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存在と存在理由とは どちらが大切ですか

 前者だと考えるのですが もし  ○ 生命を賭してでも これこれの使命を果たせ  という存在理由を持ったとした場合 どう考えるでしょうか。  A. 存在こそが大事なのだから その使命とやらが あやしいと考えるのか。  B. いやいや おのれの生涯を賭けた使命としての存在理由なら 存在そのものなのだから おのづと答えは知れているとなるのか。  * 人間は考える葦だとは よく言ったものですね。このことで考える余地があるということが 人間なのでしょうか。

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回答No.42

では、神の「情」はどう推理でき、捉えることが出来るのか?  ここにキリストが登場します。 キリストがそれを語ってくれました。 しかも、身を呈してです。  つまり、その存在理由がおそらくですが、最大限に存在の意義と同じほどの意味を持つようなあり方でそれを私たちに示してくださった。  ということだと思うのですが、 そこはたぶんbragelone様と私の考えは同じだと思います。 でもその意味合いを持って 三位一体論を語るならば、そのように言えてもしまうような「存在」がキリストであったとしても、 おそらく神学でいう意味とわたしのそのへんの理解とは違うのではないだろうかと思っています。   私のは単純すぎます。 でも私自身には覆せない考えです。 キリストは情の部分で神と同じような境地に達したのではという信頼性は私の中に起こります。 でもこれは信頼です。 たぶん信仰ではないと思います。   そうだとすれば、私たちの心(情)にとって、キリストは神と同じようなもの(かどうかは 聖書という記述だけではそれもまた厳密なことは解らないとも思っています。)そういう人間だったとは、言えてしまうということであり、  では「霊」とは何かといえば、 私の考えの中では、神もまた人間と同じようにあたりまえに他には存在しない「主体」だということにすぎません。    あたりまえのこととしてしか考えられないということです。 其の「情」の部分、キリストは物質あるいは生物でもあるわけですが、さて「表象」は可能かというと、 ここで近代演劇論における「表象」の問題がでてきますので、 ここはbragerone様の次の質問への私からの回答の方でもでてくるでしょうから、そちらにまわします。   演劇論での「表象」ということなら、やはり、これは確かに不可能です。ということなのですが。 しかし、「情」は、私たちの経験から追いかけてゆけますし そうすべき存在です。 その道にても この論議に必要な謙虚さも神への謙虚さも始めて得られるという考えです。 親ならば、普通は自分の子供に対して その個のかけがいの無さに気がつく感性の機会はたくさん体験しているでしょう。 しかしこれさへもいそがしさとか、それこそ間違った「欲望への対応」のために見過ごしてしまう時があります。  そのへんが森のある村の中では 気がつく能力とかは大きかったという推理もあるのですが、ここは簡単に触れるにとどめます。   その経験知プラス 存在の不思議さとかの感受が 徐々に神の超自然という五感では捕らえられない「情」を想像できるようになる。というありかたでしか、 神の其の姿を推理できないという考え、 ここまではわかりましたでしょうか?     これは しかし、そこにエベレストが見えるようになったら、 始めて空や星の奥深さが実際に少し感じられるようになったという時の、はるかはるか上の がゆえに非思考にならざるを得ないそういう存在が神の心あるいは「情」の世界なのだというものです。    これ以上完璧なキリスト賛歌なる音楽は無いという音楽を音楽においては仮にバッハが完成してしまったとしましょう。 それも考えられませんが仮にです。  でも、その音楽を感じる完成は そのエベレストよりもはるかに高みの可能性を宿しています。 そして、もちろん、其の可能性は神が私たちにすでに与えてくださってる贈り物です。  あるいはこれを存在の贈り物と言ってもいいですが、 いわゆる無神論というと、これを人間の力のみで生み出している可能性ととらえるわけですから、べつに神にとっても社会の正しい進歩にとってもどうでもいい理論ですから、それはそう考えたい人の自由でいいのですけど、あくまで半欠けの理屈と私には思えるということにすぎません。   有神論と無神論が、同じ信仰とう形のものとなるとは思えないということなのですが? 無神論のことは、私の方からは論じる必要は感じませんが。どうなのでしょう?   感性が深くなれば必然として有神論となるし、論というよりそれが自然に感じられるようになるし、 それでいい問題だという意味で喧嘩する必要なんてどこにも無いというのが私のそのへんの考えということなのです。 また、このように考えならば、 理性信仰?に陥る危険は、経験から出発しても無いと思うのですが、どうでしょうか? 神はすばらしい理性を私たちに与えてくださっていると思いますが、だからといって、私たちの脳は偏在知に近づくこともできませんし、時間を考慮に入れなければ、A地点からB地点への旅はかならず可能だという理論ならば成り立つのかもしれなくても、なんでも出来るということは絶対にありえないということを知ることも この理性にはできるようになっていると私は思います。 経験から 海の香りをうっすらとでも知る理性を 私たちという命の存在はすでに贈り物として贈られているという考えです。 A,その命(存在)を もし理性で考えた使命で捨てたとしたら、たぶん、その使命とやらは、理性信仰の疑いあり、となるのかもしれません。 あやしいです(^^)笑えますが。 Bは、同じです。 おのれの生涯をかけた使命、 だからといって、すこしでもキリストに近くなければ 純粋な感性からの自然なものでないなら、答えは知れてなんかいない。 存在そのものなんてと言えない。  あれ? わたしはキリスト者なのですか?(^^)。 たぶん、ただ当たり前に、キリストの愛を考えたら 自分ってなんて小さいのだと思えてるだけのことだと思ってるのですが… それでいいのではないでしょうか? 理屈にはなってないのかもしれませんが、 これが信仰ならば、これ自体相対的なものであり、そして、経験の進化により発見し、感動し、さらに深めてゆけるものと捉えられるように思えてしまうのですが。 経験が大事というよりも、経験の進化が大事なのだと思う。 と そこにもまた「感性教育」ということがどうしても出てくることになります。

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん こんばんは。  やはり No.41&42を まとめて ここから ご返事申し上げます。  キリスト論として ここまで 対話が進むとは 必ずしも 思っていませんでした。たのしいですし ありがたいですね。まづは ご回答をありがとうございます。  ★ あれ? わたしはキリスト者なのですか?(^^)。  ☆ たぶん そうだと思いますよ。〔絵文字をあまりよく知りません。 m(_ _)m 〕  今回 無神論の扱いを別にすれば すべて 分かりました。  こうだと思います。  信仰と経験思考とは 絶対と相対との問題だと思いますので そういう言葉を ここでは 用いることにします。そうしますと 相対性としてあるこの経験世界を超えたところを 絶対として想定するということなはづです。そうして 相対世界を絶対が超えているということは その絶対が 相対世界を包むという結果になるということだと思います。  つまり こうです。神は 経験世界を超えており 人間とは 絶対的な隔たりを持つという視点(α)が まづあります。この神は 人間とその世界を 絶対(または絶対者)として 今度は 包むと見る視点(β)が 帰結されます。  (β)の視点に立って 《人間があたかも神を見る / その背面を見る / 神を感じる》という或る種の《表象》のことが 語られてくるということだと考えます。  そうして おおむね arayata333さんは (β)の視点として 話をなさっていた。わたしは (α)の視点を――それが抜けていると しっかりとした理論にならないと思って―― 強調しようとしていました。  こういうことだったのではないでしょうか。だいぶ 文章の量をわづらわせ申して ごめんなさいませ。はっきりしたのではないでしょうか。  さて 補うところがありましたら そうしていただくようお願いして 次には  ★ 無神論のことは、私の方からは論じる必要は感じませんが。どうなのでしょう?  ☆ のほうに移ります。視点のちがいによるのかどうかですが。  ★  有神論と無神論が、同じ信仰という形のものとなるとは思えないということなのですが?  ☆ その理由として  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  もちろん、其の(* いわば 音楽にしろ何にしろ 神を感じるといった)可能性は神が私たちにすでに与えてくださってる贈り物です。  あるいはこれを存在の贈り物と言ってもいいですが、 いわゆる無神論というと、これを人間の力のみで生み出している可能性ととらえるわけですから、べつに神にとっても社会の正しい進歩にとってもどうでもいい理論ですから、それはそう考えたい人の自由でいいのですけど、あくまで半欠けの理屈と私には思えるということにすぎません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このとき わたしの考える無神論は こうです。  1.神を感じる可能性は かれらは 持ち合わせていない。  2.つまり 人間の存在やその能力については その存在にかんする単なる条件であるに過ぎないとする。  3.ただし 謙虚さは 持ち合わせている。つまり その可能性を排除することはできない。  4.なぜなら かれらは かれらも 《神を感じる可能性》こそ棄ててしまっているけれども 有神論者が《神》というところを 《無神ないし無》として 一度は その《絶対》の前に ひとり立った経験を持っているはづだ。  5.なぜなら 無神とこそ呼ぶけれども そのときにも それが この相対世界を超えた絶対の領域であると想定すること自体は 受け容れているはづだから。  6.つまり その《絶対との対面体験》は その一瞬のこととしてでも 持っており それは おおきくは 信仰体験である。  7.その無神論としての信仰は 言いかえると 有神論の神としては信じないと表明する信仰である。それは 経験思考を超えた絶対との関係なのだから 非思考として やはり 信仰なのである。  8.つまり このように 大きな意味での信仰を想定するなら 有神論と無神論とは むしろ 絶対体験という類型として同じであるのだから いわば兄弟関係に立っており その意味では けんかをする必要がないと考えられる。  9.この《論理教育》と並行して 《感性教育》に進んでいただくのは いかが?  ということになりますが いかがでしょうか。

その他の回答 (42)

回答No.43

ANO42でのbragelone様の補足コメントにても、わざわざ、おそらく同じ意味でもあるだろう(α)と(β)とを分けてでも 非思考への信仰という点を強調したかった気持ちが解ってきたように思えます。 また、無神論での信仰という事についてですが、私たちが「自分の力」で存在している存在ではなく、 与えられた命として存在しているという点は、何も神を想定しなくても事実として私たちの前の 非思考にならざるを得ない謎として立ちふさがっていて、  そのことの不思議さの前に謙虚であるという姿勢の根源となるような信仰は、それが人間性を求めての無神論であるならば持ってるはずだ。  たとえ、そのことに気がつかないでいたとしてさへ、其の知解が脳のどこかに刻まれているゆえに、彼らも極限までの人間性を示すことがあり、 其の地点での「信仰」は、 神への「信仰」と同じ価値を持つ。   と言った意味のものなのだろうと思いました。 それについてなら、心当たりがあるのですが、 私の知ってる人で、おそらく無心論者の方ですが、またそれこそ生粋の社会主義者の方であった方なのですが、其の方は、死ぬ前に戦争中の日本人のやってしまった残忍な行為を自分にも責任があることとして、 うわごとのように泣きあやまりながら死んでいったのです。  まるで、キリストみたいではないでしょうか?     そうした心の根拠には、かならず、人間の小ささへの自覚のようなものがそういう知性による「信仰」の世界がかならず合ったはずだというのならば、 そうした推理はたしかに言えるところかと思います。   農作物の出来不出来を農民ではないのに農民と同じ立場で心配してる姿は、宮沢賢治みたいですが、 ともかく自分の主義主張のために心配していたわけではないでしょう。   いつしか同じ大地に存在していた尊い命の仲間として 同じ人間の友として、やはり思考を超えて人間を信じていたのだと思います。   そこに知的、論理的な根拠もあるという点が、 それは感性の進化の必然だからなにも伝道するような必要性なんてないと思っていた私に それを,それこそなにもかもかなぐり捨てるようながむしゃらさででも、強調したかった理由なのだろうと思いました。 連綿とした生物としての命の連鎖の中に私たちの命はあり、私たちは生物でもあり脳の精神作用も生物としての作用の中に張り付いている状態で作用していますが、  同時に意識の主体である「私」という存在は であっても存在しなかった可能性が いわば無限でもある存在です。  だれもがそうですが、 ともかく「私」という存在は、 そういう思考不可能な謎にて、ここに存在してるわけです。  そのことへの気づきが 信仰の前に一人立つという そちらの荘厳な表現なのだと思いました。 そしてそのことを、>大きな意味での信仰を想定するなら 有神論と無神論とは むしろ 絶対体験という類型として同じであるのだから<と語っておられるのであるというのなら、 これはなんともすばらしい見解なのだとあらためて思いました。 その一点に、今回の質問の結論をめぐってこだわられてきたbragelone様の主張の魂の一端を垣間見せていただいた気持ちです。 哲学においては 教え教わる体験は相互的という論議が以前の論議の結論の一つとしてあったかと思います。 そして、教わって得たものがあったときには 其の時点の感謝の気持ちは必然という会話もあったかと思います。   今 私はあらためて、その一地点にいると思います。 ≪論理教育≫も こんな深い地点はみのがすな。 ほんとにそうだと思いました。   ほんとに見逃すところでした。  ここまで引っ張ってくださり、ありがとうございました。 なるほど、ここから、この力も得て、≪感性教育≫という専門の分野の方の回答へと進んでいこうと思います。 一方 この非思考への気づきの大切さへの論理の世界についてなのですが、 最近、あるこのサイトでの質疑のなかにて、 後から考えると納得のいかない哲学(アカデミックな世界での哲学)に突き当たり、 それがもしかしたら理性信仰の温床となり、はては哲学全体を 実際の物事の見とおしをつける総合的知性としての本来のパワーを失わせている巨大な原因となってはいないか? という哲学史への懐疑が新たに生まれていて、 もしかしたら、それが この「信仰」の論議と論理的に関わっているのかもしれないとも 思いました。 それは 観察しえないものは存在しないという唯我論とのこと、デカルトもそれの首謀者のようであったらしいこと、それが個の確立という大切な思考とどうやら結びついてきてしまった思想思索の流れが 哲学の歴史の中にはあるらしいこと、についてなのですが、 でも これがもし、こんな数世紀にもわたるような歴史をもった思索体系が絡んだ問題だというのなら、 一見簡単なようでいて、おそらく滅茶苦茶な複雑なことになっているのだろうと思います。     信仰や謙虚さと関わることとはいえ、 ここでの論議の延長の問題にしていいものかどうか 私の方からはなんともいえません。  私自身は この問題をそれなりに考えたり 機会があれば史料や資料を読んだりしていつか疑問を質問してみたいとも思いますが、ここは、これ以上ここで≪論理教育≫の世界に突っ込むつもりはありません。 ただ、bragelone様の追求されている質問は 時間の許す限り大勢の方の回答やそこでの質疑等 今までのものも読みつつ、 私も 解る範囲のことがありましたら、今後も回答等をつづけていってみたいと思っていますので、   再びのご教示等 よろしくおねがいいたします。 この時点の(哲学の)場では こちらがお礼する場となります。  ありがとうございました。

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん わざわざ ていねいに 文章にて表わす労を取ってくださって ありがとうございます。  これにて 日本晴れですね。多謝。非常感謝。  ★ デカルトから唯我論に到る精神主義ないし理性信仰の系譜  ☆ たしかに――じつは 何を隠そう わたしも 最近知ったのですが―― 根強く広がっている現象であるようです。《論理的に他者と議論をするという意味では開かれた 鎖国政策》のごとくです。そしてじつは わたしは 質問しています。  《QNo.4257994 :永井均の独我論はいったい何を言おうとしているのですか =http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4257994.html》  《QNo.4232249 :デカルトの良さをおしえてください。 =http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4232249.html》  前者が一つ 後者が二つの回答ですので ちらっとごらんになってみると よいと思います。  この課題で 一点 つけ加えるとすれば ヰ゛トゲンシュタインという哲学者の思想が 注目となっているようなのですが 解説書を読んだ限りでは 留意すべきことがらもあるようなのです。  じつは arayata333さんが 《絶対個》という概念で 人間存在の一人ひとりについての掛け替えの無さを指摘なさっているごとく そういう意味も 《唯我・独我》には あるようなのです。デカルトも 存在じたいの貴さを言う基礎には立つとも見られるわけです。その点 扱うには ややこしいものを感じます。  (わたしは その昔 ヰ゛トゲンシュタインを読み始めたとき これは 一体 何のこっちゃというわけで 途中で放棄した過去があるのです。最近では 永井均の解説書をひととおり読んで 原典に進もうとまでの強い誘いは受けなかったのでした)。  もう一点として やはり  ◆ ブッディスム  ☆ が 依然として 問題であるのではないでしょうか。信仰類型としての位置づけにおいて きわめて あいまいです。その意味では 唯我論と似ているところがあって いわば《情の世界に限っては開かれた 鎖国政策》であるように映ります。  ま いづれも ぼちぼち まいりましょう。  この質問は もう少し開いておきます。  最後になりますが 過分のお褒めの言葉をいただき 言葉をなくしたようになりましたが こうして ふたたび 澄まして 述べることができました。ありがとうございました。  熟田津(にきたつ)に   船乗りせむと 月待てば  潮も かなひぬ  今は 漕ぎ出でな   (額田王 : 万葉集・巻一 8番歌)

回答No.41

ANO40からANO39へと逆に書く形となっていますbragelone様のコメントに関して、  哲学という厳密な理論を通過して考える思索の世界にとっては、おそらく重要なのでは(無学なものですので推理ですが)と思われる「神」とか「信仰」の問題が、  “存在している存在への謙虚さ”という形で私の中では簡単に済ましてしまっているところにて、食い違っているようですので、 再び 回答の筆を伸ばしてみることにしました。 おそらく最初のbragelone様の質問への回答の「とある結論」に関しての「謙虚さ」の必要という点では すでに私たちの間では一致してると思うのですが、 その「謙虚」さには、イ、非思考の部分が必要、ロ、経験を超えた存在へ信仰が必要、ハ、「なぞ」への畏怖が必要、 ニ、「表象しえない存在/捉ええない」への信仰は必須との、 4つの説明のしかたで たぶん、神への信仰は必須ということを述べられていて、  そのへんには、たしかに私の中での考えとの「ずれ」があるかと思います。 とくに「捉ええない」という言葉については疑問点となってしまいます? そこで、 私の中でそれが自然と感じる「神」や「信仰」についての考えを ここにまず書いてみます。  欠陥とかがあったら指摘してください。 「神」とは、私の中ではこんな感じで捉えられている存在です。 宇宙という何億光年の先の先まである物質の存在への驚きの前に、存在そのもの、特に人間という生命の主体の存在に関しての驚きの方が私の中では大きいのですが、  それはまず、こんな感じです。  私というまとまりを持った記憶意識体の主体が確かに「ここに」存在しているこの事実は、 其の命の長短に関わらず、その生物の生涯という時間内にてかはともあれ、 もしかしたらまったく同じ体つきの別な人間が同じ母親から生まれた可能性(ここでは経験による絶対個という概念は含めないで考えておいたほうがわかりやすいと思いますが)が在るというふうに考えれば、  未来永劫、過去幾百億光年以前からも、宇宙のはてのはてを探しても他には存在しないこの主体の存在は、 確かに       いなかったかもしれない存在! という存在なんです。 この事への驚きはあまりにも不思議とも言えます。  このことならば、考えようが無いといった意味で確かに、まず一つ、非思考になってしまう世界です。 だからと言って、そこにすぐに神が私たちを創ったとか そういう魂を創ったとかいうふうに短絡して考えるという感じには私の場合ならないところがあります。 意味の存在、 意義の存在、価値の存在という 深いとしか言いようのない経験からの感性の深まりを経て、始めて、  人間が存在して始めてそう言える感性が育ち始めたとはいえ、 それ以前の連綿とした宇宙のここまでの流れに対して、  それは物質(自然)だけなのだろうか? という疑問が生じます。 ただの火と どろどろと溶けた岩と乾ききった砂、 水という特殊な物質すら、すぐ蒸発してしまったり、ほとんど無いという星たちの世界、 それだけなら、たしかにそのまま永劫にわたって 意味なんかこの「「存在」」には存在しなかったわけです。 簡単に論理を進めますが、 では、神がそういう星たちや 何億光年の空間を創り、そこにやがて水の星が出来るように仕組んだのかというと、「そうなのかもしれなくても」 物質自体は、ビックバンもなにも、最初から在った存在としか私には考えらませんし、 では物資だけだったのかというと これも超自然(超物質)の 生物に張り付いていない「知情意(その性格は、人間と同じではなくても 私たちはそれが存在するならばどういう知情意からは推理できるようにはなっている。)」も 同時に最初から存在していたに決まっている。  いやそう考えるのがごく自然なのでは、というだけでも別にかまわないとことだと思うのですが、 まず、どうなのでしょう。  このへんは、簡単に考えすぎなのでしょうか?  私には単にそうとしか考えようがないのですが? そして、その超自然なる神というのは、あくまですべてにおいてその知情意(ほんとうは意というのは生物特有のものという理論のほうが精密だと思うのですが、聞きなれた言葉ですので、こう書いています。)人間をはるかに越えているに決まっていますが、 この「知」の性格というのが一つには問題です。ですが、ここをここでは省いてこの論文を進めます。ここで重要なのは「情」だからなのです。 超自然という概念は私たちにはなじみがなくて、考えがたいでしょうが、「意味」の存在を哲学 あるいは深く考えたら それが自然な考えであることがわかってくると思うのですが、  これは確かに表象では捉えられない世界、五感では直接捉えられない性格の存在と言えます。 bragelone様、これではまだそのへんの考えが足りないでしょうか? 「表象」についてです。 「知」について私たちが推理できるのは、偏在している知といった感じの推理以上にはたぶんそれこそ非思考となるわけでしょうが、 偏在知自体、私たちがまったく追いつけないような知であることを意味します。 そこだけともかく抑えておいてください。 たしかに経験を超えた知ですが、その性格をしっかり捕らえておく必要はあると思います。抑えて置けるようになっているのですから。 つまり、捉えられる部分はあるとい考えです。 というよりそうとしか考えられないのですが? 「知」だけでは、私たちは神の存在を 発見(確信というほうが正確なのでしょうが、これだと信じたいから信じるといったあやふやな使いかが紛れ込むと思う。 正しく使えてない言葉だと感じるので、ここでの言いたいことが伝わらなくなってしまいます。)することはできないはずです。 価値を感じることは、「知」だけでは不可能だと思うからです、「意味」を感じることは不可能だと思うからです。 そうしたら、物質以外の存在への信仰とかも どうせ意味ないでしょ? ((すみません、やはり紙数が足りそうに無く ANO42へつづけます。))

noname#80116
質問者

補足

 No.42を補います。ただし あらたな内容はありません。言葉を足しておくと 分かりやすいと思われる点だけです。  ★★ (ANo.42)~~~~~~~~~~~~~~~~~~  A,その命(存在)を もし理性で考えた使命で捨てたとしたら、たぶん、その使命とやらは、理性信仰の疑いあり、となるのかもしれません。 あやしいです(^^)笑えますが。  Bは、同じです。 おのれの生涯をかけた使命、 だからといって、すこしでもキリスト(* 神・絶対)に近くなければ 純粋な感性からの自然なものでないなら、答えは知れてなんかいない。 存在そのものなんてと言えない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この表明は いわば消極法での説明ですが これで 結論だとわたしも 思います。  そのもとに いくらか くどいようにつけ加えます。  (1) 《表象し得ぬもの》と《表象しうるものの世界》などをめぐる概念の整理です。  (a) 《相対》を超える《絶対》という想定が 初めにくる。  (b) この概念を 擬人化すると 《絶対者》となる。  (c) 一般に 《神》と呼ばれる。それに対応する各民族の言葉で それぞれ呼ばれる。  (d) 《ヤハウェー Yahweh 》は 意味として 《わたしは有る Ehweh》(《在りて在る者》とも訳される)というように 《存在》にかかわっている。一説に 《存在せしめるもの》と言う。  (e) この擬人法の表現から さらに 飛躍して 《一切のものの創造主》という説明表現が生まれた。これらは 《絶対》のことを そのものとしてではなく その代理として・また喩えとして 説明した表現である。なにしろ 人間の表現・表象を超えているのだから。  (f) 相対世界を超えるということは その超越者が 相対世界を包むという捉え方を促す。神は この経験世界を包摂し その摂理であるという代理説明につながる。  (g) 神は 霊(つまり 《なぞ》のもの・あるいは 《ものの怪》?)であり この霊として 人間や生物や非生物その他あらゆるものに 宿るという説明に発展する。霊(ひょっとして 《仏性》?)の普遍性また遍在という説明としての 人間の受容のかたち。  (h) (f)までが 《知》による想定とその推理展開であり (g)が 《情》にかかわっている。《意》は この《霊》が はたらきとして 《愛》(ひょっとして 《慈悲》?)であると受けとめられたところにかかわっている。  (2) ところが 無神論は こう言います。  (i) 《絶対》が 神として 世界を蔽い 霊として 世界に遍在し 愛として はたらくなどというのは しゃらくさい。すべては 自然現象と人間の行為および社会現象である。と。  (j) ただし 最初の(a)としての《絶対との直面体験》じたいについては だれも 否定も拒否もできないはづである。  (k) 有神論者が   ▲ ~~~( コリント前書4:7)~~~~~~~~~  いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と言うところを 一方で 最初の《絶対という体験における畏怖とおのれの存在としての謙虚さ》は認めるが 他方で 《人間の持つ能力は ただ単に 無根拠に備えられたそういう存在の条件であるに過ぎない》と見なすらしい。  (l) じつは 《無根拠》と《霊》とは 《なぞ》において 共通していると考えられる。  こういったところですが いかがでしょうか。   (それにしても ブッディスムは この信仰類型なる理論と そこにおける己れの位置づけについて まだまだ あいまいだと思います。おおざっぱには 有神論と無神論と 両方があるようです)。

回答No.40

ANO39のつづきです。 ↓   私の場合は、私の考えというより感じではということなのですが、 キリストも仏陀も人間としての精神の究極の可能性をその昔に(たぶん、森に住んでいた人間が文明を得たばかりの頃に、人間の歴史を達観した人達の中でもとてつもなく秀でた人達の姿として)実現した方々というふうに かなりリアルに想像しているので、(たとえば、キリストの場合、もう十字架上で意識がもうろうとしている中で「あたたの罪は許された、なぜならあなたは何も知らないのだから」でしたか、 あの理論明晰な方が、気持ちだけで論理を語ってる姿に、 これはもう こんな姿の前には精神的な意味でですがひれ伏すしかない、どんな本とかとも別格じゃん、聖書は聖書だ、 たしかに福音書だ、 といった生々しい受け取りかたをしているものですので) 信仰というより、頭で考える推理上での信頼という感じのものです。 羊飼いの例えも、 高校生の時に読んでいるわけですが、これも、私の場合は、知能指数は低いしかも当時は人生にかんしても未熟なほんとにただの青二才だったのですが、  これをキリスト教の選民主義につながるような読み方は一切していませんでした。 あくまで 愛によってということだと思いますが それまでの立法は未完成であり(中途半端ではかえっておかしなことにもなりかねない)立法の完成者はキリスト(私)であり、 それは愛の法であり、  その愛へ法の道という門をくぐるかどうかを問うている言葉として受け取っています。 ファリサイ派というのは、 別な箇所でたしか その司祭たちの偽善、 キリストにとって無限に尊い「存在」を教える役割を持ってるはずの司祭の形にてただのお金儲けに走ってる人達(ちょうどそれがファリサイ派の司祭だった)として、 そこで始めて言葉を捨てて ムチと鎖とで怒りを表現してみせた、という箇所でも、新約聖書に出ていますよね。 この箇所も、当時は 正義感の一つとして読み流した程度でしたが、 今では、まるで親や教師が 泣いて子供の成長のためにひっぱたいてる姿を連想します。もちろん、そのさらに深い、どうしようもないような悲しみとかの心を連想します。  つまり経験や経験を生かしての想像力や その努力の世界からも、充分、人は謙虚さというものは 徐々にではあってもつかんでゆけるものと考えます。 武士道についても 最高度の厳しい道徳の裏に、「惻隠の情」という寛大な姿勢もあったりして、へたな無理をまだ其の用意ができていないレベルの人にたいして強制的な上からの「べき」にしたりはしていません。   隠れた心理にまで寄り添うようにして 其の人その人の 心のひだにまで合わせるという優しさや寛大さも同時にバランス感覚として持っていたりします。 (そうではない場合とか、それは人間ですのでいろいろ考えられますが、 そちらの言葉を借りて言えば 「上げ底」で書くならそうなるということです。 私自身が実は、合気道の発祥の地にて あるすばらしい方の話を聞いていたりします。 もっと詳しく語りたいところなのですが、 ともかく、生死をくぐるような地にての先人の知恵、経験の世界は深いです。) しかし、信仰の価値についてなのですが、  『終わりから考える』という点については、 興味を惹かれます。 川は、小さな川も 濁流も、大きな河も、やがて海という「終わり」なる「母なる大海」に流れていきます。 でも、 その川や河を人生に例えると、その流れの中の私たち、水の分子あたりの小さな存在は、 海なんかとても見えません。  流れがどこへ行くのかも見えないのですが その暗い視野からは、水のよどみとその死(蒸発)は見えてるのかもしれません。  いや、それでさへ やがて再び雲となった死んだ水も また森から川(河)として つまり人生に生まれるならば、 それは母なる海へ向かうとまで、 その母なる人間のふるさとを、心のふるさとを 彼ら(キリストや仏陀)は語ってくれた。  それは それ自体 私たち人間の知性に希望という名の光を与えてくれる、いや知だけではない 知情意すべてを照らす、いや踊らすような何かでありえる。  bragelone様は 「実際 それを感じた。」その何かを ということなのでしょうか? じっさいそれを感じた、ということなら これも知的経験ですけど、それなら私にもたぶん理解できると思います。  バッハはその証明者の一人です。 いや おそらく西洋のクラシック音楽の名曲はすべて、その希望の実際の感性の 証明です。 希望こそ 私たちにとっての信仰なのではないでしょうか?   それとも信仰とは、絶対的な何かの論理としてありえるものですか? そして、それならば、たぶん私の場合も、 信仰と経験からの「一歩、一歩」の両方があると自分について思っていますが、 信仰の方はまだまだまだまだ 浅いという気がしています。また、それは経験がまだまだまだまだ未熟だからだというふうにも自分の中ではつながってしまいます。 経験論とかいうアカデミックな哲学の歴史があるようなのですが、 その結論はどうなっているのでしょうか?  私には経験から生まれてその謎の思索の発展として育った思索以外の「価値ある思索」というものは、考えがたいのですが、哲学史ではまだ そのへんも問題視されてるのでしょうか?  信仰も 価値ある信仰ということなら経験の奥に生まれるものと思います。 そんな感じの考えなのですが、 私の方からは一応 これをもってここでの回答とさせていただきます。  もちろん、回答への疑問とかで補足が合った場合とか、  別な論議が持ち上がってそこにも参加したくなったときとかは別ですが、  はやくまちがった現代芸術界に毒麦の粉の入った矢を放っておきたくなりましたので(^^)(残酷にも笑ってる?)、 一応回答の場を私自身は そちらへと移していきたいと思います。

noname#80116
質問者

お礼

 ちなみに 《経験論》は 一方で 《いと高きところへの畏れ》を失うかどうかにかかわり 他方では 因果関係の解明をどこまで成し遂げるのかにかかわるのではないでしょうか。単純には そうですよね。  このように整理して 一点 醒めまくってみたいところは  ★ 私たちなりに、どこまで無心に真心からの他の命への愛情を持っているか  ☆ これをめぐってです。この愛が わたしの場合には 人間には=つまりわたしには 無理である という認識が 考え方の上で 先行しているという点です。その上で あくまで その上で 努力するという意味です。  ですから おまけをつけるなら 信仰の力によって 時として 実現する という意味です。  果たして いかがでしょうか。  取り上げ残した事項などがありましたら ほかの欄にて 述べてまいります。

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん No.39&40のご回答に対して まとめて ここからご返事を書いてまいります。  もっともっときびしいご批判を覚悟していたのですが とは言うものの あたかもわたしのように 一たんはぐくみ温めたあと 批判に及ぶというご魂胆であるかも知れませんが――まぁ 冗談が出るようになりましたが―― ご回答をありがとうございます。  いくつかの事項・論点について おおよそ共通の見解に達したと思われるものについては もう触れずに終わるかと思います。  結論事項から 取り上げてまいります。  ★☆ (α)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  存在と存在理由との関係を考えるに当たって   しかも両者の一致するというような生き方をめぐっては  変な言い方だが 扱っているのは あくまで 生きるという経験行為である。しかも そうであるにもかかわらず   あたかもその経験行為の次元を超えたところに想定される《非思考なる信仰》の領域が どうしても からんで来るのではないか。   そのあとに――時間的なあとにではなく 考え方の上で あとに―― しかるべき経験思考によって 対話を敢行し 経験行為において 互いの和解を見つつ 社会生活をゆたかにしていこう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このように仮構したこれらの非経験と経験とのふたつの次元の仕組みは たしかに 次のように要約するかたちで すでにおっしゃっているとも思うのです。  ★☆ (β)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  大自然の神秘や人間存在の謎をみつめて われらは 畏れを抱く。   その意味で わが身には 謙虚さのあることをとうとぶ。   したがって この謙虚さが 広く互いの人間関係にも とうぜんの如く あてはまるものでありたい。  みづからにきびしく ひとには やさしく。  しかも 世間のあり方に批判がないわけではない。われらは 鳩のようにおとなしく 蛇のごとくかしこく あらまほしきかな。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわちさらに確認しておくならば  ★ 私たちなりに、どこまで無心に真心からの他の命への愛情を持っているかどうか  ★ また其の上にて、さらに二重の結論として、意志(自由意志とも関わることでしょうが、この面は略しています。)の世界 道徳の世界  ★ 武士道についても 最高度の厳しい道徳の裏に、「惻隠の情」という寛大な姿勢もあったりして  ☆ というところなのですが そうなのですが 一点 そこにも わたしなりの醒めた眼を とどかせたいという野心を持ちます。  人間の持つ《信仰》の類型には ふたつあります。有神論と無神論とです。(有神論の神が さらに 名前の違いで 分かれる点は ここでは触れません。無神論の場合にも 人それぞれに 具体的な生活態度としては 多少とも 分かれてくるのと 同じだろうと考えます)。   有神論の場合には 《神秘やなぞ》が もろに その神への畏れとなって現われます。言いかえると 自由意志による努力には限界がある。そのことを認めるという意味です。つまり とりもなおさず 自他の生命存在に対する《愛》は 人間の努力だけでは 実現が無理だという認識のことです。  無神論の場合には 《無神なる神》の前に ひとり たたずむ経験を 一度は 持ったあと あとは その《謎や 畏れ》を 人間どうしの《謙虚さや つつしみ深さや はぢの心》として 表わすのであろうと思われます。  そうして いづれの場合にも もし 初源の畏れを忘れたときには 人間の精神・理性またそのあらゆる能力に 信頼をおくようになるのだろうと考えます。  その例として たとえば こういう場合が考えられます。  世の中は 縁起の関係で成り立つ。個人個人の自由意志による行為に発しているのだが 自然界とのかかわりをも容れて それら人間の行為の社会的な過程・また歴史的な重層構造として 成り立つ。この因果関係を 経済という切り口からも 倫理という側面からも その他からも そのあらゆる事実を解明しようという発想とその姿勢のことです。人間は 有能です。そこまで《飛躍》するかも知れません。  その一つの現われとして 先日から話題に上っている《計画管理経済》の問題がありますし または けっきょく最後までは解明などしないのだけれど 縁起関係こそが 世界の真相であり これを あるがままに 見るのが 空観であると それだけを主張していれば 事足れりとする立ち場の問題があります。

回答No.39

ANO27、31、32、34、35、36、とお邪魔していますarayata333ですが、 信仰という概念が問題となっているようですので、残りそれだけ私なりの補足回答をして、 私の方ではbragolone様の次の質問「現代芸術における表現形式はどうなっているか」というタイトルの質問の方に回答していきたいと思っています。  結局私の方からは精神の相対性理論(物理や数学をまったく知らない者ですので意味がぜんぜん違うとは思いますが(ーー);)にて二重に結論を出しているところ、  これもまた、ではどうすれば、 かけがえのない個や命への『感性の進化とか教育』とかいう点を抜かしては結局結論は ここまでとなってしまうと思えるので、 わたしとしては それ抜きには、どうせっここでとまってしまうようにも思えてしまうのです。 信仰もまた 真の芸術というものがあるのなら 其の中でとらえるべきものというふうに、知性を働かせるべき時代が来ているのではないかと私は思います。 * 「弱さ」という主題をとりあげるために、 私自身の事について触れるべく身体障害者と あまりにも簡単に比較して書いてしまったことを 失敗だったと思っています。  確かに私の指自体は、労働者の指でありつつ今でも83歳の母よりも劣る力しかありません。 でもまずこれは他の部分でおぎないやすくもある場所ですし、 こうした微妙な身体欠陥はたしかに克服するまでには 想像しがたいようなさまざまな問題とぶちあたることもあるとはいえ、 その過程を越えてしまえば、たいていはむしろ大きな力にもいろいろと変わりえる問題にすぎません。  常識的に言っても実際の「いわゆる健常者でないかたがた」の苦痛のほうがはるかに大きいともいえる世界、そのへんが言葉たらずであったので補足させていただきました。 (私自身も いろいろな「弱さゆえの体験」をしています。ということの一表現をしておきたかっただけなのです。 ですので、これはこれで小さな問題ではないですが、 この質問とは別の問題として考えます。) * 「サタン・地獄」うんぬんについても、それもまた「人間の弱さから 悪を規制するための方便として生まれてしまった物語」というあたりにて、すこしは この主題とつながるかとも思いますが、  あくまで「修道院問題」にてのある補足説明のようなこちらからの表現にて、書いたものです。 感謝の心自体は、使命感の情や意志においても その進化への道においてアルファでありオメガであるほど大切なもの、ということで「母親の例」の場合のそのへんの心の内側を思索してみた時点にて、一応すでにまとまった論議としておきたいところです。 ****** しかし、 一つの結論として、私のほうから書いてみましたところの「神のような存在や仏陀のような感性」の方における命を命のために捨てるというのと、 私たちの場合とは 別に謙虚な心で捕らえる必要があるという点と、私たちなりに、どこまで無心に真心からの他の命への愛情を持っているかどうかというあたりが、 一つの「どちらが大切か」を越える基準ではないか。 という考えをお互いの議論の流れの中で提示する形となっていたかと思うのですが、  また其の上にて、さらに二重の結論として、意志(自由意志とも関わることでしょうが、この面は略しています。)の世界 道徳の世界の必要からも、それは大事なのだけど、 そこにも謙虚さが必要。というのが私のほうからの回答の趣旨としてまとまっていたかと思うところなのですが、 今回、bragelone様の方からは、 この最後の二重結論に共通の謙虚さの保持に必要な要素として “「表象しえぬ存在」への信仰” という形で、ともかく信仰がそのためには必要ではないか? という意味だと思われる設問がコメントされているように思えたのですが、 そのように受け取ってよろしいでしょうか。 しかし、私自身は、そちらの信仰というものの定義がよく解らないために、そう思うのかもしれないのですが、 自分よりもすぐれた存在への謙虚さとか まだまだ可能性があるということへの存在への信頼とかで、 この二重の結論の答え自体は成り立つとは思うものなのです。 無神論の中の「表象しえぬもの」ということの意味内容も想像がつかないところなので その辺は知りたくもありますが、また 「表象」という言葉自体私の場合は演劇論の中で知った言葉で、そこから考えてる食い違いとかあるのかなとも思えますが、 これもbragelone様の次の質問への私の回答のテーマの一つとなりそうですので、 そこに話を移していかせてください。 私自身の考える信仰という概念からは 次のような回答が生まれると思えます。  ふたたび、紙数の関係で 次の回答欄につなげますが、今回は、それをもって私のほうからの一応の回答としたいと思います。(今回の回答の最初に書きました、上記の理由からです。)

noname#80116
質問者

補足

 No.40で触れ得ずじまいだったところを補います。  まづ 基本姿勢を 何度も 確認します。非思考と経験思考との二本立てです。あるいは 非思考は 経験思考を超えていますから 次元の入り組む構造的な歩みです。言いかえると 信仰と対話です。  対話や経験行為において 信仰は 背景へとしりぞきます。もう顔を出して来ないことが 信仰が生きているということだと考えますが その重要性をないがしろにすることは出来ないとも考えたのでした。  もし信仰として なぞの何ものかに対する畏れのもとに 人間はその能力が有限であり可変的であると知ることが失われるならば どうなるか。それは この世界のあらゆることについて すべてが思考によって認識し 表象し得ると考え 表象し得たなら その象(かたち)に従って すべて 実現し得るという考えにみちびかれます。クローン人間も 作られていきます。(科学の進展を 阻むためではなく そうではなく 人間存在について しっかりとした共通の考えを持つことが 優先すると考えます)。  前回までにおいて わたしは この基本姿勢について 信仰の次元が どうしても 必要だと思ったこと これを くどいように 言おうとしていました。また 同じ基本姿勢について 対話と経験思考の次元では arayata333さんは さらに《『感性の進化とか教育』》を挙げておられるという情況です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  結局私の方からは精神の相対性理論にて二重に結論を出しているところ、  これもまた、ではどうすれば、 かけがえのない個や命への『感性の進化とか教育』とかいう点を抜かしては結局結論は ここまでとなってしまうと思えるので、 わたしとしては それ抜きには、どうせっここでとまってしまうようにも思えてしまうのです。   信仰もまた 真の芸術というものがあるのなら 其の中でとらえるべきものというふうに、知性を働かせるべき時代が来ているのではないかと私は思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こういう恰好だと思います。この際 しかもなお なおくだくだしく さらに細かく細かく 言葉を補うとしますと どうなるでしょうか。  ★ キリストも仏陀も人間としての精神の究極の可能性をその昔に(たぶん、森に住んでいた人間が文明を得たばかりの頃に、人間の歴史を達観した人達の中でもとてつもなく秀でた人達の姿として)実現した方々というふうに かなりリアルに想像しているので・・・  ☆ という《想像》ないし《表象》を 超えているということ このことを――それこそ地獄の閻魔さんも顔負けの鬼も鬼 不遜・傲慢・鉄面皮・はぢ知らず・人類最大のいぢ悪人間となって―― 添えたいと思うところです。(ブッダについては ブッダの徒に聞かねばなりません)。無神論の信仰というのは このキリストのところに《無神ないし無》を持ってくるだけだと思います。――この手を休めません。  ★  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  私たち人間の知性に希望という名の光を与えてくれる、いや知だけではない 知情意すべてを照らす、いや踊らすような何か・・・   じっさいそれを感じた、ということなら これも知的経験ですけど、それなら私にもたぶん理解できると思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《感じる / 知的経験》 これも 《表象》を伴ないます。表象を伴なうということは その《なぞの何ものか》を 人間の精神や理性で《捉え得た》ということです。その神なら神を 精神の領域に従属させ得たということです。それが 表象し得たことです。理性信仰に陥らないでしょうか?  その大前提つまり《表象し得ない / 捉え得ない》を失わなければ わたしも その調べを耳にして  ★ バッハはその〔* 何ものかへの信仰の〕証明者の一人です。   ☆ と思います。問題は たとえば なぜ どのような意志において イエスは 十字架に就いたかです。解釈は 贖罪あるいは実は 命を豊かに与えるなどとしてあると思いますが――この後者が 正解だとわたしは思っていますが―― イエスは どうだったかです。わたしの現在の答えは かれは 勝手に十字架上の死に就いた です。  われわれが 自分のために あるいは 人類の罪のために だと考えるのは それはそれでいいのでしょうが 問題は かれが そんなことを思って もしくは そのことを伝えたいために 木に上ったのではない ということです。もしそんな意図があったのなら 押しつけがましいキリスト像が得られます。大きなお世話だということになります。  こうではないでしょうか? 存在と存在理由との関係の問題だと思うのですが。

回答No.38

補足有難う御座います。存在は必要とされるから存存在する。靴が有るから靴べらが有るであり、靴べらが有るから靴が存在するは存在順番が逆になると思います。お互いに補完関係でありますが靴の存在が理由で靴べらが存在する。絶対的でないにしろ時間的な順番が絡んでくるような気がします。アジア諸国では小さな子供が働いて親の面倒を見るケースも有りますが、基本的に親と子の関係は、たまたま親の方が早く成人していて(当たり前か)面倒を見る事が出来るから面度を見る。警察官も大部分の職務に忠実な方は殉職する可能性も高く、単に仕事と考える警察官は殉職しそうな場面で躊躇するでしょうね、つまり職務その物が存在理由で職務に忠実な方は存在理由に忠実な方でしょうか。多少の順番の前後違いは有ると思いますが、存在理由とは 存在を守るため と言より<光と影>そんな気がします。光と影はお互いに補完関係ですが、やはり光が有るから影がある。影が有るから光が有ると言うのどうかなーと思います。私は存在理由無く存在する物の頂点は、可能性としての話ですがやはり宇宙かなーと思います。宇宙の存在理由は解明できたらノーベル賞ですね。存在理由が有るのか、無いのに存在しているのか???宗教で言う神は、人が創造した、存在してほしい思う理想の存在。つまり存在してほしいと言う理由による、存在と思います。

noname#80116
質問者

お礼

 iwilldobesさん 何だか 楽しくなる――と言っては 失礼な言い方ですが――ご回答をありがとうございます。  ★ 宇宙  ☆ これは わたしも分かりません。歯が立ちません。  ★ 神  ☆ については いま 議論の真っ最中でもあります。  ★ 靴と靴べら / 光と影  ☆ そう言われると 必ずしも 存在理由のほうに傾いたお考えでもないようなのですね。  ★ 警察官も大部分の職務に忠実な方は殉職する可能性も高く、単に仕事と考える警察官は殉職しそうな場面で躊躇するでしょうね、つまり職務その物が存在理由で職務に忠実な方は存在理由に忠実な方でしょうか。  ☆ これも 微笑ましい感じを受けます。なるほどとも思います。たしかに そうですよね。割りが合わないかも知れないとしたら もっと根本の社会悪について 少しは 考えていけるといいと思います。  ★★ 自由と平等どちらが大切か、同時に存在することは可能か(ANo.37)  ☆ こんな大事な問題を 前回 触れ得ずに終わってしまいました。  ▼▼~~~~No.34補足欄~~~~~~~~~~~~  人間が欲するままに生きること が真実となるであろう。  なぜなら かれは・・・悪しく生きることを欲しないし また欠如するであろうものを欲しないし さらに欲するものは欠如しないであろうからである。  愛されるであろうものはすべて現在するであろう。現在しないものは欲求されないであろう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち こういう仮構においては 《自由と平等》が 互いに両者が一致してのごとく 実現しています。という夢が描かれても来たのですが どうですかねぇ? それは とりもなおさず 《存在と存在理由とが 互いに 一致した状態であり 社会の情況である》と推し測られます。  まぁ 夢物語なのですが こういう話は お呼びでないですか? (独り言のようでもありますから 無理に回答されなくても だいじょうぶです。関心がお有りでしたら ちょっと頭の片隅にでも置いておかれたら よろしいかと存じます)。

回答No.37

@@存在と存在理由はお互いが補完関係にあり単体で存在しないと考えるのが自然でこの観点からはどちらが大切といえない様な気がします。@@恐らく存在理由が有るから存在して、存在しているから存在理由がある。順番で言えば存在理由があるから存在すると言うのが順当なような気がします。存在理由無く存在するのは科学的にな例えでいえば、何故宇宙は存在するのか、と言う問に似ており存在理由無く存在する物は有るのか無いのか今後の今後の化学で解明していくのでしょうか?判り図らい回答で申し訳御座いません。関係無いですが、自由と平等どちらが大切か、同時に存在することは可能かと言う問に良く似ていると思います。標語を作った人が同時に存在し得ない物を並べて後世の人を欺いて笑っているようなそんな気がします。

noname#80116
質問者

補足

 iwilldobesさん ご回答をありがとうございます。  そうですね。この質問は 《QNo.4291837 :人は何のために生きているのか? =http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4291837.html》なる質問に回答を寄せたとき 反応がなかったので 別個に立てたものです。視点や焦点は ちがうかたちにしています。  iwilldobesさんの回答内容は いくらか 希少なものです。これまでの回答の中にも 存在と存在理由とは 互いに一組となっているというものがありましたが それでも どちらかと言えば 存在のほうに 重心があるというものでしたから。  存在理由のほうに重点があるということですよね。  その根拠ですが それは そうでない場合が  ★ 何故宇宙は存在するのか  ☆ のような問い つまり 自然科学のものごとには あるかも知れないが このように存在理由を問うたり抱いたりする生物である人間には あてはまらないのではないか こういう恰好だと受け取りました。  ううーん。そうですねぇ。  上の質問《人は何のために生きているのか?》に対しても 際立って これだという理由を示した回答がなかったのですよ。  ★ 存在理由があるから存在すると言うのが順当なような気がします。  ☆ とおっしゃるその根拠だとか事例だとかについては じゃあ どう考えておられますか。これまで ここで挙がった例は 親が子を守るや警官の殉職などであって けっきょく つきつめていくと こうなります。  つまり それらの存在理由とは 存在を守るため なのです。と言っても 親や警察官の献身振りは いちいち その存在理由を考えて 行動しているわけではないとも 指摘されています。  質問趣旨の中の《B》が 現実に起こる場合はあるが それは 頭で考えて そうなるのではないという意味だと思います。言ってみれば 意識するべきような存在理由を超えて 存在が 身を賭して 存在を護るときがある そういう場合ならある というものです。  このところでは そこから議論は 少し 飛躍して来ています。献身的な行動が 多少でも 犠牲という意味合いをともなうとすれば それは 避けるべきであり この犠牲すらなくて済むように 社会自体としても 存在もしくは存在理由を考えていこうという段階に来ています。  生まれてきたこと 人間存在としてあること このこと自体で もはやじゅうぶん わたしは 恵まれている。その感謝を 一生かかっても 尽くしつつ 生きたい。こういう存在と存在理由のことも 提出しています。  そうして ちょうど iwilldobesさんたちが 存在とその理由とが 一組のものであるという見方を提出されたように この両者の一致 このことも 問い求めているところです。これは どちらかと言えば 《B》のごとく 存在理由を重視する立ち場ですが いま言ったように あくまで 両者の一致を見るという仮構です。  一致ということは 《A》の立ち場も じゅうぶんに含んでいます。つまり 簡単に いわゆる宗教家の説くような存在理由には 乗らないぞという基盤を備えても います。したがって 仮説としては 究極の存在のあり方になるかと思います。まだ その尋究の途中です。哲学というのは そういうものだとも思いますので。  どうぞこの問い求めを楽しんでいってください。もちろん 回答も茶々を入れるのも 投稿は自由にしてくださればよいと思います。

回答No.36

((紙数の都合で書ききれそうに無く、ANO35にすぐ続ける形となってしまいます。 かなり対話が絶妙に弾んでいるかもしれませんので^^、ご了承ください。)) つづく ↓ そのキリストの言葉を「(科学や事象)を もっと『見つめなさい』」というアドバイスとして受け取るのは私だけではないでしょう。 どんな苦しいことが起きようと、勇気を出して、考える力を取り戻した時には そうして前に前に進んでいきなさい。ということなんです。   そう思います。 私はこれを、 もっと、知情意全体を総合的に考えることが出来るようになって(情に関しては素朴な子供のように新鮮な心のなって) もっともっと「強くなりなさい」というメッセージとして受け取ります。 また もっと人間的な方向に、“進むことが出来る時には其の限り いついかなる時にも前に進もう”というそのメッセージこそが おそらくbregelone様の書いてくださってる≪永遠の現在という基本≫でしたか そこ点の基本的ありかたに対応するのではとおもいます。 またまたずいぶん簡単にこ問題をかたずけてしまいましたが、ここでは先をつづけるべく、 これを「弱さ」についての全体の流れの中での回答につなげて、≪総合的に≫つなげて考えてみたいとおもいます。 * ↓ 「ずるさ」とか「偽善」という言葉自体を私は 全面的に認る形で捕らえているのではないつもりです。 ≪“そういう関係性の陥ることも弱さの一つとして自己分析できることを、次へ進む一歩となるように”それを「見つめる」必要がある≫ということは前提の上で、自己に対しても許容すべきときもあるということは 言いたいことの一つです。 これを簡単に要約すれば、 徹底して「弱さ」をも見つめることが 次の「強さ」への一歩につながりえるということであり、かつ、そのようにつなげる意志を持つことは大切だということになります。 なぜなら、実際に人間という生物でもある存在は 強調しますが「実際に弱い」からです。…。 そこを下手に無理すると(そこを≪総合的に≫考える前に無理すると)かえって混迷に陥ったり、またかえって偽善が生まれたりするほど「人間ってやつは、弱いところがある(--);」ということです。 であるところを どう「見つめ」、解決してゆくのか?  実はそのへん 私の中で考えていた感性教育の中では たとえば「歌は 弱さも武器となる」とう考えがあったりして、これがそちらの>弱さを誇る<という言葉と対応するかと思うのですが、 その論議以前に、私はここに武士道とか 道徳意志の問題を逆に ここで総合化して考えます。 自分の中に「ずるさ」や「偽善」が そのままそれそのものとなる「嘘」を見つけたら 常に刃を携帯していて、其の刃で自分を殺すぐらいの気持ちで、その嘘の心の部分を殺す、 という武士道の姿勢のことで、 たぶん、詳しくは知らないのですが、内村鑑三という人が これがキリストの言葉にはひれ伏しながらもキリスト教に実際に接して失望した中で 日本の武士道こそキリスト教無教会主義を真に発展させる思想だとした ところと同じなのかなと思うのですが、 要するに このbragelone様の質問の意味全体に関しても、 結局このキリスト言葉「人のために命を捨てる以上の愛は無い」という言葉にかかってくるというのが たぶん私の回答で言いたいことの集約なのではないかと思います。 「人のために命を捨てるような愛を持ちなさい」というふうにキリストが語っていない点がたぶん重要なのです。 私たちのレベルでそんなことしたら、たちまち、私たちの心も行動とかも偽善とかにも蝕まれてしまうと思います。  無理はしてはいけないんです。でも同時に、キリストは「強くなりなさい。 一歩でも一ミリでも そのために進んでいきなさい」とは言っているというふうにも思うということです。 「あなた方のうち 悪を犯したことの無い人だけが、この人に石を投げつけなさい。」と言ったことばも、正確かどうかはともかく、何十年たっても忘れてはいません。  みんな弱いのです。  でもそれでは 悪人であっていいのか ということではなくて、 もっと、もっと強くなれと 深く深く叫んでいるのがキリストだと思うということです。 A、存在こそが大事なのだから 其の大事さはキリスト(あるいは仏陀)ほどは私たちは解ってないのだから、そこまで強くないのだからそこを自覚して その使命とやらには、まだまだ考えるという点にては余地があると考えるべき。 B、おのれの生涯を賭けた使命が キリストの言われるところの愛のレベルならば、 考える余地も無く、答えは キリストの言われるとおりだ。 ここに、こんな感じの答えが見出されるのではないか ということも書いておきたくなったところです。 日本で言えば、 これが武士道の「恥じらい」の思想です。 真心 自然な愛情のゆとりには自分自身が幸せでなければならないわけですが、それを少しでも持っているなら  なおのこと、前に進む意志としての道徳も「恥る心」も必要ということです。 「みんな弱いんですから」→「なおのこと」なのだということなのですが。  仏陀も 私にとってはキリストと同じです。 ここを書き出すと面倒なことになるかと思いますが、 キリストに対して、これだけ肯定している私にしても、それは疑って疑って疑いぬいた後の考えだからけっこうきっぱりと言えたりするのだと思うのですが、 同じ作業を仏教徒は仏陀に対してしていますか?という疑問はbragelone様とたぶん同じだということで ここでは 略して 「仏陀にも同じように謙虚であるべき」と私のほうからは簡単に表現させていただきます。 この謙虚さという姿勢が、総じて結論を こうした犠牲そのものの無いような社会の改革の方向へと志向と思考を向けさせるのではないか、というのが私のこの二重の結論なのですが、

noname#80116
質問者

お礼

    (10:18)だれもわたしから命を奪い取ることはできな    い。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもで    き、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受    けた掟である。  この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆  人びとの間に疑いが起こったように そもそもこの話は 経験的な思考を超えています。非現実の話です。それが 《愛》です。だと思うのです。しかも  ▼ だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。(マタイ5:48)  ☆ というのなら――言うのですから―― 《愛》とその実践の問題です。  ★ 二重の結論〔* とおっしゃるところの〕《謙虚さ》  ☆ も ここに ふくまれます。《10:16》が 《囲いに入っていないほかの羊》に対処するときの態度は如何に?と問うています。《諸概念》(Z)も この《愛》の問題に収斂するでしょう。 イエスは 良き羊飼いとして羊のために《命を捨て》ますが わたしたちは 羊どうしの関係として《友のために》 また囲いの中にはいない羊に対する関係としてそのために それぞれどうするかです。  結論として 《謙虚さや 弱さ・強さ ずるさ・偽善》 これらの概念認識やそれを扱う意味での《なになに道や道徳》 これを超えることが まづ大前提です。というように――図々しくも 傲慢にも――思っていますが いかがでしょうか。  どうしても事は 信仰の問題であるという意味です。神を持ち出さない無神論の場合にも あくまで 非経験・非思考としての信仰の領域であると まづ初めに 捉える必要があるのではないか。そうでなければ 新たに提出された《AとB》の命題にしても げんみつに言えば 経験思考にとどまる のではないでしょうか。  字数足りずです。《Q: 本末転倒な努力 =http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4342013.html》へのわたしの回答(No.2&12)を よろしければ 参照してください。  あたかもこの経験世界の一切の経験思想をみな 飲み込むというような強靭な精神の胃袋をひけらかす傲岸の極みになっています。――なお批判の対象にはとどまっていますように。

noname#80116
質問者

補足

 前回からのつづきです。  (4)まづ わりあい簡単だと思う点ですが  ★ キリストの言葉を「(科学や事象)を もっと『見つめなさい』」というアドバイスとして受け取る  ☆  これは 毒麦のたとえで 体験しています。  ● ~~~《ドクムギ》=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%AF%E3%83%A0%E3%82%AE~~~~~  若いうちはコムギに擬態していて判別しづらい。根もコムギと入り組んでいるため、抜くと麦も一緒に抜いてしまう危険性がある。穂を出せば区別できるので、収穫まで一緒に育つままにしておくように命じたという聖書の言葉の意味が理解できる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり 最初は ただ単に 《毒》を毒として排除すればよいのではない と言っていると受け取っていたのですが 実際の《毒麦》の習性に基づいたものだと知ったわけです。  (5)=(3) これは 《神が悪魔?》という(3)からつづく大問題で わたしの側から 次のようなまとめに収斂させるかたちで 表現しなおした課題です。  ☆☆ ~~~(No.35補足欄)~~~~~~~~~  ★ どんな苦しみも やがて終わります。(ANo.35)  ▲ あなたがたも完全な者となりなさい。(マタイ5:48)  ☆ この対比が 初めの原点かつ出発点を同じくしつつ 課題になるかと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★(いくつかの概念=Z): 絶対個 / 記憶意識体の主体(――* これは 《魂という時には神が関係してくるはずだと私は思っていますが》(ANo.31)というかたちで つまりは神をとおして 他者との関係を持っている主体存在であるだろう。それゆえ 次に―→) / 自他をみつめる心 / 弱さ・強さ / / ずるさ・偽善 / / 武士道とか 道徳意志の問題  ☆ これらについて ここでは 直接には触れずじまいになるかも知れませんが 解きほぐしのとっかかりになればと願うことがらをつづります。  ▲  友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 (ヨハネ福音15:13)  ☆ ここから微妙に離れて 次の文章を引き合いに出します。発言は イエスのものとしてです。  ▲ ~~~ヨハネ福音10:1-19~~~~~~~   ――はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほ    かの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。      門から入る者が羊飼いである。     門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼い    は 自分の羊の名を呼んで連れ出す。     自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声    を知っているので、ついて行く。     しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの    者たちの声を知らないからである。  イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。  イエスはまた言われた。   ――はっきり言っておく。わたしは羊の門である。     わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しか    し、羊は彼らの言うことを聞かなかった。     わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人    は、門を出入りして牧草を見つける。     盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするために    ほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも    豊かに受けるためである。     わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨て    る。     羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見    ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い    散らす。――     彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。     わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、    羊もわたしを知っている。     それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っている    のと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。     (10:16)わたしには、この囲いに入っていないほかの羊    もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声    を聞き分ける。     こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。     わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわ    たしを愛してくださる。

回答No.35

対話を大切にしたい哲学を持っていますので、そのへんを褒めていただけたことは励ましとなります。   さらに一生懸命「絶妙な対話」でありたいと いう気持ちになります。   ありがとうございます。 ですが、私の道は失敗だらけです(過去も現在も)。 今回は この回答を書くにあたってそのへんの自己紹介をしなければならないと思いました。 知能指数という能力テストがどういうものであるのかの知識も無く、それを調べることもなくここまで来てしまったものですので、 もしかしたら、かなり「あやしいテスト」なのかなとも思いますが、 それを受けた記憶はあります。 なんと、確か 下の下、 つまり上中下の下をまた3段階に分けた中の下だったように記憶しています。つまり最低です。 算数を習う時期(分数の意味は、仕事上今は小学生の参考書で勉強して少し解るようになりましたが、 割合とかパーセントとか確率とかはすでに理解していて使ったり考えたりもしていたのですが、なにしろ其の前までは 分母が下のあの記号を見ても、始めてその参考書を見た時には「分母、分子という言葉は聴いたことがあるけど、分母というのだからたぶん下の方の数字のことを言うのだろう」というぐらいの知識でした。 45歳ぐらいの時の話です。)にちょうど たびたび触れました死線をさまようような体験をしていたもので、そのせいもあるのかなとも思います。 がゆえに、其の分もいっしょうけんめい考えてきたことの蓄積が 今頃全体がまとまって来て 明晰性とか思索力とかかなり大事な地点の能力を生かせるように脳が≪総合的に≫働くようのなったとうことも、いく点か考えられ、今ではけしてそれを悲観しているのではないのですが。 言いたいことというのは、こういうことなのです。 ひとつには、たくさんの「失敗」もしてきたのに、其の分析も出来ずにそれを生かすこともできなかった人生が、 それもまた今頃 其の全部を一気に分析が出来るようになってきた、 というこの人生。 さあ、これで、もとはすっかり虚弱になってしまった体です。 特に指の力が無く、ピアノの先生からはさじを投げられ(指が曲がってしまうので)、女の人にも腕相撲では勝ったことがまだ無い人間、  足腰はそれなりに鍛えることが可能でしたので、これで農業の体験では手の平がほんとにセルロイドのように硬くなったこともある人間なのですが、 この中途半端さは、はっきりした身体障害者よりも生きにくい面もあったかと思います。 こういうことです。 →いろいろな「弱さ」というものを人一倍体験している。 これなんです。 * さて、前回ANO32だと思いますが、書いてる時に何かが自分の文に関して腑に落ちないところ 気がかりなところがあったのですが、 それが何であるかはよく解りませんでしたが、  後から考えて それは2点あることに気がつきいています。 イ、bragelone様の書いてくださった修道院についてのすばらしい表現に対して文脈上のこちらの説明の必要はあったとはいえ、「修道院の美化」などという安易な言葉でそれ自体へも批判をしているかのような「筆」となってしまっていた点です。  ロ、もう一つは、「神が悪魔?」という点について、ご指摘のように、あまりにも簡単に書きすぎてしまった点です。 * >★ 〔犠牲や殉職・殉教などがなくなること――〕 私も同じくほんとうの結論は ここにあると思います。  ☆ まづこの結論を確認します。< という今回のbragelone様のコメントの一番最初の 確認要求のようなものが、肝心の「弱さ」、人間の弱さの自覚のあたりのことと関係していると思え、また>弱さを誇る<という微妙な「事の表現」も気になり、  おそらく私の得意思索分野なのかなとも思いまして、 今回、その回答をこそしてみたいと思うのですが、 今回「*イ*」は、もし、ここのサイトをたまたま訪れた方もきちっと読まれている方ならばどうせすでに誤解とかは避けられていると思われますのでそこはすでに一応過去のこととさせていただき、  しかし「*ロ*」のほうは、かなり私も気になりますので まず、そのへんをもう少しだけ深追いさせていだだきます。 * ☆【「ロ」について、】 私自身 たしか20年以上も真剣に悩んでしまった問題です。 簡単に書けるということのほうがおかしいです。  公に書くとしたら、たぶん数冊の本の紙数が必要なところかと思います。 「地獄は存在し得ない」ということとか、 キリストの「~、~。サタンよ去れ」という言葉を使っている(弟子たちが記録している)わけですが、それも例えを通してすべてを語ったキリストが旧約を元に例え話として語った「サタン」 であり、実際にはサタンも悪魔もデビルも存在しないということから詳しく話す必要があるかと思います。 其の上でのその「たとえ話」の解釈とか神話の解釈とかは、また別にあるかと思いますが、 ここでは、同じキリストの言われる「神は 善人にも悪人にも、同じように雨も降らせる」でしたか、 ともかくはっきりとそのような意味の例えを語ってくださったあたりが、 苦しみという存在のすべてを語っているように思えるという点だけを書いておこう思います。 どんな苦しみも やがて終わります。 雨が止むようにです。 それは意識を失いきることで終わるかもしれません(死のことです。)  そうでなければ 治ることで終わります。   ともかく雨はやがて止みます。 ((今回の回答は、紙数の都合で 一気に二回に分けて書かせていただきます。)) ((じつは、病み上がりの体調管理がうまくいかず、お返事おそくなりました。(書くのは慣れとか速さとかあるほうだと思ってるのですが)そちらの文や言葉にはわたしには理解するのがなかなか困難なものもありますが、 それなりの其の解釈に時間がかかったということではないところです。 対話は弾んでいるかとおもいます。 雨の止んでいるうちに対話の価値を一歩でも前進させたいところです^^。))

noname#80116
質問者

お礼

 No.36への補足です。経験思想を 信仰の下に置けば それでよいかとなると そうではなく 経験領域に還って来て 経験思考で 対話を進めるべきです。  ★ ~~~ANo.36~~~~~~~~~~~~~~~  自分の中に「ずるさ」や「偽善」が そのままそれそのものとなる「嘘」を見つけたら 常に刃を携帯していて、其の刃で自分を殺すぐらいの気持ちで、その嘘の心の部分を殺す、 という武士道の姿勢  ★ 謙虚さという姿勢が、総じて結論を こうした犠牲そのものの無いような社会の改革の方向へと志向と思考を向けさせるのではないか ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここでも《醒めた》姿勢を 取ります。問題は 経験的なものごとが あくまで 相対的なことだという点です。自己の信念が それ自体だけで この世界に存立しているのではないのではないか。  《ずるさ・偽善・謙虚の無さ》 これらは 程度問題です。おのれの自由意志による過失であると同時に 他者や社会が その責任の一端を担っているという側面を否定することが出来ません。  従って うそまたは嘘をつく事情を 互いに 包むようにして 捉え合う。また 不遜――これは わたしの代名詞のごとくですが――をも はぐくむ(=羽含む)かのようにして 互いに温めたあと 批評し合う。  けれども問題は 確信犯です。やむを得ず犯すわたしのような場合ではなく うそや不遜を みづからが オブラートに包むがごとく 有徳の人に頼りその徳の傘の中に入り 自分で徳に満ちた言葉を並べて 弁護し これを弁護しおおせるまでに 権限ある地位に居座るといった確信犯のことです。  しかもこれが 実際には 社会の側つまり われわれの側の対処の問題でもあります。  もはや 《うそを包み合ったり 不遜をはぐくみ咎め合ったり》する段階を通り越しています。ものわかりよく言えば その偉い人の面子を保ちつつ 社会に害を与えるような言動には注意し その改善へと導くものなのでしょうか。  これを 謙虚さや 武士道のきびしさによる感化の問題として見るということでしょうけれど どうなんでしょう? わたしの考えは それは それとして行ないつつ 言葉のコミュニケーションとしても 対話をつねにおこなう。こういう方針ですが どうでしょうか?

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。  順番どおりにお応えしてまいります。  (1) 健常者とのへだたりの問題  それにわたしが どう対処しているかという点ですが 妹の一人が 左手の指が動かなくなっており おまけに 統合失調症で入院しています。おかげさまで その生活を送るぶんには 何の支障もありません。片手でも洗濯ができるようにまで 元気になっています。  そこで学んだことは 弱者に対しても 基本的に ふつうに 対処するという考えです。できないようなことも言うかも知れません。それに対して できないという答えが返ってきたなら あぁ そうかと言って それだけです。  物議をかもすことも知っていますが いまのところ この方針で進みます。(さらに 突っこんでいただくぶんには 何の支障もありません)。  (2)「修道院の美化」か否かの問題は 誤解や語弊を超えているとわたしも 思いますので 取り上げません。  (3)「神が悪魔?」という点についての問題  これは 神学を挙げての問題であり 個人の信仰にとっても 生活態度として日常においても つねにと言ってよいほど出会う――と言いますか 一度突き当ったら 二度と忘れることの出来ないかたちで持たれる――大問題です。  ★ 公に書くとしたら、たぶん数冊の本の紙数が必要なところかと思います。  ☆ 人類の歴史のすべては この問題に行き着いているのだとさえ考えられます。  前回 ヨブを打つ悪魔を許す神というかたちを 例に出しましたが これは おっしゃるように (a) あくまで表現の問題であり喩えであり しかもそもそも仮構であり虚構であるという前提がありますし (b) その仮構の中でさえ そもそも《悪》は 《善の欠如》として 現象するが それ自体として存在するのではないというやはり前提があります。(b)については 《QNo.4340263: この世界に悪は存在しないのか? =http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4340263.html》のANo.13に ひととおりのことを書いております。  ★ 「地獄は存在し得ない」  ☆ ということにまで 触れる必要があるのかとも思いましたが――つまり その意味内容は 共有していますが――  ★ 例えを通してすべてを語ったキリストが旧約を元に例え話として語った「サタン」 / であり、実際にはサタンも悪魔もデビルも存在しないということから詳しく話す必要があるかと思います。  ☆ というとおり 上の(a)も(b)も 基本的に ともに 同じ見解であろうかと思います。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ここでは、同じキリストの言われる「神は 善人にも悪人にも、同じように雨も降らせる」でしたか、 ともかくはっきりとそのような意味の例えを語ってくださったあたりが、 苦しみという存在のすべてを語っているように思えるという点だけを書いておこう思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここでは まづ原典を引くだけにします。  ▲ ~~~マタイ5:44~48~~~~~~~~~~~~  しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。  父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。  自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。  自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。  だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ちなみに ご存じかも知れませんが ウェブ上で聖書を参照できます。→《eBibleJapan》= http://ebible.echurch-jp.com/ です。  ここでは  ★ どんな苦しみも やがて終わります。  ▲ あなたがたも完全な者となりなさい。  ☆ この対比が 初めの原点かつ出発点を同じくしつつ 課題になるかと思います。次のご回答に移ります。

回答No.34

私は 仏教系にしろ、キリスト教系にしろ、ヨガやインドの宗教系にしろ、信仰というものが私から見ると“「これでいいいのだろうか?」と思えてしまわないような信仰者に 実際のリアルな場にてですが、まだ出会ったことが無いです。 けっこうかなりの大勢のそのような方に会う機会はありましたけれどもです。 私にとって(今はまた違いますが。)信仰とは物事を考えて考えて考え抜いてそれでもその教えに対しては謙虚であらざるを得ないものを感じた時、 その気持ちをその後の人生で貫く姿勢のこと、と思いこんでいるのですが、(今はそのような信仰にも疑問を持っています。)  その人達は、そこの自己を思索を放棄することを信仰としてしまっているのです?  だから、それでもなお思索がそこ入り込んで来て、理論的にも道義的にもおかしいかもしれない、とふと思っただけでその人達の心は深く迷ったり、悩んだり、落ち込んだり、苦しんだりしてしまいます。(傍から考えれば ほんの些細なことで 自殺してしまった自殺を最大の罪とするカトリックの司祭とかの例も知っています。 他の宗教での似た自殺の例もあります。) 腫れ物の触る以上に痛がる人達です。 触れば実際に心も傷ついてしまうと思います。信じられないぐらいのその面が極端に弱い人達でした。 bragelone様が 修道院をあまりに美化しておられるので、これはそれに合わせて書く必要があるなと思ってしまったところです。 えっ? そんな面もあったのか? という感じです。 魂を磨く「言葉」の世界のためには、けんかすら辞さないという雄雄しい愛を持った方であるならば、そんな心配はいらなかったとあらためて思ったしだいです。 お茶はにごさないで書きます。 盲目的信仰によっても(そこに生活の全てを捨てて人生を捧げたからといって、かならずしも盲目的でない人達ばかりだとは私には思えません。)たぶん、 存在への深い感謝の心、に気がつく人はいると思ってはいます。   処女なのにそれを越えるような明るい歌を歌える修道女なら盲目的かどうかはともかく そのへんを信頼できたりします。 でも 神を因果の根本因(いわゆる万物の創造主)と捕らえてしまう信仰ならば、 神イコール悪魔でもあるはずですよね。    こんなにも ひどい苦しみが ある、いまだにある世界なのですからね。 その因果の因果のその奥に その絶対なる神がいるのですからね。   神だけが悪魔でもあるということです。 悪とは他にありえないのです。 神だけが唯一悪なんです。  そこまで 考えて考えて 苦しんで それでもそれを乗り越えた時の、 神はキリストは疑えなくても(キリストの言葉だけです。いままでの浅学な範囲ではですが、思想でおかしいのでは?というところを一つも感じることができなかったのは。 ほんとのことを言えばです。) それはもうキリスト教という宗教の世界の神とうことは超えているようなものだと思います。 そうした深みが 修道院の中に 一般的な形であるとはどうしても思えない者なのです。 部分的には 庶民よりも愛情は浅い人達も多いはずだという考えもあったりします。(推測ではです。) が、もちろん、ほんとうのクリスチャンだっているはずだろう。とうのが私自身の推測の世界です。 つぎにですが、 もし、一言で私にとって、キリストとか仏陀はどういう存在かというと、私よりも 「あまりにもはるかに」すぐれた感性を持った存在なのです。 だから 人に命を与えるほどの愛を持っている存在。 私たちの論議と、 キリストの言う「人のために命を与える以上の愛は無い」という時のそれとは、その深さが違うという考えです。 殉教も殉職も 母親の場合も 浅い深いはあり、 おそらくそこに命と同じ重みがあるような本当の場は、 私たちが仏陀やキリストの世界に近づいて始めて見えてくる世界なのではないかと 思えるということです。 このへんもはっきりしておきたかったところでした。 「自他を見つめる」能力というのは存在の人間への最大の贈り物と考えます。 と   けっこうキリスト教とか西洋の哲学に触れるたびに感じる疑問があるのですが、生物である尊さとか 弱さとか そのへんを「見つめ」そこなっているというあたりです。 なんとなくそんな気がしてただけなのが今では確信になりつつあります。  その上で自他を見つめる能力(人間性)をも見つめる能力を持っているのだと わたしは人間の脳についてそう思うのです。  そのへんが総合的に考えられているかどうかは解りませんが、意味合い自体は「醒める」も「見つめる」も同じだと思います。(「ずるさ」も同じ、関係の中でいうとそう言えるような誤解とかがあるだけ。) 私は 右の肺胞が全部つぶれ、左の肺胞もあとすこししか残っていない状態で生きていたことがあります。 (子供の頃の肺炎のことですが) そんな中での苦しみを知ってる人から見れば、「逃げる」べき時は「逃げる」べき生物の弱さをも見つめる必要があるということはあたりまえのことです。 一方 うれしいこと楽しいこと、あるいは五感で深く感じること、なんで、これを哲学や宗教が否定するのかわかりません。 おいしいものをおいしく感じてどこがすこしでもおかしいのでしょう。  その奥に仏陀のような方の最高の幸せ(静かで新鮮な境地)があるのでなくて、他に何があるのですか?  それがあって それを自分だけのものにしておけないという性格がもともと人間にあることを心は発見できるのだと思います。 愛の奥深さも その分かち合いの部分と 苦しみへの共感感情との二つの奥にしかないのではないですか?    たしかに死ぬ時は 葦のように枯れていく命でしょう。 でも私は 今度死ぬ時は、最後の一つの肺胞になっても まだ生きてたら、その二つの方向へと何かもがきうなされているような気がします。 子供が車にひかれないこと、母親とかの犠牲も無いこと、 殉職してしまうような悪とか火事とか原子力の使い方やそのへんの危険への意識の浅さとか、 殉教が必要な哲学や宗教の中身の表現の力なさとかを  人間はいかに克服できるのか?  私も同じくほんとうの結論は ここにあると思います。  キリスト者であることは出来てもキリストを気取ることは また其の言葉を気取ることは私たちには不可能であるがゆえに。  とも言えるかもしれません。 「一歩一歩」の問題にここで戻ります。 少しでもほんの少しでも強い心の生物になれたら、 社会全体も きっと今度こそたしかなロマンを見ることが出来るのでしょう。

noname#80116
質問者

お礼

 サタンは答えた。  ――ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とそ    の一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業    (わざ)をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に    溢れるほどです。     ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさ    い。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。  主はサタンに言われた。   ――それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよ    い。ただし彼〔* の命〕には、手を出すな。  サタンは主のもとから出て行った。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 神が悪魔をあやつっているということのようです。  ★ 「自他を見つめる」能力というのは存在の人間への最大の贈り物と考えます。  ☆ この能力のもとに 《醒める》を捉えていただきました。そしてさらに《するさ》も 関連しているというようにです。弱さ つまりたとえば  ▲ 誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。 (コリント後書11:30)  ☆ といったところも かかわってくるというようですね。  ★ 信仰  ☆ について 煮詰めた議論をしておられます。わたしの考えは 上に述べましたとおりですが それに関連して こうも思います。先回でしたか先々回でしたか 仮りの塀に凭れたら でんぐり返って 意識を一瞬失ったあと 頭を打っていなかったのを確かめつつ 助かったと言っておられました。そのような回転――心の向き変わり――が起こるということではないでしょうか。しかも それは 自己の・つまり人間の思考や努力を超えているという事態を伴なっているようなのです。  それゆえ   ★ 少しでもほんの少しでも強い心の生物になれたら、 社会全体も きっと今度こそたしかなロマンを見ることが出来るのでしょう。  ☆ というところを  ▲ 自分の弱さを誇ろう。  ☆ という方針を持つのだと思います。いかがでしょうか。つまり 無神論と有神論との互いの同等性・対等性を 主張したいと存じます。

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん 絶妙な対話なるご回答をありがとうございます。  ★ 〔犠牲や殉職・殉教などがなくなること――〕 私も同じくほんとうの結論は ここにあると思います。  ☆ まづこの結論を確認します。  別の角度から 次のことも 結論になると思われます。  ★ うれしいこと楽しいこと、あるいは五感で深く感じること、なんで、これを哲学や宗教が否定するのかわかりません。  ▲ ~~~アウグスティヌス:三位一体論 13・7~~~  しかし これらの悲惨な現状において忠信であり善である人が この生から幸福な生に到るであろうときは 今は決してあり得ないことつまり人間が欲するままに生きること が真実となるであろう。  なぜなら かれはあの祝福(《生めよ ふえよ 地に満ちよ・・・》創世記1:26-31)において悪しく生きることを欲しないし また欠如するであろうものを欲しないし さらに欲するものは欠如しないであろうからである。愛されるであろうものはすべて現在するであろう。現在しないものは欲求されないであろう。そこに在るであろうものはすべて善であろう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たぶん その《否定》は 自然本性としての《感性》そのものの否定ではなく そうではなく 感性が むしろ精神によって 欲望や情念を混ぜ合わせられてあるその状態に対してだと思われます。  たとえば出世欲によって情感や心が従属させられているというような《感性》の一種の《否定》状態 これを否定しようとする側面があるのだと考えられます。上のアウグスティヌスは この《否定の否定》としての肯定を 時間的な過程で先のこととして つまりあたかも彼岸であるかのように 捉えていますね。現実ないしいま現在の状態に対して 譲歩することは 出来なかったのでしょうか。  ★ 愛の奥深さも その分かち合いの部分と 苦しみへの共感感情との二つの奥にしかないのではないですか?   ☆ この空間的な《奥》を 時間的なへだたりを持った《魂の祖国(ふるさと)》に捉えたかたちで 表現していますね。《永遠の現在》というのが 基本的な命題なのですが。  ★ 修道院の美化  ☆ が 物議をかもしているようですね。先回 《上げ底》と言いましたが こう言いなおすべきでしょうか。つまり ありうべき情況を思い描いた といったところです。  ☆☆ ~~~~《QNo.4159557: 人が おしえる・おそわるということは どういう事態か= http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4159557.html》~~~~~   スサノヲは アマテラスの世界から追放され イヅモの国に来て 出雲のスガの地に宮をきづいたのでした。  ――吾(あ)れ 此地(ここ)に来て 我(あ)が御心すがすがし。      (古事記:神代) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ arayata333さんとやり取りをした質問でしたが このように 経験的な思考や努力の限界に到り そのあと つまりあたかも死を体験してのようにそのあと 信仰は 与えられるということだと思っております。通俗的に言えば 《神仏に見放された》あと 《すがすがしき心になる(すなわち 信じる心が よみがえった)》といった体験だと考えます。  さて むつかしい問題を さらっと 言いきっておられます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  でも 神を因果の根本因(いわゆる万物の創造主)と捕らえてしまう信仰ならば、 神イコール悪魔でもあるはずですよね。    こんなにも ひどい苦しみが ある、いまだにある世界なのですからね。 その因果の因果のその奥に その絶対なる神がいるのですからね。   神だけが悪魔でもあるということです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たぶん そういうことだとわたしも 考えます。  ▲ ~~~~ヨブ記1:1-12~~~~~~~~~~  ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。・・・  ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。  主はサタンに言われた。   ――お前はどこから来た。   ――地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていまし    た。  とサタンは答えた。  主はサタンに言われた。   ――お前はわたしの僕(しもべ)ヨブに気づいたか。地上に彼ほど    の者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きて    いる。

回答No.33

こんばんは、brageloneさん。 ●存在と存在理由とは どちらが大切ですか ↑ このお題を眺めてると、うちの母さんの胃にできた癌のことにふと気が向く。うん、胃の袋の外側から癌が浸潤、内壁が外から押されたように腫れ上がり瘤状に隆起、隆起が起こったのが胃の出口。瘤が大きく出口を塞ぐほど、食べたものの通り道は針一本通るか通らないかほどのわずかな隙間しかない。 はじめ、内視鏡でのぞいて調べてみると状態は悪性の癌の形状を呈しているのだけれど、胃の内側の細胞を何箇所か採取し検査すれど癌の腫瘍マーカーは低い値。血液検査も造影剤入れての検査でもそれらしき数値はあらわれない怪しい影も映らない。手術に踏み切るにたる理由がそろわないらしく様子見様子見と時間だけが過ぎていく。良性の腫瘍ならば薬で小さくとの様子見であったそうなのだけれど、いっこうに腫れは小さくならない。そうしてる間に2度極度の脱水症状にみまわれICUへ。状態が落ち着いたところで生命の維持を優先、開腹手術が行われた。開けてみると胃の外側の壁に癌ができており、あけた時点ですでに癌細胞は腹膜に飛び散っていたそうだ。取り切れないほど。胃の出口を塞いでいた腫瘍を切除。胃の3分1を切り取り、胃と十二指腸とを繋ぎ合わせ口から物が食べられる状態になるようには手を尽くしましたとのこと。その時点で余命宣告3ヶ月。その後、抗がん剤治療を月1回受けている。抗がん剤を投与すると投与してからの2週間ぐらいは口の中の感覚がおかしくなるらしく、何を食べても苦く感じ食欲が低下するのだそうだ母さんの場合は。抗がん剤を投与して20日を過ぎたあたりから口の中の感覚も徐々に戻り体のしんどさも和らいでくるとか。いくらかスッキリした状態でいれるのは月の内10日ないし7日ほどの間だけ。それが過ぎればまた次の月の抗がん剤投与の日がやってくる。抗がん剤を投与した後は傍で見ててもほんと辛そうなのが痛いほどよくわかる。何でそうまでして苦しくしんどい治療を続けるのか?母さんの選択肢には抗がん剤投与を止めることも選択肢のひとつにあるのに母さんは苦しくしんどい治療を続けることを選択した。月1回訪れる病院、病院の待ち時間は長い、その待ち時間の間に何ヶ月も入院していた病棟へ足を運ぶ。母さんが退院した後もまだそこに入院している患者仲間の見舞いに。病室から病室へ顔を出す。長く入院生活が続き闘病が続くと誰しも塞ぎがちに、そこへ病気しても口だけは達者な母さん「ほらみてみ、わたしまだ生きとうで」とあっけらかんと言ってのける。ともすれば道化のごとく頭にかぶった手編みの毛糸の帽子をとってハゲタ頭を人目にさらす。「やっとここまで生えてきたわ」とさらっと言ってのける。すると、さっきまで静まり返っていた病室から笑い声があがる。母さんが入院していた頃からいた人たちだけに母さんの最悪な状態を何度も目にしている。入院中の母さんを目にしてるひとなら退院していくとき「あのひともう長ないな」と、思ったことやと思う。なにせ、余命宣告3ヶ月。ところが、ひと月に1回こうしていまも抗がん剤を投与しに病院へやって来ている。同類相憐れみではないけれど、病に伏せる者は元気な者からの励ましよりも同じ様にどこかに病を負っている者からの励ましのほうが時に元気になる。というよりも、病に甘えているのをみぬかれるから早々仮病は通じない。入院が長くなるとネガティブにもなる、そうすると、本来の病とは別に病は気からの病を自ら纏ってしまう。「もう、わし(わたし)あかんのんちゃうか。。。」といった言葉を口にする。そこへ母さんの一言「大丈夫、大丈夫、わたしまだ生きとうし、毛ぇー抜けてもちょっとましたら生えてくるし心配せんで大丈夫、大丈夫。なんやったら毛糸の帽子編んできたろか?」と言った調子。 【腫瘍マーカー】 http://www.onh.go.jp/seisaku/cancer/kakusyu/syuyo.html

noname#80116
質問者

補足

 littlekissさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。  暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。  目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。  アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、言った。   ――お客様、よろしければ、どうか、僕(しもべ)のもとを通り過    ぎないでください。水を少々持って来させますから、足を洗っ    て、木陰でどうぞひと休みなさってください。     何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お    出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったので    すから。  その人たちは言った。   ――では、お言葉どおりにしましょう。  アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。   ――早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえ    なさい。  アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。  アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。  そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。  彼らはアブラハムに尋ねた。   ――あなたの妻のサラはどこにいますか。   ――はい、天幕の中におります。 とアブラハムが答えると、彼らの一人が言った。   ――わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころに    は、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。  サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。  アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。  サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。  主はアブラハムに言われた。   ――なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれる    はずがないと思ったのだ。     主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに    戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。  サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。   ――わたしは笑いませんでした。  主は言われた。   ――いや、あなたは確かに笑った。  その人たちはそこを立って、ソドムを見下ろす所まで来た。アブラハムも、彼らを見送るために一緒に行った。 (創世記18:1-16)  * わたしの場合は のぞみがかなえられなかったので なんのもてなしも出来ず 面目ありません。

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