で思っていると、最初にお断りしておきます。  自己言及パラドックスというのがあります。例えば次のようなものです。  数学で言うところの集合はわかっているものとしますが、自然数の集合N={1,2,3,・・・}を考えます。こういう場合、個々の自然数1や2や・・・などは、集合Nの要素と言われ、数1や2はNに属すると言います。数1や2はNに属しますが、N自身はNに属しませんよね?。何故ならNは自然数の集合であって、自然数ではないからです。有理数の集合Qや実数の集合Rであっても同じです。  もっと一般に、赤い物の集合をRedとしても、RedはRedに属しません。Redは明らかに赤くないからです。そうすると自分自身に属さない集合というのが、ごくありふれた集合である事がわかります。  次にA=「「自分自身に属さない集合」の集合」を考えます。「自分自身に属さない集合」はごくありふれたものなので、集合Aは、あっても良さそうに思えます(理論上は)。しかし集合Aを考えると、矛盾します。  集合Aは、自分自身に属するか、属さないかのどちらかであるはずです。  AはAに属するとします。そうするとAは、「「自分自身に属さない集合」の集合」に属するので、「自分自身に属さない集合」でなければなりません。これは矛盾です。  AはAに属さないとします。そうするとAは、「「自分自身に属さない集合」の集合」に属するので、Aは「「自分自身に属さない集合」の集合」=Aに属する事になります。これも矛盾です。  Aという集合がまずいのは、「「自分自身に属さない集合」の集合」を作ってからでないと、Aという集合の定義が確定しない点にあります。これを自己参照定義と言って、論理的に絶対にうまくいかないのがわかっています。ちなみの集合Aに関するパラドックスを、ラッセルのパラドックスと言います。  ちなみに「黒いシロクマ」というのも、黒い熊だけ集めてみて事後的にそれをシロクマと言う事なので、自己参照定義もしくは自己言及パラドックスの一種とみなせます。またあなたの設問も、神が持てないであろうほど重い石が出来て、実際に神がそれを持てなかった時点で初めて、「神が持てないほどの重い石」の定義が成立するので、自己参照定義の一種とみなせると思います。  ところで自己参照定義を許すと、じつは無限が発生します。例えばペアノ公理系では、ある自然数をnとした時、(n+1)もまた自然数だと規定されます。従って(n+1)をあらためてnとおけば、次の(n+1)もまた自然数となり、自然数はどんどん増殖していきます。  この自己参照定義が矛盾しないのは、nと(n+1)はたんなる変数(省略記法)であって、存在を主張する集合ではないからです。つまり説明をわかりやすくするための、書き方の問題だからです。しかし自己参照定義を許せば、たやすく無限を発生させられるのは、わかると思います。  自己参照定義によって発生し、しかも存在を主張するラッセルの集合は、じつは大き過ぎる無限集合である事が知られています。現在の標準理論ではラッセルの集合などは、集合に含めないような安全装置が付けられているのですが、しかしそうであるならば、人間の論理は完全か?、無矛盾か?という問題が生じます。  ここで完全とは(というか、ここだけの話と理解して下さい)、無制限に無限の対象を扱えるという意味です。無矛盾とは、人間の論理は絶対に嘘つかないという事です。人間の論理は完全か?、無矛盾か?に、一つの明確な回答を与えたのはゲーデルでした。ゲーデルの不完全性定理です。   ・完全 ⇒ 無矛盾ではない.  この意味は、無限個の対象を扱う限り、人間の論理はどっかで間違った結果を与える可能性がある、という事です。その実例は、ラッセルのパラドックスでさっき見ました。対偶を取れば、   ・無矛盾 ⇒ 完全ではない. になります。この意味は、人間の論理を絶対に嘘つかない範囲に限定すれば、無限は危険地帯だという事です。そして有限個の対象を相手にしてる限り、人間の論理は完全で無矛盾だというのが、ゲーデルの完全性定理でした。  以上の結果は、ある意味当然と思えませんか?。だって無限なんて、誰も見た事ないんですから。無限を全部を見れたら、それは有限なんですよ。無限集合論は、そういう物理的に到達不可能な前提を含んでいます。しかしだからこそ強力な理論にもなりました(矛盾をはらみながら)。  結論を言うと我々は、あくまで有限世界しか扱えない論理しか持っていません。無限に関する事なんて本質的には、ずっと当てずっぽうをやってただけなんですよ(だって誰も見た事ないんだから)。  しかし完全な神はその内に、恐らく無限を含むでしょう。だって無限は、人間にだって考えつける事だったのだから。  そうすると、あなたの設問に対する答えはこうなります。   ・我々の論理が不完全なだけさ.  こう考えると、自分は一番すっきりします。ただし、冒頭の断り書きをお読み下さい(^^;)。

ponyo7
質問者

お礼

御礼が遅くなりました。 ありがとうございました。

回答No.21

パラドックスというかね 平和とかいうと ヨシュア記で虐殺しているとか十字軍で虐殺しているだとか 日本の戦国時代に奴隷売買だとかいわれ 最近でもプラグマティズムの質問をするときにインディアンの虐殺とか いってきた人がいたけれど、 基本的に批判するときの批判要素が虐殺したかどうか なんですよね。 それで仏教の話もしたけれど こんどはなんかインパール作戦が失敗したかいう 旧日本軍の無能な軍人がいたらしいけれど なんでそんなことまで私が言われなけばならないのか 未だに赦せなくて許せなくて、しかも新聞記者までインパール作戦だとか言ってきたので 新聞記者とか憎悪の対象でしかないです。 文化勲章もらった偉い仏教の先生が、ドイツの学者のパクリで 実は疑わしい言説を、はったりで本を売っていたということでしょう。 なぜそれを私が責められないといけないのか、私が僧侶に質問したいのに 僧侶は私を批判するばかり。それからインド哲学科の教員も批判してくる。 嫌いで仕方ない。 それで日本は古事記で国譲りだ 戦争ではない、平和だとかいう言説とかは、 南京大虐殺は無いと教師を論破したとかいうネトウヨのバカな中学生のクソガキに なぜ私が揶揄されなければならないのかという。 右から左から宗教から歴史からマスコミからバカな中学生から老人まで 私はみんな大嫌いなんですよ。 私を攻撃してきた奴ら全てが嫌です。 聖書には敵を愛せとか書いてあるそうだけれど それは矛盾していますね。虐殺しているそうですね。 聖書は間違いですかそうですか。 もういいかげんにしろ。

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