• 締切済み

1945年8月9日のソ連参戦について

1945年8月9日未明、ソ連はヤルタの密約に従い参戦期日を早めてまで対日宣戦しました。理由は6日の広島への原爆投下により日本政府がポツダム宣言受諾に傾くことを懸念したからに他なりません。これにより樺太・千島は現在に至るまで続く不法占拠の羽目となり、満州・朝鮮半島で暮らす邦人は虐殺・暴行・略奪・抑留の憂き目に遭うことになります。卑劣なソ連は降伏文書調印後も侵略作戦を続け、密約通りにその欲望を満たすことになります。しかしもし6日の広島への原爆投下時点で、鈴木貫太郎内閣が天皇陛下の聖断を仰ぎポツダム宣言を受諾していたら(実際にはソ連参戦前に陸軍が許すとはとても思えんが・・)ソ連は極東に3方面軍配備を略完了していた状況で参戦しなかったでしょうか?それとも謀略を使ってでも攻撃してきましたか?

みんなの回答

回答No.7

シニア男性です。 歴史はこうです。 1945年2月クリミア半島のヤルタでルーズベルト、 チャーチル、スターリンが会談。 対独、対日戦略が話し合われた。 ここでソ連の対日参戦が密約された。 ルーズベルトにしてみれば米国人の血の流れを抑えた かった。 スターリンにしてみれば東欧に次いで極東を勢力下に 置きたかった。 4月12日、ルーズベルト死亡。 トルーマンが大統領になる。 ポツダム会談(7月17日~8月2日)がトルーマン、 チャーチル、スターリンにて開催される。  7月26日、日本と一国で対峙してきた米国、トルーマンは  実質一人で対日戦略としてポツダム宣言を発信(チャーチル、  蒋介石同意)。  この間、スターリンは西部戦線のソ連軍を満州国境に鉄道  輸送。日本攻撃を準備。  会談でトルーマンはスターリンに勝ち誇り「原爆開発成功」を  伝える。  スパイ情報を掴んでいたスターリンは動揺を隠す。  トルーマンはこれを見抜けなかった。 8月6、9日米国は原爆攻撃。  9日早朝ソ連攻撃開始(対日参戦)。  たまらず日本は14日、ポツダム宣言受託。   9月2日、米国戦艦ミズーリ艦上で日本降伏(文書調印)。 2月から和平を模索した、何も知らない日本は1941年締結の 日ソ中立条約をもとに6月3日からソ連との和平交渉を始めたので あった。 ソ連は日本の手の内を知っていたのである。 (日本は「国体護持」のため自ら、沖縄、広島・長崎、そして満州  朝鮮の移民悲劇、60万人のシベリア拉致(強制労働)を招いた  とするのは言い過ぎだろうか。)

nobunaga1560
質問者

お礼

回答感謝します。

回答No.6

日本の外交が下手だった ただそれだけです ソ連の謀略にも気づかず仲介交渉してるんですからww それじゃあさっさと対日参戦してくれって言ってるようなものです

nobunaga1560
質問者

お礼

回答感謝します。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11073/34515)
回答No.5

一応形式としては満州は「満州国」という独立国家であると大日本帝国は称していましたから、「満州国への宣戦布告」という名目はとれたと思います。 アメリカは中国に手を回せるほどの余裕はありませんでしたし、毛沢東も蒋介石もお互いの戦いで精一杯でしたから、治安維持とか「同胞より要請あり」など名目をつけて旧満州国は占領したと思いますよ。 そもそもスターリンは、ドイツがポーランドを攻めたときもどさくさ紛れにポーランドに侵攻して一部領土を占領しちゃったですし、そのポーランド占領で国際社会が混乱している隙にバルト三国を併合しちゃったから、アジア方面には無関心なんてことはないと思いますよ。

nobunaga1560
質問者

お礼

回答感謝します。

  • mm058114
  • ベストアンサー率30% (102/337)
回答No.4

ソ連は、太平洋戦争開戦前から、満洲突入準備は完成していました。 昭和16年の日本軍の関特演時の大きく戦力アップした状態でも、突入可能でした。 国際社会の条約破棄非難回避と、欧州との2面作戦をしないために、留まっていた状態です。 そして、この状態をキープしています。 欧州からの増援兵力の数量いかんで、戦果拡大がどれだけ進むかの状態でした。 対独戦の終結に伴い、極東に増援され、いつでも突入可能だったのです。 ただ、米国との作戦開始日の約束を、待っている状態でしょう。 ポツダム宣言受諾が早くても、ソ連は占領という名目の元、突入していたでしょう。 韓国、北海道の様に、米軍勢力のが届く所まで進んでいたでしょう。 ソ連には、上陸作戦部隊が不足していたため、北海道は無理ですが、 進撃スピードいかんでは、韓国がソ連の手に落ちていたのではないでしょうか?! まちがいなく、言い訳をつけて、突入していますよ。

nobunaga1560
質問者

お礼

回答感謝します。

回答No.3

他方面では本土上陸されているのに、いつまでも大陸に残留しているから 攻められるんだろうに。兵站を考えるとバカとしか言えない。 戦略眼と戦術的構想は、日本に欠落しています。当時のソ連を卑劣というのは、 日本が無能だったと認めることに等しい。 まあ、状況次第でしょうね。で、質問者の模範回答は?www 攻められるところまで無理なく攻めた、たかがそれだけです。

nobunaga1560
質問者

お礼

回答有難う。日本も状況いかんによっては1941年に不可侵条約を破って対ソ戦に雪崩れ込んでいたかもしれないので、どっちもどっちですね。

回答No.2

歴史に「if」は無意味です。 起こったことが事実、それだけです。

nobunaga1560
質問者

お礼

回答感謝します。起こったことだけが全てだとすると歴史の勉強なんて簡単だ。

  • trytobe
  • ベストアンサー率36% (3457/9591)
回答No.1

1945年8月15日の降伏のあとにも、満州などの開拓・移住から日本に帰還しようとする民間人に対して、ソビエト軍やそれと組んでいた毛沢東の共産党軍、ひいては民間人にも襲撃を受けて日本にたどり着く前に亡くなったり、シベリア抑留されたりした日本人の数を考えれば、 ポツダム宣言の受諾が早まったからといって同じことが起きたことには変わりないと思います。 このときの日本の民間人の扱われ方を踏まえて、ベトナム戦争のときには、米軍は撤退する前にあらかじめ米国人にだけ通じる合図を知らせておき、空港から米軍機で総員退避するような準備をしていた(撤退するとわかってからでは集合させて安全に帰国させられないと見据えていたから)のだと思っています。

nobunaga1560
質問者

お礼

回答感謝します。