• ベストアンサー

仏教が教える煩悩とは何でしょうか

waysの回答

  • ways
  • ベストアンサー率31% (79/253)
回答No.13

108つの煩悩を、大晦日の除夜の鐘で滅します。 欲望のことでしょう。 愚かしいことに走るのではなく、自分を律して節度ある毎日をということを説いているのが、仏様の教えです。

関連するQ&A

  • 仏教の教えは唯一つ

      仏教は唯一つのことを説いているのではないか。 色即是空空即是色、この世のあらゆるものは空であり、無である。 仏教が説いているのは唯これだけであり、それ以外には何も語っていないのである。 色即是空空即是色、仏教においてはこれが全てであると思っております。 仏教はあの世のことなど何一つ語っていない。 極楽浄土のこと、地獄のこと、人が死んで成仏するとかしないとかのこと、六道輪廻のこと、戒名や戒名料のこと、お題目のこと・・・等々、これらについて仏教は何一つ語っていないのである。 仏教が説いているのは唯一つのこと、色即是空空即是色である。 この世のあらゆるものは空であり、無である。 あの世のあらゆるものもまた空であり、無である。 何故ならあの世はこの世が作り出したもの、あの世とはこの世のことだからである。 故に極楽浄土は空であり、地獄は無である。 これで良いのではないか、これで何の問題もないのではないか。 私はこれで十分であると考えます。 このように考えると極楽浄土も、地獄も、成仏も、戒名も、六道輪廻も、お題目も、・・・およそ坊主の考える一切が空であり無となるのではないか。    

  • 仏教には戒律が有るのか、戒律は有ったのか

      肉食妻帯坊主というのがいます。 いるというより今の坊主は実質100パーセント肉食妻帯坊主でしょう。 ところで仏教には戒律というものがあるのでしょうか。 あるいはそもそも戒律というものがあったのでしょうか。 もしもあったとするならその戒律とは肉食せぬこと、妻帯せぬことのことではないかと考えます。 ではいつの頃からその戒律は消えたのでしょうか。 あるいはその戒律は無意味であるとみなされるよーになったのでしょうか。 実際その戒律は無意味だったのでしょうか。 因みにイスラムのように戒律だけが中身である宗教も存在します。 戒律があるからイスラムは存続できているのです。 一方仏教においては戒律は本質的ではないということでしょうか。 戒律などというものは2次的なものであり、本質ではないとみなしているのでしょうか。 戒律は形であり、形に拘るものは愚かであるという仏教本来の教えなのでしょうか。  

  • 浄土真宗の親鸞は、日本の仏教界を腐敗堕落させた張本人ではないでしょうか

    浄土真宗の親鸞は、日本の仏教界を腐敗堕落させた張本人ではないでしょうか? 親鸞は初めて「肉食妻帯」を行いました。こともあろうに流罪中に結婚したのです。 親鸞には2人の妻がいたという説まであります。 蓮如はなんと5人の妻と関係をもち、27人もの子がいたのです。 「源氏物語」の光源氏は創作でしたが、それ以上ともいえる人物が現実にいたのです。 作家・杉本苑子も蓮如に対し、性に溺れる僧侶の罪深さを痛烈に批判しています。 (これらの場合の妻とは籍を入れる入れないに関わらず、実質的な妻と言う意味) また明治時代の暁烏敏(あけがらす はや)も、性的欲望に翻弄された僧侶でしょう。 「宗教の自殺」梅原猛 山折哲雄 共著 PHP 「真宗大谷派の宗務総長を務めた暁烏敏などは、歳をとって目が見えなくなっても、 まだ女好きがやめられなくて、あっちこっちに若い女がいた。 それで懺悔し阿弥陀様に、われらごとき煩悩多きものをお助けくださいと 熱い涙を流す。そういうのはやはり甘えです」梅原 現在の日本仏教界の僧侶は真宗だけに限らず、日蓮宗も真言宗も天台宗も、 ほとんどみんな僧侶は妻帯者となってしまった。 日本が中国などを侵略したときだけは、彼らの寺院の僧侶も妻帯者とした。 しかし、戦後は妻帯を認めていません。 日本以外の仏教界で肉食妻帯を認めている国はないのではないか? (あるのなら具体的に、ご指摘ください) 本来の釈迦仏教は出家が前提で、妻帯などはもってのほか、女人禁制でした。 愛欲と非難され、異性は修行の妨げだった。 それが日本の親鸞になって肉食妻帯を肯定してしまった。 妻がいれば子が出来るのも自然である。そういった世間の煩雑さに僧侶が巻き込まれ、 煩悩の世界から抜け出せなくなる。まさに生臭坊主ではないか? それを、日本の仏教界全体がほとんど承認し実行してしまった。 これでは修行など出来るものではない。涅槃の境地、悟りの境地など遥かに遠い。 この肉食妻帯は、今や仏教界にとどまらず宗教界全体、宗教団体の教祖にまで蔓延している。 宗教界の腐敗堕落は、肉食妻帯が原因だと思いますが、いかがでしょう? その腐敗堕落の原因の発信源・発病元は、親鸞であると考えますが、いかに?

  • 共産主義が誤りで宗教も誤りだとなぜ断言できる?

    仏教圏ということになってますが坊さんからして肉食妻帯の破戒状態なので実質は無宗教と考えていいと思います で宣戦布告前に真珠湾攻撃したのも731部隊も南京大虐殺もこの世の悪はすべてが無宗教の人です 資本主義もです 日本がバナナ共和国のように扱われなかったのはただの幸運で実力ではないのではないですか

  • 「人の道」

    肉食妻帯坊主しか生み出さん仏教はもはや教えではない。 原爆投下を容認するキリスト教はもはや人の道さえ外れておる。 では残された救いとは何か。 「人の道」 これしか無いんではないかな。 だからわしは初めからゆーておるんや、「人の道」を歩めと。 違うか?  

  • 一致の定理

      一致の定理によるとある微小領域において成り立つ数学的性質は、その微小領域を含むまともな領域全域においても成り立つという。 これはすごい事である。 一致の定理には世界についてのある普遍的な真理が隠されているに違いないと考えてみた。 そこでこれを人間精神に当てはめてみます。 例えば、 ある村に住む坊主が全て肉食妻帯坊主であるなら、日本中の全ての坊主は肉食妻帯坊主であることが導き出される。 ある教会で賛美歌を歌う人の全てが漬かっているなら、日本中の教会で賛美歌を歌う人のほぼ全員が漬かっていることは明らかとなる。 広布の広場に集まり南無妙法蓮華経とお題目を唱える人の全員がアホであるなら、日本中で南無妙法蓮華経とお題目を唱える人の全員がアホであることが分かる。 ある村に住むクソジジイ、クソババアの全員がウザいなら、日本中の全てのクソジジイ、クソババアはウザいことが分かる。 ・・・・などなど。 一致の定理は正しいか。    

  • お坊さん どんな人

    こんにちは 皆さんはお坊さんについてどんなイメージを持っていますか? 私はちょっと幻想的でしょうけど、、味の濃い食べ物や酒類は一切口にせず、女性はとは極力接点を持たず、というようなイメージを持っていました。 実は最近アルバイト先に現役のお坊さんが副業として入って来ました。 この方がなんというか私のイメージとかけ離れた方でした。 もちろん今のお坊さんは肉食も妻帯もほとんど許されているらしいことは知っていたので、上記したイメージほどではないだろうとは思っていました。 しかし、食・酒に関してはやたら詳しく、BARや食事にガンガン人を誘いますし 女の子にはベタベタ触ります。しかも可愛く、おとなしい子を選んでです。 しかし悪い人ではないので嫌いではないのですが、自分としてはやっぱり「お坊さんらしくない人」なので、煩悩が一切無いような、そんなお坊さんっています?と聞いてみたのですが。 そんなやつ清楚ぶった女優が「私電車乗ったことないの」とかほざいてるようなもんだよ。と、言われました。 この言葉を聞いて少し悲しくなりました。煩悩が全くなく、清らかな印象しか与えないようなそんなお坊さんがいてもいいのではないかと思いました。 別に今から全てのお坊さんがそうなるべきだとまでは思いませんが、それが元々のお坊さんのあるべき姿ではないかと思いました。 皆様はどう思われますか?

  • 古典を読んでいますが、仏教がよくわかりません。

    中国古典(論語・春秋左氏伝・老子)と、日本古典(百人一首や枕草子、源氏物語)等を日頃よく読書しています。 仏教聖典や仏教説話を読んだり、子供向け仏教の本を読んでも大して感動したり、仏様はすごいなぁ!とは感じません。 (内容がほぼ理解出来ません) 逆に三千年前から中国は政治を扱っていたなんて、すごい! 千年以上前の平安時代は恋愛があり、男女の仲は素晴らしい! 今でもこれらが残っているなんてすごい!! と感激します。 仏教が好きな方には大変失礼かと存じますが、仏教って何がすごいのでしょうか?

  • 浄土真宗のお坊さんが髪を伸ばしている理由

    親鸞聖人が妻帯も始めたし坊主頭にするのもやめたから、というのはわかるんですが。 でも親鸞聖人は、自分の内面をどんどん内省していったはずです。「自分はどうしようもない人間だ」「阿弥陀仏にすがるしかない」と突き詰めた結果、「坊さんなんていうものにはなれない」という思いにいきついて、結果的に髪を切らないことにした、と理解しています。 そうすると、現代の、職業的なお坊さんたちまでなんで真似して長髪にするんでしょうか。親鸞聖人の理屈でいえば、親鸞聖人を慕うんならば、坊さんになるのでなくて、ただ一介の阿弥陀信者にしかなれないしなる必要もないのでは? もし坊さんとしてプロフェッショナルでやるのなら、いっそ御釈迦様の時代に戻って髪は短くするほうが自然だと思うんですが。 浄土真宗のお坊さんも回答者としていらっしゃるようなので冠婚葬祭カテで質問を立ててましたが、回答がつきませんのでこちらに移動してお尋ねします。

  • 托鉢など他の人々のお布施などによって生計を立てていた仏教者が、あるときからそれでは生活が成り立たなくなり・・・?

    先日ラジオで仏教に関することが話されていました。 初めから聞いていなくて、誰が話しているのかもわからず、最後の方も聞くことができませんでした。 このような状況でしたので正確に聞くことが難しかったのですが、印象に残ったのは次のような話でした。 「托鉢など他の人々のお布施などによって生計を立てていた仏教者(お坊さんなどのこと?)が、あるときからそれでは生活が成り立たなくなり、畑仕事などの労働をする人々も現れてきた。本来出家した人々は労働しなかったが、労働の必要にせまられて、労働するライフスタイルに変わっていった。これは当時の仏教の現代化であった。」 ここで疑問が湧いてきました。 その変化は時代的にいつごろのことか? 当時どのような状況で労働することへの変化にせまられたのか? このようなことに関して詳しい方がいらっしゃいましたらご意見聞かせてください。 恥ずかしながら、私は仏教にあまり詳しくありません。 よろしくお願いします。