なぜ「衝動」はコントロールできないのか?

このQ&Aのポイント
  • 一般的な人間でも自覚や反省ができる自分の悪意に流されるのは、衝動の力によるものではないか考えられます。
  • 衝動は強く抑圧されたものが外に出ようとする際に助けとなるエネルギーですが、それをコントロールする理性もあるため、悪意に流される理由は謎です。
  • 「悪人」とは明確な犯罪行為ではなく、日常的に潜在化している暴力を止められない人も理性を持っているはずですが、それでも衝動がコントロールできないのはなぜなのか疑問です。
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「衝動」について

脳に欠陥があるサイコパスではなく、自分の中の悪や悪意について多少自覚し、反省もできる一般的な人間が、自らの悪について客観視できてもなぜその悪意に流されてしまうのかと考えてきました。それは衝動からではないのか。と思っていますが、まだ納得できません。 なぜならば、衝動は強く抑圧されたものが外にでようとするときに助けたエネルギーですが、衝動をコントロールする理性もこうした「悪人」にはあるからです。 そしてこの場合の「悪人」とは殺人などのあきらかな犯罪行為ではなく、日常的に潜在化、また顕在化している静かな暴力(それをハラスメントというのですが)をやめることのできない人もそうした理性を持っているはずです。 それでも「衝動」が治らないのはコントロール力でしょうが、なぜコントロールできないのか?という疑問です。

  • frau
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質問者が選んだベストアンサー

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回答No.4

生命の根源は、環境のエントロピー増大を淘汰とした 反力としての生きる衝動である。 それは、環境認識の低い段階では、生きるために必要 な多様な具体的な物や状況に対するバラバラの短絡的 欲求として発露するが、認識が深まるにつれ、そうした 充足感を長期的な視野の中で最大化するため、短絡的な 欲求をコントロールする(押さえ込むのではなく)よう になる。 たとえば、時間的な経過に対するビジョンがなければ、 ごちそうにハシをのばす事さえ苦痛な“作業”となるが、 実際は、ハシをのばしている間もごちそうを食べる一環 として充足感を感じている。 つまり、衝動がうまくコントロールできないのは、環境 から得られる情報を百科事典的な詰め込みの知識に留め、 自分の生きているリアルな世界の認識の深まり(世界観) として統合されていないからだ。

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >百科事典的な詰め込みの知識に留め、自分の生きているリアルな世界の認識の深まり(世界観)として統合されていないからだ。 頭はあたまでっかち、心は反社会的、非社会的な傾向がある人もいます(私の知り合いでも)。 賢く、頭の回転もいい。ですが、その「百科事典的な」頭のほうが重く、リアルの世界で養うべき世界観(心)の方が軽すぎる…と、その人を観察していて思います。 「書を捨て町に出よ」ですね(笑)

その他の回答 (7)

  • HeyXey
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回答No.8

 そこは認知的再評価ではないでしょうか。大脳新皮質が大脳辺縁系に影響を与えているのです。神経細胞は繋がっていますから、相互に影響し合っているでしょう。「OOだから怒る必要はない」と自分に言い聞かせることによって、怒りを抑える、というようなことです。いわゆる論理療法ですね。

frau
質問者

お礼

>「OOだから怒る必要はない」と自分に言い聞かせることによって、怒りを抑える そうですね。 本能からの情動のエネルギー、それを客観視する思考力というエネルギーが必要になってきますね。

  • HeyXey
  • ベストアンサー率27% (125/461)
回答No.7

 ポール・マクリーンの脳の三層構造仮説で、衝動は理性よりも前にあることが理解できるでしょう。衝動の発生自体は完全にコントロール出来ないが、1秒以内に理性でストップを掛けることは出来ます。  脳は脳幹、小脳といった爬虫類脳のまわりに、大脳辺縁系という旧哺乳類脳ができ、さらにその周りに大脳新皮質という哺乳類脳ができました。旧来の脳を無かったことにして、新しく設計し直したのではなく、増築を繰り返して今の脳があるのです。だから、旧来の脳も衝動と言う形で判断に参加しています。

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 脳の構造についてはそのとおりでしょう。 しかし本能を理性でコントロールしている人間が圧倒的多数であるというのも事実です。 法治国家であればなおさらその数は増えるでしょうね。 闘争も本能の一つであるという説も、内紛ばかりの後進国だけではなく、戦争ばかりおこしたがる先進国を見る限り、あながち嘘ではないと思います。 法が民衆の本能を抑制する大脳新皮質のようなものだとしても、個人的な規範や超自我からくる命令で自分を律することもできる人間もいる以上、人間は法だけで規制されているものでもないでしょう。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.6

"なぜコントロールできないのか?という疑問です。"    ↑ 1,米国の研究ですが、脳に欠陥がある場合が 多いから、と言われています。 反社会的人格障害と言われるモノで 刑務所の50%以上が該当するそうです。 つまり、 眼窩前頭皮質におけるグルコース代謝が 健常者よりも低下している。 つまり、脳のレベルで障害がある。 (放送大学 発達心理学) 2,コントロールの力は有る無しのデジタル ではありません。 程度のある概念です。 5有る人もいれば、2しかない人もおります。 2しかない人は、5の人よりも犯罪を侵しやすく なるでしょう。 5ある人だって、衝動があまりに大きく、5を 超えれば犯罪に走るのでしょう。

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 (放送大学 発達心理学)とは懐かしい。 私もこのテキストで学びました。 「悪と魔の心理分析」という本を読んでいるのですが、ここにフェスティンガーの「認知不協和理論」がでてきました。 自分のセルフイメージにとって不協和を抱かせるものに対しては徹底的に否定しまくる。という心理です。 セルフイメージはナルシシストならなおさら、その自己愛が脅かされそうになると不安になるのは常人よりも大きき警鐘を鳴らされるのだとは思いますが、セルフイメージを回復しようとするところに病的な衝動が垣間見られるのだと思います。 でも物理的に脳に障害があるから、という答えのほうがある意味納得しやすいですね。いろいろ考えなくて済みますから(笑)

  • HeyXey
  • ベストアンサー率27% (125/461)
回答No.5

 こんばんは。  もう少し端的な形に僕なりに解釈させて頂くと、   「暴力の衝動はなぜ止められないのか」で  よろしいでしょうか。  実験で、頭に脳波測定器を付けた被験者に、『いつでもいいですから、あなたのタイミングで手を挙げてください』と言っておきます。すると、実際に手を挙げはじめる1秒以上も前に脳波計の針は動きだし、観測している人には「この人は手を挙げるだろう」と予測できたのです。つまり、手を挙げる本人の意志が決まるより前に、観測者がわかっていた事になるのです。  どうです。あなたが手を挙げる時、意識された意志はどの位置で起こりますか。私たちは意志ができた瞬間直後に手は動き出すように意識していますが、実はその1秒以上も前に脳は動き出しているのです。「殴りたい」という衝動は、すぐには意識された意志とはならず、その間に『ストップ!』を掛けることができるのです。  「殴りたい」と思う事は止められず、自然に湧き上がってくるのですが、それを実行に移すまでには1秒あるということです。「殴りたいと思わないでおこう」とする自由は無いのですが、実行に移すのを「思いとどまる」自由を人間は持っているのです。これが、人間の持つ「自由意志」の在り方です。  1秒ちょっとの間にストップを掛けることができるかどうか、短い時間なのか、それとも案外長い考慮時間なのか、とにもかくにもストップを掛ける自由はある、というのが脳科学者の見立てです。  自由のあるところに責任は発生します。衝動が湧き起こった、殴りました、止められませんでした、自由がありませんでした、となればその人を罪に問うことはできませんが、行為をストップさせる自由はあるので責任を問うこともできるであろう、というのが刑を科す根拠なのです。衝動は止められませんが、行為は止められるのです。コントロールできないのは、止めようとする自由意志を発揮しなかったからです。

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 この1秒間のことについては本で読んだことがあります。 たった1秒で自分にとってよろしくない運命が決められてしまうこともあるわけで、よく「魔が差した」と表現されますね。 しかし「衝動」すなわち「殴りたいという気持ち」ではないですよね。 殴りたい気持ちは何らかの力(衝動)から生じます。 「殴りたい」という気持ちは、脳に伝達した「意識」です。衝動は心が源泉だと私は考えてます。 また暴力は外部(他者)に向くとは限りません。内部(自分)に向ければ自傷行為です。 衝動には暴力だけではなく嗜癖もあります。 食べずにはいられない、買わずにはいらなれない、ということがやめられなければ依存症という心の病です。 これらのものは怒りのコントロールよりさらに時間を必要とします(依存症も原因を解けば抑圧された怒りからきていることが多いです)。 しかしながら >衝動は止められませんが、行為は止められるのです。 ここにすべての衝動からくる依存を正すヒントがあると思います。

noname#208229
noname#208229
回答No.3

欲が何よりも勝ってしまうから。 理性が欲に勝てないから。

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 逆転して理性が欲に勝つという人間の進化はあるのでしょうか、ないままに滅亡するのでしょうか。

  • 29penguin
  • ベストアンサー率43% (72/165)
回答No.2

専門家ではありません。興味深い質問に、私見を述べてみたくなり回答させていただきました。 衝動がコントロールできないのは、「その先」を考えないからではないでしょうか? この行動をした結果がどうなるのかを考えない、あるいは、分かっているけど深く考えないことにする、先送りにする、ということではないでしょうか? 犯罪行動に限らず、ギャンブルで「オケラ」なる人も、ダイエット中に衝動食いする人も、カード地獄なのに爆買いする人の行動も同じなのかも知れません。 どれも、理性のブレーキが外れてコントロールが効かない状態であると思います。 「えぇい、ままよ!」「いってまえ!」「あとは知ったことか!」と、その先を考えることを放棄して、今の感情にまかせることで起こるのではないでしょか? 「衝動」は、感情によって行動を起こすことだと思います。 「気になる」を押させていただきます。

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >「えぇい、ままよ!」 そっか!その人は「今」に生きているんですね。 でもこれは、自己啓発でよくでてくる「いまを生きろ」とかのポジティブな意味ではないですよ。自傷行為は他者も傷つけますから。 >「衝動」は、感情によって行動を起こすことだと思います。 感情は本能にいちばん近いところにありますから、やはりまだ人間未満の脳の部分も多いということでしょうけれど、本能が満たさせるときは瞬間的なときだと考えました。 私は♀なのでわかりませんが、男性の場合、精液をだしたとき(笑)、セックスに似ている肉体の死(逝く=イク。エクスタシーも「小さな死」と称する)どちらの瞬間も、生への本能と死の本能が現実的に満たされるわけです。 絶えず本能のままに生きていれば忌み嫌われますが、うらやましいという気持ちもありますねー。

回答No.1

そこにはやってはいけないことへの興味もあるのではないでしょうか? やってはいけない悪いことだと分かっていても、 結果が分かっていても 興味(気になる)から本当にその結果になるのかと行動し 他人から言われるのではなく自分の中で実際に確認し だから悪いことなのかと納得したいのではないでしょうか? またそのときの感情には やってはいけないことをしてしまっている罪悪感 それに反し、分かったことへの達成感があると考えられ それは所謂、愉悦と化しています。 結局は頭の中と心の中の自分の考え方が違うということです。 頭(建前)ではいけないと分かっていても 心(本音)では愉悦を求めてしまう。 コントロールとは頭と心のバランスが取れていないと舵が取れません >>それでも「衝動」が治らないのはコントロール力でしょうが、なぜコントロールできないのか? 上記の質問に簡潔に答えるのであれば 人間は欲や愉悦には性として逆らえない生き物だからではないでしょうか?

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 愉悦ですかー。怖いですね。でも性悪説をとる私には納得できるひとつの答えです。 >頭(建前)ではいけないと分かっていても心(本音)では愉悦を求めてしまう。 「腹で笑ってる」というやつですね。 性悪説をとるのはフロイトのいうところの「快楽原則」根拠のひとつにあります。 >コントロールとは頭と心のバランスが取れていないと舵が取れません 同意見です。 精神分析的にはエス(本能)と超自我(スーパーエゴ)の葛藤でしょう。 しおらしく反省しながら腹で笑っているという状態は、顔で笑って心で泣くということとも同じですね。

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