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日本と中国(清)の違い(幕末期)

アヘン戦争(イギリスから仕掛けられた極めて理不尽な戦争だと思います。)によって、香港は、イギリスに永久割譲されています。1997年にイギリスから中華人民共和国への返還されていますが、占領の期間はあまりにも長く、その影響は今日も続いています。調べてみると、香港とは経過は異なるとしても、マカオも1999年までポルトガルの植民地であったとのことでした。 日本もペリーの来航以来、国を二分する議論もあり、また、不平等条約の締結もありましたし、西欧諸国とも、局地的とはいいながら、薩英戦争や下関戦争を戦っています。多額の賠償金の支払いもあったと思いますが、国土の永久割譲という結果はなかったと理解しています。 この結果の違いは何でしょうか?単に、日本には、市場として、それ程の魅力がなかったということでしょうか? なお、「国土の永久割譲という結果はなかった」という認識は間違っているということであれば、ご指摘いただければありがたいです。

noname#228965
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地政学的な意味は大きかったと思います。こと海(海軍)に関する場合のイギリス人の目の付け所のよさは他国の追随を許しません。アジアでイギリスが拠点とした、シンガポール、香港、上海を見ると実にアジアに海軍を派遣するのに都合のいい場所を的確に選んでいることがわかります。あれから200年が過ぎた今でもこれらの都市はアジアで経済的に非常に重要な位置を占めていることからもそれは明らかですよね。 そんなイギリス人から見ると、日本はもう東側にはだだっ広いだけの太平洋しかなく、呉や神戸は瀬戸内海に入らないといけないのでアジア全体から見るとちょっと使い勝手が悪く、横浜は敵国の首都(江戸)に近すぎます(なんとなればすぐ攻め込むことができ、防御に適した地形がない)。 彼らからすれば日本は「最果ての国」だったのです。ペリーだってなんだかんだいって大西洋からインド洋を渡って日本に来ました。当時は太平洋を渡るのはマイナールートだったのです。パナマ運河もありませんしね。 また日本には鉱物資源などもほとんどなく、彼ら目線からすると平地がまったくといっていいほどなく、まさに「海に山が突き出ている」ように見えたことでしょう。これだと農場にすることだって難しいです。 関東平野はだだっ広いけど、ここは関東ローム層というかつての富士山の大爆発の火山灰があって耕作に適しません。「平らなだけの、痩せた土地」なんです。 その割には最果ての国なのにそこそこに文明国なので、特にちょうど幕末動乱期にヨーロッパではクリミア戦争、アメリカには南北戦争があって「遠い遠いアジアのことなんてかまっている暇はない」となった上、南北戦争が終わると大量の中古兵器が市場にダブついたんですね。するとヨーロッパ目線では「時代遅れの中古品」を日本ではボッタクリ価格でも大量の買い付けが出てきた。彼らからすると時代遅れの型落ち品だからいくら売っても脅威になるわけでもないので、ここは一丁商売で儲けたほうが効率がいい、となったのですよ。 みんな忘れているんだけど、朝鮮半島もガン無視されていますでしょ?日本以上に、どこも手を付けなかったのですよ。

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質問者からのお礼

地政学ですか。位置と地勢が幸いした要素も大きかったということですね。歴史オンチの私には、到底考えの及ばないところですが、歴史を考えるひとつの視点として、少し理解できたような気がします。 質問する前に、当時の朝鮮半島はどうだったのか?ということも気になり、ネットで探してみたのですが、理解できるものを見つけることが出来ませんでした。ご回答で、少し想像がつきました。

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noname#224207
noname#224207

圧倒的な情報量の差です。 日本に魅力がなかった訳ではありません 日本は室町時代以降世界有数の産銀国でした。 アヘン戦争も元はと言えばイギリスが交易通貨としての銀欲しさに仕掛けたものです。 小判や一分金などの金に目を付けたのがアメリカです 幕末から明治初期にかけてアメリカは大量の金を持ち出しています。 下田に着任したハリスは外交官というよりも正体不明の貿易商人でした。 金銀の交換比が国際水準と違っていたことと計量通貨として使われていたことに目をつけてセッセと日本の金貨を集めて持ち出しました。 参考 秤量貨幣 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/秤量貨幣 そもそもコロンブスが大西洋を西へ向かったのも黄金の国ジパングへたどりつくためでした。 アメリカ大陸など見向きもせずのカリブ海でジパング探しに没頭していました。 結果として大陸の名はあとからきたアメリゴに持っていかれました。 参考 クリストファー・コロンブス - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/クリストファー・コロンブス このように日本に関する情報は非常に早い時期から西欧にもたらされていました。 宣教師やオランダからも逐次もたらされていました。 一方日本も幕府は豊富に西欧の政情を把握していました。 長崎のオランダ領事の最大の義務はヨーロッパ情勢の報告です。 オランダ風説書として現在も大量の文書が保存されています。 ナポレオン戦争の一部始終も報告されています。 真偽の裏付けは中国の密貿易商人から得ていました。 清朝はこの密貿易商人を罪人としか見ていませんでした。 とっ捕えて処刑するだけでした。 なんせ中華思想です。西のタクラマカン砂漠の彼方の蛮族など歯牙にもかけませんでした。 更に情報源としては、漂流漁民や難破した商人達に報告書を提出させていたものがあります。 大黒屋光太夫のようにロシアのエカテリーナ2世に拝謁して帰国した人もいます。 ジョン万次郎のように船団の士官級の待遇を受けながら帰ってきた人もいます。 江戸時代を通じて254件の漂流民による情報が幕府にもたらされていました。 この漂流民の報告からアヘン戦争の詳細を翌年には入手していました。 英国兵から聞いた話として、広東での戦争が終われば次は日本だという報告もされていました。 このようなことを知らなかったのは明治維新をやった薩長の田舎下級武士連中です。 坂本龍馬も幕府の下級役人だった勝海舟から海外情勢を教えてもらっています。 井伊直弼がアメリカとの条約に調印したのも、これ等の情報に基づいて判断した結果です。 江戸時代は鎖国をしていた訳ではありません、貿易通商を幕府が独占管理していただけです。 これらの情報を秘匿していただけです。 幕末の戦乱期に幕府へも薩長側へも諸外国から援軍の申し入れがありましたが武器と戦闘技術の導入だけで軍の活動は両者ともに謝絶しています。 つまり、日本には簡単に付け入るすきがなかったということです。 更に、西欧にとっては狭い日本よりも中国のほうが魅力があったということも幸いしました。 広大な領土も魅力だったでしょう。 手間暇かけて小うるさい日本人と交渉するよりも、世界情勢に疎い清朝の役人のほうが扱いやすかったでしょう。 やがてクリミヤ戦争が起きて遥かユーラシア大陸の外れの島国なぞに軍隊をさく余裕もなくなったことも幸いしています。

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質問者からのお礼

そもそもコロンブスが大西洋を西へ向かったのも黄金の国ジパングへたどりつくためでした。……この話は聞いたことがあります。 日本に魅力がなかった訳ではありません……クリミヤ戦争のことは、eroero4649さんのご回答の中にも出てきていますが、「運が良かった」という要素もあるということですね。 大陸の名はあとからきたアメリゴに持っていかれました。……コロンブスの名前も燦然と輝くように今日に残っているのですが、モッタイナイことをしましたね。(*^_^*) 「圧倒的な情報量」が国難を救ったということですか。中華思想を馬鹿にする気持ちはサラサラありませんが、今日の日中、日韓関係などにも影響しているのでしょうね。 「このようなことを知らなかったのは明治維新をやった薩長の田舎下級武士連中です。」……(*^_^*)(*^_^*)歴史オンチですので、ただ「目が醒めるほどにおもしろい」としか表現できませんが、幕末・維新の歴史を考えるときに頭に入れておきます。 「軍の活動は両者ともに謝絶しています。」……士魂ということでしょうか。 皆さんのご回答を総合しても、理由は単純なものではないということですね。 参考になりました。ありがとうございます。

  • 回答No.2
  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1890/9364)

minamiahoudoriさん、こんにちは。 そうですね。それは99年間租借するということですが、意味的には事実上永久に割譲になるということを聞いたことがあります。 また、日本の場合、アヘン戦争後の中国のありさまを見て研究していたということもあるでしょう。 日本はほとんど単一民族であり、支配階級である武士には尊王思想が教育されているので、自分たちが支配している領地は実は天皇からの預かりものであるという思想があるので、領土割譲の案件は幕府や朝廷の意見も聞かなければなりませんでした。また、中国と違って、生糸以外、欧米列強にとって魅力になる産業が少ないことも影響していたと思います。薩英戦争では欧米に対して大損害を与えましたし、下関戦争では領土の割譲をまぬかれました。列強も侮れないと考えました。だから、欧米列強は近代化のインフラ整備ということでお金を取ろうとしたのです。 中国は当時少数民族である満州族が支配階級でした。対して大多数を占める漢民族の反乱をとても気にしていて警戒していました。だから、この機に乗じて反乱を起こされるより、香港島の割譲程度のことで事態が収まれば、御の字と思っていたことでしょう。 詳細は下記のURLを参照ください。 アヘン戦争 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E7%89%87%E6%88%A6%E4%BA%89#.E7.B5.82.E6.88.A6.E5.BE.8C.E3.81.AE.E6.8E.A8.E7.A7.BB 下関戦争 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%A2%E6%88%A6%E4%BA%89 尊王思想 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E7%8E%8B%E8%AB%96 薩英戦争 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E8%8B%B1%E6%88%A6%E4%BA%89

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質問者からのお礼

ご回答にあった「下関戦争では領土の割譲をまぬかれました。」というのが気になって、とりあえず、紹介されたサイトの「下関戦争」をサラッと読んでみました。 「この談判の際に四国連合側のすべての要求を受け入れた高杉が彦島の租借だけは断固として拒否し、高杉の努力によって彦島が香港のような外国の領土になるのを防いだという逸話が有名だが、この話は当時の記録にはなく、ずっと後年になってこの交渉の時に長州側の通訳をした伊藤博文が述懐した話であり、真実か否かは不明である。」……真実であるかどうか、また真実でないとすれば、「何故、伊藤博文が述懐した」のか、その背景が知りたいのですが、やめときます。謎の迷宮で迷子になりそうだから。

  • 回答No.1
  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7191/21832)

"香港は、イギリスに永久割譲されています"   ↑ 永久じゃないです。 99年、借りた、ということです。 その99年目が1997年、というわけです。 ”この結果の違いは何でしょうか?単に、日本には、市場として、  それ程の魅力がなかったということでしょうか?”       ↑ これについては色々な意見がありますが、ワタシは次の ように考えています。 割譲とか植民地というのは、儲けるためにやるわけです。 事実、欧州は資源を強奪し、人民を奴隷にして儲けるために 植民地政策を採りました。 その後、インド独立を端緒に、反植民地運動が盛んになって、 採算が採れなくなり、欧州は植民地政策を 断念するに至りました。 だから、採算が採れるかどうかの判断が重要になります。 日本は資源に乏しい国です。だからあまり魅力は ありません。 そして、当時の欧州の分析では誇り高い民族だと されていました。だから奴隷にするには不適です。 その一方で、当時は武士が支配しており、それなりの 武威がありました。 英国の分析では、日本を占領したら百万の「ローニン」 がテロをして収集が着かなくなる、としていました。 そういうことで総合して採算性が悪い、と 判断したのだと思います。

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質問者からのお礼

質問する前に、アヘン戦争と香港のことをいくつかネットで調べたのですが、「イギリスは香港島を占領となりました。」とか「香港は大英帝国の植民地として設立された。」とか、「香港島が最初に英国に永久割譲された。」とか、いろいろ表現されていたので、「永久割譲」という表現を使いましたが、正式には、「99年間、借りる」ということだったのですね。ご指摘、ありがとうございました。 ご回答から解釈すれば、私の「日本には、市場として、それ程の魅力がなかったということでしょうか?」という当てずっぽうの推量も全く的はずれということでもなかったのですね。ただ、総合的な「採算性」という考え方には及びませんでした。

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