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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:秀吉 対家康プラン)

秀吉対家康プラン

titelist1の回答

  • titelist1
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回答No.4

秀頼が秀吉の本当の子でないことが、豊臣家臣団の忠誠心を弱めたと思います。秀吉にたくさんの子が居たら豊臣家は滅んでいなかったと思います。秀頼の父親は大野治長と言われています。秀吉は淀君が懐妊したとの知らせに本当に自分の子がと疑いの手紙を書いています。秀吉は九州・名護屋城に居て心当たりが無かったのです。近臣の家臣も日記で淀君の懐妊を疑っていました。ちまたでも噂になり張本人を処刑しています。成人した秀頼は背が高く、秀吉に似ていないのです。徳川家が大奥を作り側室を管理したのはそのためです。 秀吉の正室が淀君との確執で家康側についてことも関ヶ原の敗北につながった。秀頼が秀吉の本当の子であれば正室は秀頼を盛り立てたはずです。正室が養子として育てた武将が関ヶ原の東軍に味方したのは正室の意向が関係していたと言われています。 家康は合戦がしたくて、上杉討伐の前に前田家に疑いを掛けたがまんまと逃げられ、次は細川を生け贄にしようとしたがこれも失敗し、純朴な上杉家がまんまと引っかかったのです。遠方の会津に帰国していたことも原因でした。 関ヶ原の合戦で西軍が敗北すると豊臣に勝ち目はない。それでも豊臣を滅ぼすのに15年も経過している。二条城での家康と秀頼との謁見がきっかけとも言われる。立派で凛々しい秀頼を見て禍根を絶とうと思ったのでしょう。

sg10000
質問者

お礼

 回答どうも。

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