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自ら負けを認めるのはとても名誉なことだ
- 君達の恥じらいを見抜く私は、魅惑の舞によって愚か者を勝利に陶酔させる
- ファンサービスとして、V字開脚の秘密を公開しよう
- 私の哲学的手法は、娯楽性においてどれだけ読みごたえがあるかを問うたものであり、オカマバーで踊る踊り子として取り組んでいる
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おひさしぶりでございます。 >完全なる私の勝利の前に、完全なる敗北をきたす君達は、さかさまのV、下半身のV、これをその身に刻むのだ。 さういふ理念でしたか。いま悟りました。今後も精進してまゐりますので、御指導よろしくお願ひいたします。
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コメント拝見いたしました。 >君の回答は評価がマイナス3だ。 自分で押してゐます。たくさん押しても、翌日には重複分は無効にされ、自己投票は1件のみ有効になります。私の「そう思わない」は現在2件ですので、どなたかが1件押してくださつてゐることになります。ありがたいことです。「自ら負けを認めるのはとても名誉なことだ 」といふ質問タイトルをそのまま実行してをります。今回の回答にも「そう思わない」を押します。 「ありがとう」件数は、複数投稿がそのまま有効になるやうです。質問とかざみどりさんの回答に、もう少し押しておきます。
お礼
あんたが犯人か。 いろんな趣味があるものだな。 前回の非行少年の論点だがな、ゆるされる事を受け入れるとしたら、負けを認める事から始めるだろう。 赦されて罪を自覚するのだ。 すなわち今回は君の無駄な抵抗と決定だ。 すなおに、 キュアブルーム様、私をお嫁にいけない体にしてください。 こう懇願しろ。 オカマがやるから面白みがある。 女子にも、オカマ扱いが適用される。 私の定めたルールだ。
(A) When king Devānāṃpriya Priyadarśin had been anointed twenty years, he came himself and worshipped (this spot), because the Buddha Śākyamuni was horn here. (B) (He) both caused to be made a stone bearing a horse(?) and caused a stone pillar to be set up, (in order to show) that the Blessed one was born here. (C) (He) made the village of Luṃmini free of taxes, and paying (only) an eighth share (of the produce). まあ、そんなことはないよね。 because the Buddha Śākyamuni was horn here. ブッダ・シャカムニがここで生まれた。 だからね。 そういえばアショーカ王の名前も違うから最初は誰かわからなかった。
(A) 1 Devāna[pi]yena Piyadasina lājina vīsati-vasābhisitena 2 atana āgāca mahīyite hida Budhe jāte Sakyamunī ti (B) 3 silā vigaḍabhī cā kālāpita silā-thabhe ca usapāpite 4 hida Bhagavaṃ jāte ti (C) Luṃmini-gāme ubalike kaṭe 5 aṭha-bhāgiye ca AkSāṃSār Rumindei and Nigālī Sāgar minor pillar-edict, Māgadhī http://www2.hf.uio.no/polyglotta/index.php?page=fulltext&vid=378&view=fulltext ついでに Budhe jāte Sakyamunī それですけれど、 釈迦族の聖者の生まれのブッダ になりませんか? 間違っていたらすみません。 文法と文脈を無視しています。 ジャーティとか まさかクシャトリヤから聖者になったのではなくて、ムニの生まれだったのだろうか? と気になっているのです。
ブラジュロンヌさんにブロックされたのでこちらに代わりに投稿します。 すみません。勝ち負けとかは新聞記者がこだわっているかんじがあります。ある程度の年齢以上の人が 非常に勝ち負けにうるさい。負けるが勝ちとかも、敵対する相手が言えば負けたくせにみたいになりますね。 以下がブラジュロンヌさんのところに投稿しようと思ったもの。 あの、もしかして私が 「スッタニパータにブッダはあるのだろうか?」 と書いたからでしょうか? それについては、「ブッダのことば」と書こうとしたらそのまま投稿されたのものです。 まさかとは思いますが、もしその書き込みからの質問だとしたら、よく読んでいますね。 なんだかそのせいで、さっそく邪見扱いしてくる人とかいて、 どうして邪見になるかといえば、無記とか、空とか中道とかが仏教にあるからでしょうが。 あとは、サーリプッタの元の師匠にサンジャヤ・ペーラティプッタがいますが。 どっちつかずの鰻論法の元ネタはこの人だと思うのですが 印象だけで言えば、正直サンジャヤ・ペーラティプッタが スッタニパータ第四章のゴータマ・ブッダの元ネタだと思います。 もしくは逆かもしれないけれど。 とにかくそうすることで、仏教の本流にサーリプッタが加わったという話にできるから。 元の師匠は死んだことにされた。 考えすぎかもしれませんが。 存在論はまあ、仏教的ではないわけですが。 疲れる。 実存は本質に先立つ。 人生に意味はない。 自分で創造しよう。 とかそういうことでしょうか。 でも実存主義の話をするとすぐに古い、ここでの古いは流行遅れとかもうダメとかいうそれで マルクス主義と結びついたのが失敗だったのかもしれませんが、 人生に意味はなくても歴史に意味がある、歴史に参加しようというのは なにか大きな物語がないと難しいのかもしれませんね。 また現象学とか構造主義の人とかが嫌みなことを言ってくるのかな。 これで何度目だろう。 それとも本質存在の話になるのかな。
お礼
まとめて書いておくよ。 私の知るところを別の角度から引用しよう。 動物に感情が無いという常識。 これは科学では無くてキリスト教が根拠なんだ。 脳構造の素人向けの解説書でも読めば、生命活動の行動の基本は情動である事が判る。 すなわち、原始的でも大脳があれば行動原理は情動だ。 ぺっとでも飼って犬猫とラブラブになると、お互いの心が結びついて、感情を交わしている事が誰にでも実感できるだろう。 ところが現代では日本でも、動物に感情が無いのが常識だ。 この問題は、少数の日本人キリスト教徒だけが、信仰の問題として取り組めばいい。 これらは、近代化に当たって西洋から持ち込まれた。 検証もなく丸のみ出来ない事柄で、だからこそ日本人哲学者の仕事の主流は、海外哲学の輸入ブローカーなんだよ。 そのあてにならない英語圏の哲学で、逆に東洋哲学を輸入しようとする試みを参考書として、そもそもの内容がどれほどのものかね。 君は内容がスカスカだから読みやすいという事実を一考すべきだよ。 ちなみに私は英語は判らん。
お礼
楽しんでくれて光栄だよ。 ところでOKウエーブのページで見ると君の回答は評価がマイナス3だ。 好意的で当たり障りが無いはずだが謎だな。