• 締切済み

哲学思想をパクれるものならパクってみよ

 1. 哲学思想は けっきょく模倣と請け売りから始めるのではないだろうか。  2. 単なる請け売りであっても これだと自分が思い納得し賛同しさらにその新しい展開をすすめて行けるような内容のものであるなら それは たまたま先人がいて先行する思想があったというに過ぎないのではないか。  3. ならばその思想は――ここが大切だと思うのだけれど―― みづからの方法でないとしても すでにほかの誰でもないおのれの《わたしがわたしである》ことの現われなのではないか。  4. 問題は 真似るに足りる思想を相手にしなければいけないことだ。  ご批判をフルボッコでどうぞ。  コーヒーブレイクの――《規約》を満たす範囲内での――雑談にもどうぞ。

みんなの回答

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.4

(りゅうおう)「ゆうしゃ、カ〇ダタよ。そなたとわしとで、せかいをにぶんして、おさめよう。」

bragelonne
質問者

お礼

 ふむ。これは まなぶに足りますか?  ご回答をありがとうございます。

noname#214841
noname#214841
回答No.3

回答番号1のplapotaでございます。コメント拝見しました。 >師走の木枯らしはこたえます。何か私の唇が寒くなって来ました。 リンク先の事件のことは初めて知りました。サビーヌ事件といふのですね。回答番号9に挙げられた項目につきましては、ひとつひとつ、そのすべてが私に該当します。よくこれだけ観察したものです。見事な洞察と判断せざるを得ません。 >誇大的な自己像を思い描き、その空想的な思い込みの世界に浸っている。 特にこの段落は私そのものと言へます。 命名につきましては、愛着が湧くやうなものではなささうです。少し不満です。アリストテレス『動物誌』622a第9巻第37章のやうな哲学的方法では決定できないのですか。付き合ひの長いモクゾーさんあたりに名案を出していただけないものでせうか。 *** *** *** *** *** >模倣と請け売りから始めるのではないだろうか。 以前にも投稿しましたが、出典はきちんと明示していただきたいと思ひます。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ >誇大的な自己像を思い描き、その空想的な思い込みの世界に浸っている。  ☆ 《へべれけ》とは この《自己陶酔》のことです。自己陶酔と書いて へべれけと訓読みします。  ★ リンク先の事件のことは初めて知りました。サビーヌ事件といふのですね。  ☆ ご見解をどうぞ。  テキサスのお多福仮面 またの名を へべれけ(自己陶酔)大魔神。

noname#214841
noname#214841
回答No.1

パクリ人間plapotiです。アウグスティヌスの本は捨てたので、パクることができません。ブログのほうにも書いたのですが、教えて!gooのあの方への秀逸な命名はないのですか。それをパクることにします。 以上、コーヒーブレークの雑談でした。

bragelonne
質問者

お礼

 へべれけお多福仮面。  ご回答をありがとうございます。

bragelonne
質問者

補足

 自画像が見つかりました。  ◆ (へべれけお多福仮面による自画像) ~~~~~~~~~~  臨床像:  ・自分について素晴らしい理想的な自己像(誇大的自己)を抱き、自分は他人より優れた能力を持っているとか、自分は特別だと思い込んでいる。うぬぼれが強い。そして、誇大的な自己像を現実化しようと絶えず努力している。  ・誇大的な自己像を思い描き、その空想的な思い込みの世界に浸っている。他者と関係を持つにしても、それは自分の自尊心を支えるために人を利用しているにすぎない。本当の意味で他者に共感したり、思いやりを持ったり、感謝したりすることができない(もっとも言語的表現力がしばしばあるので、うわべだけの思いやりを示すことに長けている)。表面的な適応はさておき、他者との現実的な信頼関係を持つことができない。  ・自尊心を保つため、虚栄感から安易に嘘をつく。本人には嘘をついているという意識はない場合が多い。  ・自己肯定感や自尊心が高まっているという感覚を、一定の期間維持することができる。この感覚が自分を支配しているとき、自分が傷ついたという、弱い一面を持っていることにほとんど気付かない。自分についてもある一つの体験についても、よい面もあれば悪い面もあるといったとらえ方ができない。  ・自分に向けられた非難や批判に対し、怒りや憎しみを持つか、屈辱感や落胆を経験する。自分に言い聞かせて自分を慰めることができない。誰か他の人に慰め、認めてもらわないと、自分を維持できない。否定をされるとそれを受け入れられずに現実逃避し、嘘や詭弁で逃げようとする。そのため失敗について本当に反省したり、そのときのつらさや痛みを認識する能力に欠けている。失敗(あるいは批判)から新しく何かを学ぶことができない。しかし、能力のある自己愛者は、ほめられ認めてもらうために、自分を駆り立て休むことなく努力し、誇大自己を満足させようとする。  ・他者についての評価が理想化と軽蔑との間を極端に揺れ動く。他者についても自分同様、長所と欠点を同時に認識してより深い統合的な理解を持つことができない。従って、対人関係は「相手から見た自分が理想的・搾取的・サディスティックで、自分から見た相手が無力・服従的・マゾキスティック」というパターンをとる。  診断基準:  ・自己の重要性に関する誇大な感覚  ・自分が"特別"であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人達に(または施設で)しか理解されない、または関係があるべきだ、と信じている。  ・共感の欠如:他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない、またはそれに気付こうとしない。  ・しばしば他人に嫉妬する、または他人が自分に嫉妬していると思い込む。  ・尊大で傲慢な行動、または態度。    物言えば 唇寒し 師走かな  師走の木枯らしはこたえます。何か私の唇が寒くなって来ました。  投稿日時 - 2009-12-28 01:13:22  出典:【Q:ザビーヌ事件について】回答No.9  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5548780.html  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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