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存在と存在理由の大切さとは?
- 存在と存在理由、どちらが大切なのかについて考えます。
- 存在理由は存在に先行していて大事であると考えられますが、別の見方もあるのでしょうか?
- 生命を賭して果たす存在理由について考えた場合、存在こそが大事なのか、それとも存在理由そのものが重要なのか、議論の余地があります。人間はこのような問いに対して様々な考え方を持つ存在なのかもしれません。
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まあ!あ_ほなさん。 反応ありがとうございます(*´▽`*) 19番のお礼欄でぶらじゅろんぬさんが説明してくれてるから わたしはもうあまり書くことがないんですが。(^-^; いやあ、全面的に反対というわけではないのですよ、 心理学カテや教育カテなら、模範解答だと思うのですよ。 だから論破するつもりも排斥するつもりもなく。 ただ、自分や他人との闘いだけが人生なのかっていうと、 う~ん、そういうのは生きる目的や理由というよりは、 方法、だとか、生き方のひとつであって、 なにか足りないような気がするなあと。 そうそうわたしこの人わりと好きなんです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%BC%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6 この人は 「人間であるということは自分が劣等であると感じることである」 と言っています。 >至らぬ自分を発見することが励みになる :はい、そうなんですが、それは、 自分と他人とを比較して どっちが価値があると判定する、のぢゃなくて、 自分にとっての理想の自分、と現在の自分とを比較して 自分の伸びしろや可能性を発見するってことでしょう? 間違いがあれば直してくださいね。 反応できるかどうか分かりませんが。 文章を書くのがどうも下手で、まとまりませんので 以下、つぶやきのまま、送信します。 流してもらってもOKです。 手を叩いたら音が出た。 右手と左手とどっちが偉いのかなあ。 フォワードとディフェンダとどっちが偉いのかなあ。 まあフォワードはシュートするからカッコいいけど。 蜜柑と檸檬とどっちが偉いのかなあ。 風邪を引いたりケガをしたりしたら その人自体の価値は下がるのかなあ。 摂取と排泄とどちらが偉いのかなあ。 わたしは青空のときばかりではなくて 濁りまくりのときや土砂降りのときがあるけれど 土砂降りのときは、空はワルモノなのかなあ。 まあ青空だと気持ちいいけど。 ほぢゃ。(^^)/
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- a_hona
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ニュートラルさんへ。 雨の日も悪くないですね。もちろんそう言う見方も結構だと思います。 存在するという事を、天候の様なものだとしたら、存在理由とは、例えば若者が異性にプロポーズすると決めた日に、どうして雨が降っているの?という様な事。プロポーズがOKされたなら、その日は特別な日になるでしょう。天気は、雨でも晴れでも何方でも良かったのです。 存在と言うのは人智を超えた事象です。ある意味で考えても仕方のないこと。しかし存在理由はまさに人のためにあるのです。人生の中身のようなものです。 私はその様に考えました。
お礼
司会役からも ご回答をありがとうございます。 進行係としましては 次のことが――あ_ほなさんの見解にあって――はっきりしました。 存在: 人智を超えた事象。考えても仕方のないこと。 存在理由: 人生の中身のようなもので 人のためにある。 わたしの見方は あ_ほなさんの《存在》を いわゆる本質論における《本質》のことだと捉えます。 あるいは もっと霊的に アートマン(霊我)やブッダター(仏性)や物自体や世界精神やです。 わたしの《存在》は 《きょうプロポーズしようとしている若者》であり 《なのにどうして雨が降っているのかと問うその人》であり《相手からOKを受けてよろこぶその人》のことです。 したがって 《存在理由》は 《おれは かのじょと共に家庭を築き世界にあって ふたりであたかも一つの人格であるかのようにして 親たちやまた子どもたちといっしょにすこやかで明るくたのしい小宇宙を 社会のほかの人や家庭としてのそれらと手を携えて つくっていくことだ》となります。 到らない人間であったなら 到る人間になり あるいは到らないままでも存在理由を持ったなら 必ずそのように一歩一歩生きて行くのだとなります。 この存在理由には存在が先行するというのは この人物にしても誰にしても 《わたし》としての自己到来を経ていることが基礎となるという意味です。 《〈わたしがわたしである〉わたし》でないなら 考え出した存在理由も 次から次へまた書き直すことになるということが 《存在先行説》の根拠です。
- yuniko99
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存在しない事には 存在理由はないのだから 存在理由無き存在を許すなら 存在の方が根本的に大切と考える以外にない。
お礼
まぁ そうなんですけれど。そう思っているんですが。 ゆにこ99さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 あるいは 存在の中から 何かをきっかけにして おのが存在理由を見出すことがあるかも知れない。わが存在の内面からというところが ミソだと思います。 いや ちょっと待った。 ここから だから 《性質》は 存在ではなく 存在理由に似ていると言おうとしてるんですよ。
- a_hona
- ベストアンサー率21% (95/444)
なにか、ニュートラルさんが私の回答について納得出来ないとおっしゃっていますね。ちょっと場所を借りてお話します。 気持ちは分かりますが、私はあえて今回はこの様に書いているのです。貴賎を問わず、健全であって、青空のように抜けている人は、このようなことには悩まないでしょう。しかしながら、こういう見方もあると知って置かなければならないとも思うのです。なぜならば、そんな、貴賎を問わず、健全であって、青空のように抜けている人は、とても少ないと思われるからです。では大多数の人にとって、今回の問が意味あるものとなるならば、貴賎を用いて、人間の優劣を敢えて語り、至らぬ自分を発見することが励みになると言うのです。至らない自分の、目標とはなにか、それが存在理由であるのではないのか、ということでも有ります。
お礼
ご回答をありがとうございます。 にゅうとらる‐さんは にゅうとらる‐さんで ご返答されると思います。 わたしからは一点 述べさせてもらいます。 ★ 至らない自分 ☆ というのは ほかの人に向かって言うことは すでにわたしは到っていると言っているようなものだと思うのです。 能天気が 存在の核心ではないかと思うのです。
- a_hona
- ベストアンサー率21% (95/444)
同じ果樹の中でも、良い実をつける木と、そうでない木があります。同じ人でも、立派な見解を示す人と、くだらない話をする人がいます。 私は別に、只の人を蔑んでいるわけではありません。ただの人はただの人だと言っているのです。 私の考える存在理由とは、人として生きるとはどういうことか、という問の回答のようなものだとお話しました。 つまり、只の人ではない、人として生きることを突き詰めたものは、余り一般的ではないでしょう。人倫などは、皆それなりに知っているものですし、身につけているものですが、それは突き詰めたものではありません。 故に、その回答を知って、ものにしている人は、立派な人だというのです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ つまり、只の人ではない、人として生きることを突き詰めたものは、余り一般的ではないでしょう。 ☆ 《生きるとは何か》というような意味内容として 存在理由を捉える。だとしたら けっきょくそれは《存在とは何か》になると思われるのです。つまり その意味で《一般的》なのです。つまり 主題が・問題の内容が 一般にわたるものです。 そのツテでさらに飛躍しますが 《只の人であること》が 存在一般の基礎内容である。と おそらく成るのです。受け容れがたいと思われるかも分かりませんが それがおそらく にゅうとらる‐さんが次のように言うときの意味内容ではないかとわたしも考えます。 ◆ (回答No.17) ~~~~~~~~~~~~~ 存在するだけではいけないのですか。 存在は(人間の場合「人生は」)、 存在するに値する(人間の場合「生きるに値する」) 尊いものだよな~ と思いつつ存在するだけではいけないのですか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ わたしの言葉で 樅の木本体だけという存在です。 少し付け足すなら 《ただそこに存在しているだけ》というのは 《存在が存在している》ということは 自覚にあるのです。つまり 《わたしがわたししている》ということです。要するに 《わたしは 何もしていないけれど いやいや 生きている〔と知っているし そう言えるよ〕》といった自覚です。 そこにさらに 存在理由を付け加えてもよい。すっきりしたよきものなら つけ加えてもよいと思いますが けれども 《わたしがわたしである(自己還帰)》が成っているなら もうそれで足りるとも思っているわけです。 すなわち・つまり 次の《人倫》としての素朴なであってもひととおりの和の関係であるなら もう万々歳であると捉えています。: ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 人倫などは、皆それなりに知っているものですし、身につけているものですが、それは突き詰めたものではありません。 故に、その回答を知って、ものにしている人は、立派な人だというのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 自己到来というのは 世間と自分が和解しているという意味です。じっさいにそういう心の状態にあることです。 しかも 自分自身とも和解している。おれは こうなのだ。こうであって おれはおれなのだといった境地ですね。 そうして わたしが世界と和解し世界にしかるべく位置しているなら それで最高の存在理由を得ているし 実践済みである。と考えるわけです。 これは 何ものにも代えがたくとうとい。 でも 存在理由がすばらしいとか その実現したすがたが立派であるとかの問題は どうもやはりクリスマスツリーの飾りであるように見えます。出世した結果の肩書きであったり あるいはいわゆるシガラミの中を泳ぎ渡った――せっかくですから 次の言葉を使いますが――《栄光》であったりするのだと思いますが それは カザリである。つまり 《存在に外から付け加えられたもの》ではないかと。 ★ 同じ果樹の中でも、良い実をつける木と、そうでない木があります。 ☆ 《良い実をつけない木 枯れてしまった木》 これは 木として やはりとうとい存在であると見ますが 《門地が立派でない》のは 神の所為である。神がわるい。のだと思います。 〔神が一方的にわるいとは言えないのですが。つまり 人間の側としては アダムやエワが ウソをついた。あるいは 自分自身をあざむいた。(そういうウソをついた)。その結果 よい実をつけるかどうかや そもそも実が成るかどうかで めぐまれているかどうかの差が現われて来ている。じんるい全体の連帯責任としての自業自得だと見られます。個人の自業自得だとは 言えない。特定はできない〕。 つまり 実を成らせていない木と相い対して こちらは もし実をつけている木だとした場合 それでも この両者の対面は 互いにその連帯責任を心に相い照らし合うかのごとく見て取っていることになる。のだと思います。それが 人類であり 一人ひとりは 人間なのだと思います。
- neutral-
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鶏さんと牛さんごめんなさい。 例えのつもりでしたが まちがえました。
お礼
とは言っても 人間の身勝手ではないかと批難する人も 鶏さんや牛さんたちに恩恵をこうむっているはずなんですけれど。 ご回答をありがとうございます。
- neutral-
- ベストアンサー率23% (3/13)
こんにちは、ぶらじゅろんぬさん。 そりゃあもちろん存在自体が大事でしょ。 存在するだけではいけないのですか。 存在は(人間の場合「人生は」)、 存在するに値する(人間の場合「生きるに値する」) 尊いものだよな~ と思いつつ存在するだけではいけないのですか。 まあ存在理由を作りたくなることもありますが、 たいてい信仰心と、それから 自尊心(みずからをとうとぶこころ)が 低下しているときだな。 なんで生きてなくちゃいけないの?みたいなね。 存在理由があって存在するものたちを見て 吐き気を催す人の話があったね、 サルトルだっけ。 鋏→モノを切るためにある。 畑→農作物を育てるためにある。 家→ひとを猛暑や極寒や嵐や野獣から守るために。 鶏→卵を産んでもらうために。 牛→乳を出してもらうために。 むしろ、人間だけ、 存在理由から解放されてるんぢゃないかしら。 あ_ほな さんのご回答には いつもうなづかされますが、 今回は納得できませんスミマセン。 たぶん書きっぱなしになります。 ほぢゃ。
お礼
あああ。 ★ ~~~~~~~~~~~ 存在理由があって存在するものたちを見て 吐き気を催す人の話があったね、 サルトルだっけ。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ あああ。ロカンタンだったかなぁ。木の根っこを見て 《嘔吐》するんだったか どうだったか。あああ。読んでないーーー。あぁ はづかし。 にゅうとらる‐さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 あっと これで もうお応えはおしまいかなぁ。同感だから。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ 鶏→卵を産んでもらうために。 牛→乳を出してもらうために。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 人間の身勝手だという人もいます。というふうに 公正を期しておきます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ そりゃあもちろん存在自体が大事でしょ。 存在するだけではいけないのですか。 存在は(人間の場合「人生は」)、 存在するに値する(人間の場合「生きるに値する」) 尊いものだよな~ と思いつつ存在するだけではいけないのですか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この文脈では 鼓腹撃壌でいいぢゃないの? と。
- a_hona
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彫像を彫らない彫刻家は彫刻家とは言えない。素晴らしい彫像を彫るのでその彫刻家が素晴らしい彫刻家だと言われる。無論、彼は素晴らしい彫刻家であるが、その事によって、人間として素晴らしい人だとまでは言えない。 存在理由や存在目的を行使しない人は立派な人とは言えない。存在理由を行使するので立派な人だと言われる。存在理由には人としての普遍性が宿っている。人として生きるとはどういう事か、それに対する答えが存在理由であり、それは自己が自己に帰還すると言ったトートロジーの意味ではありません。私は人である、と言った当然の事を言っているのでもありません。存在理由にも色々あるでしょう、それを明確にしないまま話をしたのが良くなかったのかもしれません。 存在理由が理念であり、人間存在が実在であるとか、そういうことはどちらが大切かということと関係がありません。論理的には存在理由の方が大切であるということができると説明してきたのです。美味しい実がなるので果樹は有用である。実がならないなら、その木は果樹として成り立たない、と言ったようなことを、繰り返し述べたのです。只の人か、立派な人かの違いです。質問者さんは、只の人で十分良いのだと、そういう見方をされているのだと思います。 また、固有の思想に置いて、何が一般論かと言うことには意味がありません。 質問は、他に別の見方はありますか? と言うものでありました。その通りに別の見方を提出したが、それを受け入れるかどうかは質問者次第です。私は十分に回答したと思いますが、どうでしょうか。 しかし考えさせられる良い機会になりました。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 存在理由を行使するので立派な人だと言われる。 ☆ これも 一般論にはなじみません。 《ソンザイリユウというものをおれは持っているし 実践している》と言っただけでは まだ意味を成しません。それに 失敗する場合もあるという話も出ていますが 問題は 存在理由の中身によるでしょう。 ではいま よき存在理由があったとします。誰もがそう認めるものがあったとします。そしてそれを《行使した》とします。――どうして これだけで《立派な人》になりますか? なぜなら そこまで人びとの見方が――常識として―― 一致しているとしたなら ほかの国の人はいざ知らず日本人なら 中間層と言われる大方のひとは だいたい同じようにそうしています。実践しているはずです。たとえば ユヅリアヒだとか助け合い。《立派である》と言ってもいいでしょうが あまり言わないでしょう。どうです? ぎゃくに言えば 存在理由は 一般論でなければ・つまり個人としての個別の《人生 おれはこれで行くのだ》という存在目的については 人それぞれなのです。多様性のもとにあります。つまり あまりほかの人の存在理由とくらべることはしません。それぞれが とうといはずなのです。存在理由がとうといと言うのなら それは そういう事情にあります。 ( a ) 自己到来:存在が存在であると知った《わたしなる存在》の確証 ( b ) 存在理由:自己還帰したわたしが その具体的な一生を生きるときの指針 ( b-1 ) それでも 一般的なもの。助け合いといった倫理の基本など。 ( b-2 ) 個別に《わたしの人生は こう生きる》という具体的な行き方 ☆ この( b-2 )については 人それぞれである。 ( b-1 )も 国によって民族性があるように或る程度 人によって違う部分もあるが おおよそ人倫としては 共通の内容があるとも言える。 ( a )は およそ人それぞれによって いつ・いかにしてその自己還帰が到来するかはまるで違う。にもかかわらず・しかも その自己到来というのは 人間性の問題であるからには 内容が普遍的なことだと考えられる。 ( a )と( b-1 )とは だいたい同じときに得られる。だから 仮りに( b-1 )の存在理由がよきものだと見て 存在理由はとうといと言う場合にも それは 同時に存在のほうもひとしくとうといと言っていなくては おかしい。むしろ ( a )の自己了解ゆえに ( b-1 )の存在理由が得られたとさえ言えるからには 存在のほうが とうといという大前提が つねにある。と言わねばならない。 ( b-2 )の存在理由については それはそれ自体として ないがしろにすべきでないことは言うまでもないけれど 個別の《わが生きる指針》というのは 人それぞれであると同時に それぞれが言わば多様性のもとにとうとい。のだから 存在理由を持ちそれを行使したから その人は立派だということを ことさら言うのはやはりおかしい。 ★ 存在理由には人としての普遍性が宿っている。 ☆ これは特には ( b-1 )の存在理由のことを言っています。 ★ 人として生きるとはどういう事か、それに対する答えが存在理由であり、それは自己が自己に帰還すると言ったトートロジーの意味ではありません。 ☆ 前半も後半もいづれも おっしゃるとおりです。 後半は ( b-1 )が( a )の存在確証(まぁ けっきょく さとり)ではないという意味です。 前半は ただし 個別に《政治家を目指す》とか《主婦として家庭を守る》とかの具体的な人それぞれの存在理由ではないという意味です。 ★ 私は人である、と言った当然の事を言っているのでもありません。存在理由にも色々あるでしょう、それを明確にしないまま話をしたのが良くなかったのかもしれません。 ☆ 途中からですが こちらは かなり明確に区別して来たと思いますよ。 ★ 存在理由が理念であり、人間存在が実在であるとか、そういうことはどちらが大切かということと関係がありません。 ☆ そうであるかも知れないし そうでないかも知れない。というのは そうでないと見て質問する理由が ここでは はっきりしています。 例の《存在・存在性・性質》の議論で 《性質》をいまここで言う《存在=人間存在=〈わたし〉なる実存》と同じではないかととなえる見解が出されているからには この質問を取り上げざるを得なかったのです。 ★ 論理的には存在理由の方が大切であるということができると説明してきたのです。 ☆ それは 《存在》が縁の下の力持ちであるから 遠慮し《存在理由》のほうに道をゆづったのだと説明しました。《性質》が《存在=人間存在》を凌駕することはあり得ません。 ★ 美味しい実がなるので果樹は有用である。実がならないなら、その木は果樹として成り立たない、と言ったようなことを、繰り返し述べたのです。 ☆ 《実が成る・成らない》のは 《果樹である》という存在を前提としたそのあとの問題です。前提には 実が成るという可能性(潜在力)がふくまれます。この前提を無視して 《実の成ることの有用性》のみを褒めたたえることは いかがかと思われますし 実が成らなかったなら おまえは果樹ではない 消えろと言うのも どうかと思ます。。 いかなる原因か分かりませんが 仮りに実が成らなかったとして だからその果樹は カスだ屑だ無価値だと裁定するのは――果樹の場合はまだしもだとしても―― やはり人間が人間である問題としては いかがかと考えます。 ★ 只の人か、立派な人かの違いです。質問者さんは、只の人で十分良いのだと、そういう見方をされているのだと思います。 ☆ そのとおりです。どんぐりの背比べだと言っています。 カチカチ教(価値至上主義)は 日本人にとって伝統ではありませんし 一般的に見ても かんばしい思想の基礎だとは思えません。 ★ 質問は、他に別の見方はありますか? / と言うものでありました。 ☆ よさそうかどうかを吟味検証しては いけませんか? ソンザイリユウだと本人が言っていたなら・そしてそれを行使していたなら そのまま無条件に鵜呑みしてとうとく立派だということになりますか?
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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相変わらずにいろいろ観念を駆使されておられますね。 まぁ日本人において価値がどうのという話は確かにあまり関係がないでしょうね。 特に神道や民族性から。 だからといって神道や民族性の場面で私の見解が通らないかということとは違いますね。 あくまでも私の見解、生き方の問題です。 無論普遍なる真理と思って抱懐していますがbragelonne さんを納得させることはできないのですね。 仕方のないことです。 あなたの存在理由は根本の存在たるゾルレンではないという事なんですね。 それならそれでいいんではないでしょうか。私は否定はしませんよ。でも哲学ですから観念のいじくりまわしではなく、真理に肉薄気迫が欲しいね。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ まぁ日本人において価値がどうのという話は確かにあまり関係がないでしょうね。 / 特に神道や民族性から。 ☆ ですから カチカチ教からは きょうの今・ここから自由になるということをコミュニケとして発表したいですね。 ★ あくまでも私の見解、生き方の問題です。 ★ それならそれでいいんではないでしょうか。私は否定はしませんよ。 ★ 観念のいじくりまわしではなく ☆ このたぐいの発言が出たときには――それらはただの自己正当化のためのマジナイにしか過ぎませんから―― 対話は頓挫したことを意味しましょうね。 いまは 種切れだと受け取りました。充電して またいつでも来てください。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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私たちより十数年上の世代。 旧制高校生は、ザインとゾルレンのことを口にし語り合うのが常でした。 そう存在と当為ですね。 カントの物自体と規範や価値の世界の当為です。 私自身は思う:ザイン=ゾルレン つまりザインにおいてゾルレン性がなくなれば河を流れてきた草木などの物体は腐り河底の泥、岸辺の葦の土壌になるだけですね。 つまりザイン=ゾルレン、ゾルレンがザインであると。 そういうゾルレンではない存在理由は意味性はないのだと。 私たちで志向をしない存在は病にかかりやすく、弱い。 そういうものですよ。 存在とは当為です。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 私自身は思う:ザイン=ゾルレン ★ 存在とは当為です。 ☆ という思想であると受け取ります。それは ほかにも別様なものがありうるという意味において ひとつの思想であるという反応になると思います。 では 《ザイン=ゾルレン》とは考えない思想とは どういうものか? 互いに対等な内容としてあるのか? ゾルレン(当為≒理念や思想としてのわが存在理由)は クリスマスツリーの飾りだと捉える見方もあるということが それです。本体たる樅の木が ザイン(存在。また存在〔のみ〕としてのわたし)です。 いやいや ゾルレンは そんなよそよそしい・またけばけばしいものではなく 生きることの内容そのものとして内面のチカラであってそれの実践としての過程そのものである。決して外からつける飾りなどではない。 ――と言う場合 そうだとしたら そのとうといゾルレン≒存在理由は とうぜんのごとく わがザイン=存在の中から あたかももともと潜在していたかたちで湧き上がって来たものだとなります。 つまり ゾルレン≒存在理由がとうといということは言えたとしても そのときそれがザイン=わが存在に先行して より一層とうといということにはならない。でしょうね。 たしかにそれゆえ 《ザイン=ゾルレン》というふうに等号で示されている。のですが それでも そこから ★ ゾルレンがザインであると ☆ いうところへは 飛躍し得ないでしょうね。 ★ つまりザインにおいてゾルレン性がなくなれば河を流れてきた草木などの物体は腐り河底の泥、岸辺の葦の土壌になるだけですね。 ☆ ザインとゾルレンとをくらべているとき 《ザインにゾルレン性がなくなる》ことを前提に置くことは 話が違います。 ゾルレン性がなくなっても 人間は考える葦です。そのことは措くとして ですが 《ゾルレン性を持て! 失くしてはいけない》という命題は 《ザインはゾルレンをふくむ。その前提で言えば ザイン=ゾルレンであるという命題もひとつの思想となる》という話とは 別です。 存在(ザイン)としての樅の木が おのれのチカラと知恵をおのれの内面から発揮して とうとい飾り≒存在理由(≒ゾルレン)とその実現 をも生み出した。ということが ことの真相ではないでしょうか。 余計なことをひと言: おそらく《価値》という概念は 日本人にとってはヨソモノでしょうね。 この存在・この生が 値打ちの有る無しで値踏みされちゃあ やってらんねえよと返さなければならないでしょうね。 価値の思想 これは 克服せねばならない――これは じつは ゾルレンなのですが・つまりわがザインそのものからの要請なのですが――でしょうね。 ニート・引きこもり あるいは植物人間 これらの存在にも そうでなくバリバリに活躍している存在たちにと同じく ひとしく《価値》があるという こういったテーゼから入って行く必要があるでしょうね。 近代人や現代人は 価値を追い求めるあたまを離れてゾルレンの理屈から自由になることは かないませんかねぇ。価値 価値って カチカチ山ではないのですから。でも こびりついていましょうかねぇ。
- a_hona
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人間存在から励起して、存在理由や存在目的と言ったものが起こる。 逆説的ではあるが、その人間存在に、存在理由や存在目的が起こった故に、その人間存在には価値が宿る。 とある素晴らしい彫像があるとして、其れは大理石でできているとしよう。人間存在とはこの大理石の如きもので、そこに掘られた形が存在理由と言ったものに当たる。 大理石と言う素材がなければ彫刻する事さえできない。人間存在がなければ存在理由もない。しかし大理石が大理石のままでは価値はない。そこに素晴らしい像が彫られる故に、価値が生じる。人間存在があるだけでは、そこに価値は無い。存在理由を見出し、確かに生きてこそ、その人生に価値があると言える。 お礼を受けて、必要かと思い再回答します。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 人間存在から励起して、存在理由や存在目的と言ったものが起こる。 ☆ これは そのままを受け取るとすれば ひとつだけ添えておかねばならないことがあります。 そのあと 《そこに励起され起こった存在理由または存在目的なる思想ないし理念を 人間たる〈わたし〉が よいと思ったら 受け取り受け容れる〔という行動をも起こす〕》と付け加えます。そんなことは分かっていると言われるかも分かりませんが これをつけ添えなければ 存在理由や存在目的が 幽霊のようにふわふわっとそこらを浮遊していることにしかならないからです。 ★ 逆説的ではあるが、その人間存在に、存在理由や存在目的が起こった故に、その人間存在には価値が宿る。 ☆ これは そういう判断です。判断の内容として――それは 特に何かの行動をともなうものではないので―― 思想や理念となっているものです。 どういうことかと言いますと そういう判断を加えない場合(そういう人)もあるということです。いちいちそういう理念を持たず思想としても形成しない場合があるということです。 つまり 一般論にはなじみません。 一般論は こうです。 (i) 存在理由の問題に入る前に 存在そのものの確認が起きます。このことから出発します。つまり 次のようにすでにやり取りしたところです。 ☆☆(No.9お礼欄)~~~~~~~~~~~~~~ (き) つまり この〔人間におとづれる〕二度目の誕生には ( a ) 存在が存在であることの確証を得たという観想と ( b ) 《わが存在の理由。われは これこれのために生まれて来たのだという確信》 との両方がふくまれる。のではないでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (ii) 上の( a )なる事項を重ねて把握しておきます。: 人間存在は 具体的な存在たる一人ひとりの《わたし》にあって やがて自己が自己に到来するという《固有の時》がおとづれます。 《なるほど存在とは こういうことだったのかとおのれが人間であることをさとり確認するとき》がおとづれる。 つまり 存在が存在でありわたしがわたしである自己還帰に到り 世界における自己の位置づけを確認し おのれが人間として生まれて来たことの自己了解を得る。 ただし この自己到来・自己還帰・自己了解は 自己が自己であるというコトのみであって そこに何かの理念や思想が伴なわれることはない。むしろ あたかも思考を超えて理念をも超えたところで その固有の時はおとづれる。 つまり もし理念や思想が それらもが起こるとしたら それは別様に 次の《わが存在理由》として持たれる。 (iii) このいわゆるレゾン・デートル(存在の理由)は いまそのことの一般的なものは省きます。 すなわち たとえば自己到来を得たときわたしは こう考えた。《ひとは 孤独である。どうしようもなく孤独である。ただし その孤独とは ほかの人たちのことを思うと 孤独という関係である。あるいは 人と人との関係が そもそも孤独として出来ている。しかもこの孤独関係から わたしたちは逃れることは出来ない》と。 つまり これは 自己了解であっても すでに思想でありなおかつ一般論である。一般的な内容としてのレゾン・デートルである。したがって 個別の存在としてのわが存在理由は あるとすれば 別にある。 (iv) 早い話が わたしはこの固有の時を得てその自己了解のもとにたとえば政治家になり大統領になるのだとか あるいは家を守り家族を守る主婦として生きて行くのだとか そういった具体的な《存在し生きて行く理由や目的》のことを言っているわけです。 (v) そのような: ★(編集しました) 存在理由や存在目的が人間存在に起こったが故に その人間存在には価値が宿る。 ☆ という見方をするのは かまいませんが それは 一般論ではありません。と言っています。 価値があるとしたら 一般論としても個別のものとしても存在理由が起こったというその本体たる存在のほうにある。となるはずです。殊更そう言う必要もないでしょうが。 ★ しかし大理石が大理石のままでは価値はない。そこに素晴らしい像が彫られる故に、価値が生じる。 ☆ つねに存在(生きる本体)と存在理由(理念の側面)との両面があると見なければならないでしょうね。 大理石に素晴らしい像を彫る・つまり大理石を素晴らしい像に仕上げる このことを行なうのは 存在たる人間・そのわたしです。そのわたしが 彫像としての構想を内容とする存在理由を得たことから始まっています。彫刻の技術も 存在としてのわたしが努力して会得しさらに磨き上げて行きます。 さて 《価値が生じる》のは どこにでしょう? ★ 人間存在があるだけでは、そこに価値は無い。存在理由を見出し、確かに生きてこそ、その人生に価値があると言える。 ☆ 《存在理由を見出し 確かに生きる》のは おのおのわたしとしての人間存在ですよ。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ここが同感とか ここはちょっと違うとか まだ言わないほうがよいのかもですね。 あ_ほなさんのお答えを待ったほうが。