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北斎は「富嶽三十六景」で旅に出た?

葛飾北斎のこと、とくに富嶽三十六景について調べています。 北斎はその人生において名古屋や信州小布施、関西に旅したようですが、富嶽三十六景を描くときにはそのための取材旅行をしたのでしょうか? 今調べている感じだと、それまでに行った場所は取材の使い回しができるとして、足りない部分は改めて取材の旅に出たのかな、と想像しているのですが。 富嶽三十六景のための旅行の記録がありましたら、教えていただけないでしょうか? また、現地にいかず、人が描いた絵などをもとに想像をふくらませて描いたのだ、という事実もあれば教えてください。 よろしくお願いいたします。

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回答No.2

御想像の通り、いろいろなケースがあると思います。取材旅行もしているでしょうし、過去の作品がもとになっているもの、他人の作品を参考にしたものがあります。 北斎は、「信州諏訪湖」のモチーフを逆さ富士にしたかったらしく、諏訪でそれが見られる場所を探したようです。結局見つからず、弁天島を入れた構図で描きました。ただ、ほかの作品同様、これも実景とはだいぶ違います。弁天島がのちに撤去され場所が移ったためという説もありますが、浮世絵は意匠であって写実ではないので、異なる場所からの景観を組み合わせたのかもしれません。しかし、逆さ富士を探しに諏訪まで行ったのであれば、ほかの絵に関しても、取材旅行に出たとしてもおかしくありません。 参考URL http://yatsu-genjin.jp/zakki/sakasahuji.htm 「神奈川沖浪裏」については、1803年に製作された「賀奈川沖本杢之図」や1805年に製作された「おしおくりはとうつうせんのづ」が原型であるといわれます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D%E6%B2%96%E6%B5%AA%E8%A3%8F#/media/File:Kanagawa-oki_Honmoku_no_zu.jpg http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D%E6%B2%96%E6%B5%AA%E8%A3%8F#/media/File:Oshiokuri_Hato_Tsusen_no_Zu.jpg しかし、波の形については、千葉県の行元寺にある、「波の伊八」と呼ばれた彫刻師、武志伊八郎信由の欄間彫刻に影響されたと考えられています。 参考URL http://www.isumi-kankou.com/isumi-kanko-tousyu/gyouganji.html http://www.geocities.jp/nakazusa/turedure/ihati.htm http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E3%81%AE%E4%BC%8A%E5%85%AB ほかの絵師からの影響としては、河村岷雪が挙げられます。「深川万年橋下」に見られる、橋の下の富士は、河村岷雪の「百富士」にその構図があります。この絵に限らず、「富嶽三十六景」全体の構図や主題が、この河村岷雪の「百富士」から影響を受けていると指摘されています。 河村岷雪の「百富士」(動画解説) http://iwasebunko.com/contents/library007.html http://www.bijutsushi.jp/pdf-files/reikai-youshi/06-9-23-ookubo.pdf 過去の作品、ほかの絵師や彫刻家からの発想、実写等、すべての要素がかかわっていると思います。下に、「葛飾北斎が富嶽三十六景を描いたと推定される位置マップ」というサイトがあります。北斎自身が、「富嶽三十六景」の制作に際してすべての場所へ行っているかどうかはともかく、諏訪の例もありますので、多少の可能性はあるかと思います。 http://www.arcgis.com/apps/MapTour/index.html?appid=5a5492421fde477c8a1db9ae969b545f&webmap=cd64152a7848400e9c70eb0f076c4a70# 北斎は西洋画法からも影響を受けています。これについては、三重県立美術館のサイトに解説があります。 http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/catalogue/sea/yamaguchi.htm

zouco10
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます! >逆さ富士を探しに諏訪まで行ったのであれば、ほかの絵に関しても、取材旅行に出たとしてもおかしくありません。 『諏訪湖氾濫三百年史』なる資料は知りませんでした。確かに、諏訪以外にも取材旅行した可能性は十分ありますね。 「波の伊八」も知りませんでした、驚きです。北斎は「百富士」や西洋画など、いろんな表現に学んでいたのですね。過去の作品ももとになっていますし、天才といえど、悩んで試行錯誤して絵を描いていたのでしょうね。 とても勉強になりました、ありがとうございました!

その他の回答 (1)

noname#224207
noname#224207
回答No.1

>富嶽三十六景を描くときにはそのための取材旅行をしたのでしょうか? 描くために旅にでる、ということはしなかったと思います。 >足りない部分は改めて取材の旅に出たのかな、と想像しているのですが。 別に名所図会や現在の観光案内ではありませんので、このようなことはしません。 又、本人も必要とはしなかったでしょう。 >現地にいかず、人が描いた絵などをもとに想像をふくらませて描いたのだ このようなこともしなかったでしょう。 素人が風景画を描いているのとは少し発想が違うのではないのでしょうか。 ご質問の富岳三十六景のなかで有名な神奈川沖の絵をご覧下さい。 もし素人のようにその場で描写しなければ描けないのではあれば不可能な波浪条件ではありませんか。 北斎の絵の特徴はデザイン性にあります。北斎に限らず浮世絵の多くはこの独特のデザイン性を持っていることに注意して下さい。 近景と遠景の極端な切り取り方や、俯瞰、鳥瞰などを駆使した視点、またズームアップを多岐にわたって取り入れるなど西欧画とは異なる斬新な構図が多いのが日本の浮世絵の特徴であることに注意してください。 これは源氏物語絵巻の室内描写でも天井を取り払った構図が多用されていますように、ある意味では日本画の伝統です。 おそらく名古屋や大阪などへの旅には中山道を経由してあちらこちらの風景を眺めながら旅をしたのではないのでしょうか。 後日記憶していたその土地の風景の特徴をとらえて構図さえきまればその特徴を強調したものを描き出すのは天才であれば容易いなことだったでしょう。 絵画がお好きなようですが、絵を描かれる人は無関心な素人とは風景の捉え方や記憶の仕方が全く異なることに気が付かれておられませんでしょうか。

zouco10
質問者

お礼

そうですか、そういうものなのですか。 ご回答ありがとうございました。

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