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生まれる前
こんばんは。 生まれる前の事情によって、アレコレ、言われなければなりませんか?
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アレコレ言う人間の口に蓋をすることはできません。 しかし、アレコレ言われても、責任を取る必要はありません。 したがって、この手の人間(生まれる前の事情にあれこれ言う輩)に近づかず、耳を貸さず、真実を教えず、理解を助けない、という態度が上策と思います。
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- kohichiro
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例によってご質問の真意が読みにくいですが、要するに 福沢諭吉の悩みを言っておられるのでしょうか。 もちろん身分制度だけではない、世界の人間は皆平等で人生の出発への条件が同一にそろっていると言うわけではありません。少なくとも日本人であるくりなるさんがぼやくような悩みはアフリカのいぼ族の子などに生まれた場合に比べれば天と地ほどの好条件であるといわねばなりますまい。たとえ貴方が同性愛者などと多少周囲からあれこれ言われたとしても、まだまだ、他の後進国の子に生まれた場合のことを思えば、ましなのではないでしょうか。ともかく自分は自分と割り切って、神から与えられたその条件下で最適最上最大結果をだすべく、末はノーベル賞を貰うのだ、たまさかTVタレントにはなるまいなどと努力を続けていくしかないでしょうや。
お礼
kohichiro様、ご回答ありがとうございます。 >「福沢諭吉の悩みを言っておられるのでしょうか。」 いえいえ。福沢諭吉が何を悩んでいたか。 知りませんが、 説いたところには、むやみに賛同出来ません。 >「ともかく自分は自分と割り切って、神から与えられたその条件下で最適最上最大結果をだすべく、末はノーベル賞を貰うのだ、たまさかTVタレントにはなるまいなどと努力を続けていくしかないでしょうや。」 なるほど。 「末はノーベル賞か、TVタレントか」 新しいフレーズです。
- koosaka
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「生まれる前」と言いますが、あなたは自分が生まれたシーンを自分で見られましたか? そしてあなたはいずれ死ぬかもしれませんが、自分が死ぬシーンを自分では見られません。 少なくとも、自分が誕生した時も、自分が死ぬ時も、自分でそれを見たり、体験することはできないのです。 私たちの意識は、誕生後、たぶん小学校高学年に、自分が意識を持っていることを知ります、そして私が死ぬときにはたいてい意識が死ぬ前に無くなって、自分がいつ死ぬのか、いつ死んだか分からないうちに死ぬのです。 だから意識というのは始めを意識できないし、終わりを意識できません。 いつの間にか意識が生じ、いつの間にか意識が消えるのです。 もし、私が死んで、死後の世界があれば、死んだあと振り返って、ああ、あそこで自分は死んだのか、ということが分かるでしょうが、死後の世界がなかったら、振り返って確かめようにも、確かめられませんから、死の瞬間というのは無いのです。 「生まれる前」と言いますが、もし私が生まれる前に存在していたら、「生まれる前」があることを知りえるかもしれませんが、誕生した時にその知りえた記憶は消えて、始めからやり直しになりますから、私たちは「生まれる前」の記憶を持ちえません。 だとしたら、「生まれる前」というのは存在しないのではないでしょうか? それは「生まれる前」があったら、という仮定ですね? それを意識できないけれども、もしかしたら「生まれる前」があるんじゃないか、という。 でも、その「生まれる前」があったとしても、そこに私が存在するとは限らないですよね? 誰か別人がそこにいるのかもしれない。 なぜって、何十億人もの人間がいるのに、ただ一人の私がいるという何らの根拠も理由もないからです。 もしその「生まれる前」の世界に他人がいたとしたら、あなたにとって「生まれる前の」世界って、どういう意味があるんでしょうか? 「生まれる前」の事情がいくらあっても、あなたとは何の関係もないとしたら、そんなものがあっても、あなたにとっては何の意味もないんじゃないか? その事情って何ですか? とにかく、私たちにとって、死は体験できるものではなく、体験上の事実ではないと思います。人生の先に死が待っているのでもなく、死という壁がそこにあるのでもありません。道元はいっています、「マキは燃えて灰になるに非ず、マキはマキにして一つの位なり、灰は灰にして一つの位なり。マキが灰に移行するに非ず」と。 その意味するところは、生は生で完結しており、死は死で完結している。生が移行して死になるのではない、ということです。 たとえ「生まれる前」の世界があったとしても、「生まれた後」の世界につながるわけではない、両者は独立していて、「生まれる前」から「生まれた後」に移行するものではない、ということです。 だとしたら、「生まれる前」があったとしても、何の意味も、関係もないと思います。
お礼
koosaka様、ご回答ありがとうございます。 「自」意識が、10歳を過ぎてから、ということであるとすると、 (その前に、社会的・法律的に「責任能力」を備える年齢にならないと、お話にならないというわけですね) >「たとえ「生まれる前」の世界があったとしても、「生まれた後」の世界につながるわけではない、両者は独立していて、「生まれる前」から「生まれた後」に移行するものではない、ということです。 だとしたら、「生まれる前」があったとしても、何の意味も、関係もないと思います。」 しかし「生まれる前」がある(あった)のも、また、事実でしょう。 (みなさん、「それらについては責任を問い得ない」ということかと思います)
言いたいのなら言えば良い・・ 誰も そんな話を信じない・・ 信じる人は ちょっと頭のネジが緩んでるのかも? だって 産まれる前って頭が無いのだから脳も無い・・ 勿論 精神(心)の存在すら無い・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ どうして言い切れるか・・それは 両親が誰になるのかなんて判らないのだから その両親の元に産まれるに相応しい体が元々から付いてると考える事が不自然だから・・
お礼
こんばんは。ご回答ありがとうございます。 「そんなに前の事まで、責任を取れっこ無い」という御趣旨ですね。 (法律上は、「責任能力」が備わるまで、生まれてから、さらに年月を要するようです)
- 雪中庵(@psytex)
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「生まれる前」は、自分が生まれるための前提条件が 見えているに過ぎません。 過去から通常素粒子がやって来て、現在で相互作用を して未来へ去っていくという慣性的な現象の等価に於て、 現在(潜在的認識可能性=感受表面(量子相互作用=光速)) から、過去(超光速=過去=記憶(時間的流れ))と未来 (光速下=未来=予測(空間的広がり))に相補分化(仮説的 階層現象表面的定性化)していると言えるのです。 自我成立のための必要を、とやかく言っても仕方ありません。
お礼
psytex様、ご回答ありがとうございます。 なるほど。 物理的には、そういうご見解になるのですね。 (「自由意思」とは、本当に可能なのかどうか、懐疑的になります)
お礼
Mokuzo100nenn様、ご回答ありがとうございます。 これも、なるほど。 「オレオレ詐欺」を連想致しました。 (「オレオレ詐欺」は、日本に特有なのでしょうか?)