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全ての命題を含む集合は無限集合ですか?

ok9608の回答

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  • ok9608
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回答No.4

私は哲学、数学の専門家ではありません。大間違いの可能性はあります。 全ての命題は単位言葉(日本語、英語、・・・数学、・・・記号など有限個の単位言語)の有限個の組み合わせで成り立っており  かつ 学問は命題の有限個の組み合わせ なので 学問は有限であるという ご指摘はその通りだと思います。 ただし その有限個の個数は巨大であり 学問探究に差し支えるものはなにもないと思います。 昔 京大の桑原武雄先生は俳句は第2芸術であると批評したことがあります。一つの理由はたかが60個ぐらいの文字から17文字を選ぶ作業であって機械作業でできる可能性を指摘し 芸術の意味をうたいこむ には俳句創造ルールは芸術より一段低位ではないかというのです。 実際に60個の文字から17文字を選ぶ機械的俳句の総数は 重複順列(ああ・・・・あ17字 も含めて)なので    60Π17=60の17乗=>30桁 これが俳句(川柳も入っている?)の総数ということです。1億人日本人が一人一秒一句創るとして一年10^7秒、10^15年かかるということです。京コンピューター1秒に10^16句創るとして10^7年=>1千万年 かかるということです。ところで俳句生産が枯渇してきた話は聞いたことがありません。 もちろん 桑原先生は俳句枯渇を示唆したのではなく 人を俳句に注目さすための論文を世に問うたのです。 広げて 文字数を60->1000、論文の文字数を100000字としますと 機械的論文の総数は     1000Π100000=1000の10万乗=>30万桁 京京コンピューター(もちろん世界には現れていません)1秒10^32個の論文を創るとして年間10^39個、30万桁÷39桁=299970桁年かかります。 以上のように巨大数は人間の限界を教えてくれていることは確かでしょう。 参考までに。

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

御意。 ちなみに、 2013年1月に発見された、現在分かっている中で48番目のメルセンヌ素数 2の57885161 乗- 1であり、十進法で表記したときの桁数は1742万5170桁に及ぶそうです。

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