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難民を助けないならアッラーフは死んだ!?
ジハードに――それを自己防衛よりほかには認めたくないけれど――あまり乗り気でないし 自分たちこそがもっともはらからに近い難民たちをほとんど助けない。(金銭援助はしていると言う)。 けれども 総じて見ると これではそのムスリムの人たちのあいだでは すでにアッラーフは死んだのではないか? と見えるのではないだろうか。
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アッラーフが全知であり全能であるならば、その地の戦乱、人の死はアッラーフの意志であるはず。少なくても黙認、結果を許容する「未必の故意」。 そのアッラーフの許した戦乱状態を拒否し、その地での救済に絶望して、アッラーフ見そなわす地より逃げだし、異教の地で頭を垂れ難民としての「救済」を求めたムスリムにとっては、「死んだ」のでしょうね。 もっとも、キリスト教の国へ押しかけた人たちにとっては、神の右手から左手へ移っただけで、神を拒否したわけではない・・・ つもりかもしれません。 というより、堂々と胸を張って受け入れを要求する彼らを見ていると、そのように感じられます。「アッラーフが行けと言われたので来ただけ」「同じ神を信じる信者が建てた国ではないか」と考えているんじゃないか、と。 間違いなく「貴方の心の中で、アッラーフは死んだでしょ?」と言えるのは、アッラーフが禁止する「偶像」の神仏(の教え)が作った国へ来て、(その国民が偶像の教えに従って)自分たちを救済するようを求めた時でしょうね。 例えば日本は、偶像が山ほどある国ですし、例えば日本人一般が「おかげさまで」と言うのは浄土真宗の影響が大きいと言われるように、本人は自覚しているかどうかはべつにして偶像の神仏の教えが生活のベースになっているので、彼らが日本(偶像)に救済を求めたとき、「彼らにとってアッラーフは死んだ」と言っていいだろうと思います。
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- 畑 茂夫(@Flareon)
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このテーマで私も質問を立ちあげた。 やあやあと、鎌倉武士の様なタイマンバトルじゃ面白みが乏しいのでね。 継続された私の土俵で、返礼のつもりでありがとうの無い参加を期待するよ。 挨拶ぬきの一番に、 くそったれ、 このペテン師、 君の言いそうな事に、キュアブルームはときめいちゃいますわ~ん。
お礼
ご回答をありがとうございます。 No.1のときと同じ返答になります。 この質問では 政治的なこと・政治経済にかかわる国際関係については 問うていません。 それには触れないと言うか ほとんどしっかりとした見解は作れていません。 となります。
- 畑 茂夫(@Flareon)
- ベストアンサー率28% (459/1605)
求心力が無く自壊した文明圏だよ。 アマテラスさんは私にとって都合のいい女で、甘やかすつもりはない。 はっきりと神のむくろを奉る故自壊したのは犠牲になった神自らだと明言するには、幼稚な君の神学に気を使って、文明崩壊だと言っておこうか。 児童向けおとぎ話だね。 神はそれでも生きていると安らぎを夜の悪夢に見たまえ。 神を犠牲にして、人の生も廃墟の痕跡のみだ。 戦場を避けて老いさらばえたジジイは黙ってろ。 悪神はまだ人だ。 俺そのものだよ。 慣れ切った汚れ仕事だ。 赦されざる者と自らを名乗り。 人の子として、人の子を育む。 おもちゃ屋さんの商売だ。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 神のむくろ ☆ これは 矛盾した表現です。それか 意味内容は想像の世界でのみ通じるところのたとえば《生きているしかばね》といった文学的表現のたぐいです。 つまりは 張子の神――観念の神――のことです。 たしかに ☆☆ アッラーフは死んだ ☆ とわたしも表現しています。言い訳としては ムスリムはどうしたんだ? 仲間を思う人間性の心を失くしたのか? という挑発的な表現です。 ですから ★ 神はそれでも生きていると安らぎを夜の悪夢に見たまえ。 ☆ とか あるいは逆に 神は死んだとかと人間が何を言っても 神は痛くも痒くもありません。そうでなければ 神ではありません。ただ人間のあたまの中で想像している張子の神になります。 ★ 赦されざる者と自らを名乗り。 / 人の子として、人の子を育む。 ☆ これは 助けてやろうと言ってあとで売り飛ばすおためごかしと同じだ。そう名乗る人間の知性の範囲内ではぐくまれるに過ぎない。
お礼
ご回答をありがとうございます。 そうですね。互いに考えを自由にぶつけ合いましょう。 ★ アッラーフが全知であり全能であるならば、 ☆ 神に全知全能だという属性があるという命題は だいたい人びとに認められています。 それは 《絶対》ゆえ 擬人化して《絶対者》として想定し さらにその持てる特徴として 慈愛だとか全知全能だとかが見積もられる。という恰好です。 ただし 《全知であり全能であるならば 何々である》という推論は じつはそのように人間がおこなうことです。神がそうしているかどうかは 人間には分かりません。分かるか分からないかが分かりません。 言いかえると このご見解は 単なるひとつの推理だということになります。 ★ アッラーフが全知であり全能であるならば、その地の戦乱、人の死はアッラーフの意志であるはず。少なくても黙認、結果を許容する「未必の故意」。 ☆ 神の意志を人間が忖度して これこれこうだという推理におつき合いするとすればですが この推理内容には それ以外の推論を排除する力と正しさはないですね。 全知全能であるのならば それはクルアーンにしるされるとおり慈悲に満ち慈愛のあふれる神でもあるのですから 単純に見て ひとの死を嫌い人殺しを防いでやるということも考えられるからです。 いや やはり人を裁くことをもおこなうのだと言っても その裁きの理由について人間がたやすく想像しこれだと確定することは やり過ぎになるでしょう。あまりにもその人間は勝手すぎます。 つまり 人殺しをおこなう戦争をやり始めたのだから もう神による死刑は確定だというのは アッラーフの意志をただ何の思いもなく代弁しうると考え代弁し得たと勝手に思っているに過ぎません。戦禍に巻き込まれた人びとも 同罪であるという裁定は いったいどこにアッラーフの心であるという証明があるのか? ★ そのアッラーフの許した戦乱状態 ☆ このように《アッラーフがけっきょく何ごとをも許す》というふうに考える思考形式であるならば すべては既成事実によって世界は成ると――その事実が起きた時点ごとに――言っているのも同然です。意味がない。 ★ そのアッラーフの許した戦乱状態を拒否し、その地での救済に絶望して、アッラーフ見そなわす地より逃げだし、異教の地で頭を垂れ難民としての「救済」を求めたムスリムにとっては、「死んだ」のでしょうね。 ☆ ですから けっきょく誰でも そうとすれば すくいを求めているでしょう。そのための行動はいくつかに 人によって分かれます。その一つひとつについて 選んだ人は それもアッラーフの見そなわすところだとそれぞれに信じていることでしょう。 わたしが ☆☆ アッラーフは死んだ ☆ という表現を用いたのは ムスリムよ 心が死んではいけない はらからを守れと言いたいために 文学的に挑発するような言い方をしただけのことです。 ★ もっとも、キリスト教の国へ押しかけた人たちにとっては、神の右手から左手へ移っただけで、神を拒否したわけではない・・・ つもりかもしれません。 ☆ これについては いまは触れないでおこうと思います。もったいぶって言うのではなく とにもかくにも安全な生活とその安定が 事実問題としては先に来るのでしょうから。 言いかえると おっしゃるように: ★ というより、堂々と胸を張って受け入れを要求する彼らを見ていると、そのように感じられます。「アッラーフが行けと言われたので来ただけ」「同じ神を信じる信者が建てた国ではないか」と考えているんじゃないか、と。 ☆ いうふうに十分考えられるでしょうね。その一色ではないとしても。 ★ 間違いなく「貴方の心の中で、アッラーフは死んだでしょ?」と言えるのは、アッラーフが禁止する「偶像」の神仏(の教え)が作った国へ来て、(その国民が偶像の教えに従って)自分たちを救済するようを求めた時でしょうね。 ☆ なるほど。これは 別の主題として重要な問題ではあるのでしょう。 ただし これも だいたい結論は出ています。: ☆☆ 【Q:偶像を崇拝するななるオシへは 一つの偶像ではないか】 ~~~ http://okwave.jp/qa/q9038920.html つまり 偶像を崇拝するなというオシへを守るなら オシへとしての偶像に従うことになってしまう。という矛盾が起きるという問題です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 例えば日本は、偶像が山ほどある国ですし ☆ いえ。先ほどの《偶像禁止と偶像崇拝》の問題には その先があります。 つまり 神の仮りの姿としての偶像は オシへという人間の言葉で表わされたモノも偶像であるように それが《仮りのもの》であるとわきまえていれば 何の問題もない。こういうことにもなります。 言いかえると 偶像は 神本体を仮りに表わしたものであり シルシであり 言わば神という正解をもとめて補助線を引いたというわけです。神の山や岩は 依り代であって やはり神の仮りのシルシであり補助線です。 ですから 偶像をめぐる問題は これもやはりこのように解決しています。 というとき 世界のムスリムは シリヤ人を初めとする同胞や仲間の難民をまもらないとすれば それは おかしい。ヨーロッパ人による助け合いよりまづ先に 行動がおこされていても罰はあたらない。 どうでしょう? という問いになっています。