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第二次大戦中の日ソ関係
昨晩TBSで18:55~21:54に放映された番組「TBSテレビ50年~戦後60年特別企画~“ヒロシマ”…あの時原爆投下は止められた…いま、明らかになる悲劇の真実」を観ていて、当時の日ソ関係について2つの疑問が湧きました。 第一に、ヤルタ会談開催時には既にスターリンとトルーマンとの間でソ連の対日戦参戦の密約が結ばれていましたが、それを日本政府は全く知らず、日ソ中立条約に基づいて天皇はソ連にアメリカとの和平の仲介を依頼する様鈴木首相や東郷外相らに指示しました。 なぜ日本政府はヤルタ会談の密約を全く知らなかったのですか?日本には諜報機関はなかったのですか?(当時、海軍武官というのがその役割を果たしていたという内容のTV番組をかなり昔観たことがあるのですが…) また、スターリンは日本政府がヤルタ会談の密約の存在を知らないことをなぜ知っていたのですか?そこにはゾルゲが関与していたのですか?(日本政府がヤルタ会談の密約の存在を知らないことをスターリンに報告していた、とか…)もし密約の存在を知られていたとしたら日ソ中立条約破棄、対日戦参戦はなかったのではないか、と思うのですが。 第二に、ソ連には南樺太や千島列島の占領というヤルタ会談での公式決定事項の他に北海道占領計画もあったそうですが、それが現実化しなかったのはなぜですか?もしそれが現実のものとなっていたら、ドイツや朝鮮半島のような悲劇が日本で起こっても決して不思議ではないと思うのですが。
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#1です。 >ソ連の対日宣戦布告は8月15日の予定だったそうです。なぜ前倒しになったのでしょうか? 最初、ソ連は対日戦への参加を8月末に予定していたようです。ポツダム会議で日本の降伏とソ連の参戦のどちらが早いかという時間レースになったため、スターリンは司令官の尻を何度もひっぱたいて準備を急がせました。 米国は一刻も早く日本を降伏させたかったのですが、日本は天皇制の護持にこだわってなかなか受けません。米国内にも天皇制を認めれば早く降伏すると進言した人もいたのですが、無条件派が強硬だったのであのようになりました。 >共産主義国家なんぞをなぜ当時の日本政府は頼りにしたんでしょうか 昭和初期、世界が恐慌のどん底にあっても経済成長していたのがソ連です。日本は帝政ロシアの時代からソ連を敵視していましたが、経済がどん底ではどうにもなりません。そこで「ソ連に勝つにはソ連のまねをすればいい」との考えが起こります。まず満州国で試行し成果があったため昭和12年頃から国内でも実行します。その後開戦までは日本の経済状態は絶好調でした。日本は共産主義を嫌いますが、その多くは天皇制を認めないためで、少なくとも経済についてはマネをしています。興味深いのは戦前の右翼といわれる人々の考え方が左翼に近いですね。日本は天皇制以外では案外左翼を受容していたのではないでしょうか。 >ゼロ戦を産み出したほどの技術力があった国が・・・ 「人」の使い方がヘタだったと思います。戦闘機を例にすると、米国はパイロットを守るため座席の後ろに分厚い装甲板を設置しました。飛行機の代わりは作れてもベテランパイロットの養成は困難であることを熟知していたのです。 諜報活動でも東京の気に入った情報以外は無視されたようです。某外交官(確か重光葵)は自分の報告が無視され続けたため仕事を放棄して帰国したとか・・・逆にドイツの防衛線を詳細に報告し、それが連合国に盗聴されたためノルマンディー作戦を成功させてしまった人もいます。
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- ipa222
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>>ガダルカナルのころまで、対ソ戦の研究 >>天皇が見て、…「陸軍は大丈夫か?」と言ったので、急いで南方の研究を始め >申し訳ありません、ここがよく理解できないのですが…。 >陸軍は仮想敵国としてソ連を想定していて、それを天皇が、それは違う、主戦場は太平洋(=南方)だということで急遽方針転換したということでしょうか? いえ、ソ連が陸軍にとっての最大の仮想的ということは、共通の理解だったとは思いますが、当時はソ連とは条約、アメリカとは戦争を開始しており、すでにアメリカの反攻が始まっていました。 陸軍がアメリカと戦うとすれば、島の防衛戦です。 アメリカは航空、会場兵力を集中し、圧倒的な物量で攻め込んでくる事態は想像できました。 なのに、これからの士官に対して、対ソ戦の研究ばかりしていたわけです。 アメリカに負けたら対ソ戦なんてありえないのに。 現実に、対アメリカの上陸作戦に対して、効果的な反撃が出来たのは、硫黄島と沖縄だけでした。 どちらも、アメリカ留学経験のあるトップがいたからであって、陸軍の研究がなされたとか、効果があったというわけではありません。 沖縄戦を仕切ったアメリカ帰りの参謀は、あれだけの持久戦(アメリカの予定では2週間で終結する予定が、結果3ヶ月持久)を行って、本土上陸を防いだにかかわらず、玉砕をしなかったとして、逆賊扱いされましたから。 これは、税金がすでに不足し、今後社会保障費が大量に不足する事態が想定されながらも、相変わらず意味のない土木工事に大金を費やす公務員の行いと何ら変わらないと思います。
お礼
いろいろなことを教えて頂き、ありがとうございました。大変勉強になりました。
- m-jiro
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#1です。 申し訳ありませんが、小生経済問題は全くわかりません。 二二六では「農地解放も目的としていた。しかし左翼と混同されたら困るので裁判では一切言わないことにした」という記述を見た記憶があります。池田俊彦の「生きている二二六」だったかと思いますが・・・
- boraaisou
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#4です。 <共産主義国家なんぞをなぜ当時の日本政府は頼りにしていたんでしょうか? ご存知のように、日本は米国に対して宣戦布告をしないで、こうげきしました。これは、一番卑劣なやり方です。経過がどうだったからではなく、結果的に失敗をしました。連合軍にとって、日本はどのように写っていると思いますか?日本から休戦協定を申し込んでも、信用しないのが当然と思います。実際に休戦の提案をしたようですが、一蹴されています。 そうなると、信用できないソ連しか残っていません。巣連を頼らざるを得なかったというところだと思います。 苦肉の策でしょう。 ところで、質問者さまはヒストリー チャンネルという番組をご存知ですか?私はケーブルテレビで見ているのですが、第二次大戦や戦記ものをけっこう放映しておて、面白いですよ。機会があれば、一度ご覧になってください。
お礼
ケーブルテレビですか。うちはハイビジョンどころかBSアナログ放送も入りませんので見られませんが、地上波のアナログ放送が終了する頃になったらCATVやスカパーも入れたいと思います。ありがとうございました。
- ss79
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追加質問に対し補足です。 ゼロ戦の技術力が優れていても全てに優れていたのではありません。 諜報技術はハードに対するものではなくソフトに関する技術といえます。 情報の収集、分析、それからの判断というソフト面は日本の最も不得意な部分でした。 その分野に対する能力、体制が遙かに劣っていたのです。 ヒトラーは共産主義をドイツの敵と考えていました。 かれは第1次大戦の敗因がドイツに共産主義が蔓延したからと信じていたのです。 しかもポーランド分割後直接ソ連と国境を接することになり、ますますその脅威を感じたのです。 独ソ不可侵協約を締結したのは英仏との戦争中は2正面戦争を避ける為と、ソ連からの戦略物資(食料、石油など)を確保するためで、スターリンは戦略物資の供給を続けてドイツと友好関係にあると信じ、軍部の反スターリン派を粛正しソ連軍の弱体化を断行したくらいです。 日本は天皇制を護持する為、共産主義を危険視し弾圧、監視下においていました。 関東軍は十分な予算を注入して日本最高の戦力を保持していました。 しかし太平洋戦争の退勢からこれらの戦力を南方、本土などに振り向けざるを得なくなり、関東軍の実態は 未訓練の現地召集兵主体になり到底ソ連軍に対抗できるものではなくなっていたのです。 終戦間際では当時中立条約をむすんでいたのはソ連でしたから藁をも縋るくらいの思いでソ連をたのむしかなかったのです。 決して共産主義に転向したのではありません。
お礼
大変理路整然としたご回答、どうも有難うございました。これで何だかモヤモヤしたものが取り払われた様な気がします。 もちろん私も本気で当時の軍部が共産主義に転向したとは思っていません(ですから?マークを付けたのはそのためです)。単なる皮肉、ブラックジョークのつもりです。
- ipa222
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>どうしてヘタになってしまったのですか? 諜報や防諜、外交がヘタになったのは、妙な勝利神話をつくりすぎたせいです。 陸軍の教育も正直狂っていました。 ガダルカナルのころまで、陸軍では満州での対ソ戦の研究ばかりやっていて、卒業式に天皇が見て、こっそり「陸軍は大丈夫か?」と言ったので、急いで南方の研究を始めたそうです。 今の日本の公務員も同じですね。 道路公団などの土木の赤字は天文学的な額です。 それでも税金を私腹に入れるための無駄な工事をやっています。 後世の人は、何故か理解できないでしょうね。
お礼
「妙な勝利神話の作り過ぎ」というのは、具体的にはどういったものですか? >ガダルカナルのころまで、対ソ戦の研究 >天皇が見て、…「陸軍は大丈夫か?」と言ったので、急いで南方の研究を始め 申し訳ありません、ここがよく理解できないのですが…。 陸軍は仮想敵国としてソ連を想定していて、それを天皇が、それは違う、主戦場は太平洋(=南方)だということで急遽方針転換したということでしょうか?
- platon3
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ソ連参戦の状況はNo2さんの書いてあるとおりです。 今季発売の「わしズム」でちょうど占守島の守備隊の状況について 詳しいですよ。 小林よしのり氏の書籍は好き・嫌いの好みがハッキリ出るのですが、 事実関係を確認し、その後必要に応じて個別に史料にあたってみても よいと思います。 No1の回答に対し、 >先程の番組でも同じことを言っていて、ソ連の対日宣戦布告は 8月15日の予定だったそうです。なぜ前倒しになったのでしょうか? と追加の質問がありましたので簡単に。 1945年2月ヤルタ会談、1945年4月12日ルーズベルト死亡、 これにより、トルーマンが大統領になりますが、彼は副大統領の 時代からほとんど外交にタッチしておらず、ルーズベルトから ヤルタ会談の内容も引き継ぎされずにいたためソ連には冷たく 対応します。これはチャーチルのソ連批判など影響していたと 考えられています。また、原爆の開発が間に合ったため、ソ連の 参戦は必要なくなったため態度を変えた、との見方もあります。 http://www.uraken.net/rekishi/syusen07.html http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%AB%E3%82%BF%E4%BC%9A%E8%AB%87 このアメリカの態度にスターリンは「ヤルタ会談の誠実な履行」 を期待できなくなったと感じ、「力ずくで占領してしまえ」と 考えを変えます。また、「会談の内容をトルーマンは知らない」 ことを逆手に取り、本当は取り分は5だけだったのに10取ろうと した、とも考えられます。 どちらにしてもアメリカの態度が変わったことが原因のようです。 それにしても「ソ連」って・・・。
お礼
2つのサイトは大変興味深く読ませて頂きました。有難うございました。 特にチャーチルのソ連に対する見方は鋭いと思いました。それに比べて日本は…
補足
>「会談の内容をトルーマンは知らない」ことを逆手に取り、本当は取り分は5だけだったのに10取ろうとした ここに書かれている「会談の内容」というのはソ連の日ソ中立条約破棄、対日宣戦布告の見返りに南樺太、千島列島の占領を認めるという密約のことでしょうか? また、「10取ろうとした」というのは、それ以上に北海道占領も考えたということでしょうか?
- ss79
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戦前の日本の諜報技術レベルは欧米ソに比べて前近代的といえる程遅れていました。 暗号技術も敵国暗号の解読もままならず、自国の暗号も解読されていても知りませんでした。 その上、共産主義を危険視して監視していたにもかかわらず終戦間際ではソ連頼みに偏向して頼る始末。 ソ連軍の極東集結は航空偵察すればすぐに発見できたのにそれすら実施できなかった軍部の怠慢、大本営参謀部の上級参謀ですら日ソ中立条約を信じて疑わなかったといいます。 全ての戦力を南方戦線や沖縄、本土に移された関東軍としてはソ連侵入など考えたくもなかった事情はわかりますが・・・ ヤルタ密約などトップシークレットを知るよしもなかったのです。 ソ連側は関東軍の実態は熟知しておりソ連の戦争準備が漏れて居ないことに自信もあり漏れても日本はどうしようもない程疲弊している事は明らかで参戦を急いでいました。 ソ連の南進の希望は明確でドサクサに北海道まで占領する計画でしたがアメリカがそれを拒否したのです。 当時既に東西冷戦が始まっていたのです。
お礼
大変説得力あるご説明、誠にありがとうございました。
補足
>戦前の日本の諜報技術レベルは欧米ソに比べて前近代的 ゼロ戦を産み出したほどの技術力があった国が、どうしてこのようになってしまったのでしょうか? >共産主義を危険視して監視していたにもかかわらず終戦間際ではソ連頼み… >大本営参謀部の上級参謀ですら日ソ中立条約を信じて疑わなかった 日ソ中立条約締結以前に日独伊三国軍事同盟があり(もっとも独伊の敗戦で事実上なくなりましたが)、ドイツは独ソ不可侵条約を一方的に破棄してポーランドのオーデル・ナイセ線を突破して侵攻しました。おそらくヒットラーはハナからソ連なんぞ信用しちゃいなかったんじゃないかと思います。その点だけを見ればヒットラーの方が見る眼があったと思うのですが、共産主義国家なんぞをなぜ当時の日本政府は頼りにしたんでしょうか?また、なぜ日本の軍部は共産主義者化(?)してしまったんでしょうか?
- boraaisou
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こんにちは。 <なぜ日本政府はヤルタ会談の密約を全く知らなかったのですか? 当時の日本政府は、ヨーロッパの問題はソ連が盾になってくれると信じきっていたようです。また、日本の諜報機関もアジアが中心ですし、力が無かったようです。そのためヨーロッパからの情報は、なかなか上層部へ届かなかったと、あるテレビ番組で聞きました。 <もし密約の存在を知られていたとしたら日ソ中立条約破棄、対日戦参戦はなかったのではないか、と思うのですが。 ソ連は南進政策を取っていましたから、いずれは攻めて きたと思います。ナチスが先にソ連へ侵攻しましたが、チェコ?(地名が、思い出せません)の油田地帯付近にソ連が軍隊を集結させていたとも聞いています。もう少しナチスのソ連侵攻が遅くなっていたら、ソ連が先に責めていたかもしれません。 ソ連は条約を勝手に破る国です。自国の領土を大きくするためなら、何でもします。余談ですが、現在ロシアとの経済協定が欧米と比較してスムーズにいかないのは、ソ連の不可侵条約破棄が原因ではないかと言われています。今の日本の経済・政治のドンと呼ばれる人たちは、戦前・戦中世代がおおいですから(年配者には、ソ連は信用できない国だというイメージが強いようです)。 北海道占領計画もあったようですが、マッカーサーがソ連へ「北海道へ侵攻してきたら、連合軍がそれを阻止する」と、ソ連の将軍へ伝えたと聞いたことがあります。 アメリカは、日本を反共の盾としたかったのですから、北海道をソ連に渡す気はなかったと思います。ソ連もそこまでして、北海道が必要ではなかったということでしょう。もしソ連がそれでも強引に北海道へ進駐してきたら、朝鮮半島のように、北海道が半分に分かれたかもしれません。
お礼
>マッカーサーがソ連へ「北海道へ侵攻してきたら、連合軍がそれを阻止する」と… なるほど、北海道がソ連に占領されなかったのはマッカーサーのお蔭なんですね。 >もう少しナチスのソ連侵攻が遅くなっていたら、ソ連が先に責めていたかも… この辺りは歴史のいたずらというものかもしれませんね。そうすると日本人はヒットラーに感謝(?)しないといけないかもしれませんね(?) ご回答ありがとうございました。
補足
>当時の日本政府は、ヨーロッパの問題はソ連が盾になってくれると信じきっていたようです。 確かに日ソ中立条約はありましたが、日独伊三国軍事同盟がありましたし(もっとも独伊の敗戦で事実上なくなりましたが)、ドイツは独ソ不可侵条約を一方的に破棄してポーランドのオーデル・ナイセ線を突破して侵攻しました。おそらくドイツはハナからソ連なんぞ信用しちゃいなかったんじゃないかと思うのですが、共産主義国家なんぞをなぜ当時の日本政府は頼りにしていたんでしょうか?
- ipa222
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日本はロシア戦争時は、スパイも和平への仲介工作も非常に上手だったのですが、第二次大戦の頃はきわめてヘタでした。 ヤルタ会談の密約など知るよしもないでしょう。 日本は、日露戦争時のアメリカの役割をソ連に期待しました。が、逆に攻め込まれてしまいました。 ゾルゲ事件に間接的に関わった近衛文麿は、ソ連に期待をしていたようですが、期待が過剰に膨らみすぎたのでしょう。 敗戦直後は、米ソ開戦を期待していたようですね。 長崎で原爆直後に落とされた観測装置を原爆の不発弾と勘違いして、それをソ連に渡して、米ソ戦に使うように促していました。 小野田さん達のように、南の島や満州に邦人を残したのも、米ソ開戦で両者が痛んだ後に、復活できる可能性も生まれると読んでいたようです。
お礼
>米ソ開戦を期待していた それは初めて知りました。ご回答ありがとうございました。
補足
>日本は…第二次大戦の頃はきわめてヘタでした。 どうしてヘタになってしまったのですか?
- maeboo
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回答が長くて申し訳ありません。 南樺太と千島列島だけではオホーツク海をソ連の内海にすることは出来ない。北北海道も確保できればその後の太平洋戦略に大きく有効であると感じたスターリンの更なる野望でした。 ソ連は8月8日に佐藤駐ソ大使に宣戦布告文を手渡し、その一時間後に攻撃開始。 本日が広島に原爆が投下されてから60年目ですがソ連が慌てたの要因の一つです。 樺太では10日からソ連の侵攻が開始されました。半田で100人の陸軍と国境警備隊で侵攻を一昼夜食い止めました。その間に主要都市から婦女子を鉄道で逃がすことが出来ました。その後はソ連軍に鉄道を利用させない為、鉄橋を次々と爆破してます。 3000人の歩兵が永久陣地で食い止めているうちに15日を迎え、18日に停戦協定を聞かされます。日本軍は停戦しますがソ連軍は南下を止めません。 極東ソ連軍総司令官ワシレスキー元帥は現状では停戦後の占領は不確実なので更なる侵攻、樺太の真岡と千島列島北部の占領を命令します。リミットは8月25日。降伏文書正式調印が8月28日に予定されていたからです。 千島列島の占守島には18日午前2時に急襲、上陸作戦開始。日本軍は2万5千人が防衛に当たってましたがすでに戦備解除をしつつあり、ギリギリまで戦闘行為を慎んでました。しかし、反攻を開始しました。 日本軍の奮闘もあり21日に何とか停戦協定が結ばれます。日本軍の死傷者1018人に対し、ソ連側が1567人。ソ連の新聞は8月19日は悲しみの日と報じたそうです。 真岡では8月20日にソ連が侵攻。猛烈な艦砲射撃の後、上陸したソ連軍は引揚げ船を待つ婦女子にも攻撃をしてます。 既に武装解除をしていた日本軍は約300人程度。それに対し数千人の民間人が豊原に居り、引揚げ船を待ってました。豊原への通過点が真岡で日本軍は全滅覚悟でソ連軍を食い止める覚悟をしました。 ただその中で通信維持のため、真岡の電報局の機能を維持しなくてはならず、9人の女性が最後まで残りました。砲撃開始後1時間半の間状況を伝えた後「ソ連軍が近づいております。足音が近づいております。稚内の皆さん、さようなら これが最後です。内地の皆さん さようなら さようなら」と通信し青酸カリを服毒しました。 長くなりましたがこのような8月15日以降の奮闘があったのでスターリンも北北海道占領を諦めました。
お礼
8月15日、ポツダム宣言受諾によって全ての戦闘が終結したものとこれまで思っていたのですが、その後も壮絶な戦闘が行われていたことを初めて知りました。 たくさんの史実を縷々お書き頂き、有難うございました。特に最後の真岡の電報局のお話は、涙なしには読めませんでした。 こうした悲惨な戦争体験を風化させない努力が必要だと思います。
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お礼
様々な質問にご回答頂き、大変感謝しております。その全てが理路整然としており、卓越したご見解にはただただ目を見張るばかりです。 どうも有難うございました。
補足
>昭和12年頃から国内でも実行…その後開戦までは日本の経済状態は絶好調 ここは大変関心があります。昭和12(1937)年といえばその前年に2・26事件が発生しています。このクーデターの要因は様々ありますがそのうちの1つが北日本の冷害の発生で貧窮した家族を持つ陸軍青年将校が多かったと聞いています。ですからその反省を踏まえて政府がソ連型計画経済を導入しGDPを向上させたのは辻褄が合うと思われます。 ただ、ソ連型計画経済も、ケインズ型の政府支出Gを増大させてGDPを増やす政策も、「大きな政府」作りを目指す点では共通していると思われます。その意味ではケインズ政策を取り入れたアメリカのF.ルーズベルト政権も同質ではないかと思われます。従って、ソ連型計画経済とケインズ政策をはっきり線引きするのは難しいと思われますが、両者の違いはどこにあるのでしょうか? また、ソ連型計画経済導入前と導入後のGDPの差はどれだけなのか、それが太平洋戦争開戦によってどれだけ縮小したのか、などを数字で示して頂けますと幸いです。