• ベストアンサー

浄土真宗のお坊さんが髪を伸ばしている理由

親鸞聖人が妻帯も始めたし坊主頭にするのもやめたから、というのはわかるんですが。 でも親鸞聖人は、自分の内面をどんどん内省していったはずです。「自分はどうしようもない人間だ」「阿弥陀仏にすがるしかない」と突き詰めた結果、「坊さんなんていうものにはなれない」という思いにいきついて、結果的に髪を切らないことにした、と理解しています。 そうすると、現代の、職業的なお坊さんたちまでなんで真似して長髪にするんでしょうか。親鸞聖人の理屈でいえば、親鸞聖人を慕うんならば、坊さんになるのでなくて、ただ一介の阿弥陀信者にしかなれないしなる必要もないのでは? もし坊さんとしてプロフェッショナルでやるのなら、いっそ御釈迦様の時代に戻って髪は短くするほうが自然だと思うんですが。 浄土真宗のお坊さんも回答者としていらっしゃるようなので冠婚葬祭カテで質問を立ててましたが、回答がつきませんのでこちらに移動してお尋ねします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#91724
noname#91724
回答No.1

・・タイトル通りの「ご質問」ですよね? 現在、悟りを開くという本来の意味合いの仏教徒はどれくらいいるんでしょうかね。 お坊さんという「職業」の人が多いだけではないかと思うのですが。 葬式だ法事だ何十何回忌だ、などと意味あってやっているわけではなく、 単に慣習だからやっている(除く葬式)だけで、そこでどのようなお経が読まれていてもわからない。 お経を読む儀式をやっているだけで (肉体を離れた魂にはお経の内容が理解できるらしいですよ(笑) なんかビジネスライクというかね。 仕事としてやっている且つ儀式を遂行する事が大事なのであって、 見た目は重視されないのでしょう。 まあつまり「親鸞聖人の後追い」をしているのではなく、 「職業上依頼を受けて念仏を唱えることが重要」と考えているのでは? 「髪の毛あっても俺の仕事には変わりないぜ」という事なんだと思いますが。 曖昧な回答で申し訳ないのですが、私はこのコミュニティの存在意義は、 このような類のご質問にあると思います。 (googleでキーワード検索すればわかるような質問がなんと多いことか) 故に無理矢理回答させていただきました。

sakurazz
質問者

お礼

どうもありがとうございます。 >お坊さんという「職業」の人が多いだけではないか >なんかビジネスライク 確かにそうなんだろうと思います。いまの仏教に、社会や人を動かすような力なんてたいしてないでしょうし。 ただ、質問させてもらった趣旨は浄土真宗のお坊さんは、髪があることをどう自分で納得しているのか知りたかったということです。ビジネスライクなのは丸刈りの坊さんだって同じですから。 「髪がある=親鸞聖人の姿をなぞっている」というのと、「職業として坊さんをやる=親鸞聖人の思いに反する」という矛盾にどういう納得をされているのか是非知りたかったわけです。 >このコミュニティの存在意義は、このような類のご質問にある ご理解いただいて感謝します。「答えがないことをたずねるな」といって削除要請を出した回答者もいましたがw

その他の回答 (1)

noname#30819
noname#30819
回答No.2

どうも・・・ 前回、回答がつきませんでしたね。 その浄土真宗のお坊さんはこの種の質問には答えないようですよ。 本題に入ります。 浄土真宗のお坊さんと話していると当たり前のように自分たちのことを“出家”というんですが、本来、浄土真宗は“優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)”です。簡単に言えば本物のお坊さんでは無いということなんです。お坊さんでは無いんだから長髪が当たり前です。しかし、そうではない“浄土真宗のお坊さん”もいますね。 で、ご質問の答えは 「長髪がいいから (^^ゞ !」 ってことです。 他宗のお坊さんは一応本物と言うことになってます。 それではゴキゲンヨウ!!! (^^)v

sakurazz
質問者

お礼

どうもありがとうございます。 >浄土真宗のお坊さんはこの種の質問には答えない 布教使の方みたいですが。この手のややこしい疑問はめんどくさいんでしょうか。 >お坊さんでは無いんだから長髪が当たり前 >長髪がいいから 確かにそりゃそうですw ただ、でも皆さんお坊さんとしてやってるしそう自称してる現実と矛盾は感じないんでしょうか。なんかもう少し深い理由がないと、普通納得できないと感じるんですが。都合のいいとこだけ親鸞聖人の名前を使うような風にも受け取れてしまいます。

関連するQ&A

  • 浄土真宗のお寺になぜ聖徳太子?

    浄土真宗のお寺はどこでも聖徳太子を阿弥陀様の横にお祭りしていますがどうしてですか?親鸞聖人が聖徳太子を大変敬われたからだと聞きましたが それはなぜでしょう?聖徳太子は在家の方で親鸞聖人も同じ在家だからだと聞いた事はあるのですが。聖徳太子はあらゆる宗派、一部の神道にまで崇拝され、未来預言やオカルトまがいの話まであります。専修念仏とか阿弥陀一仏礼拝ということに結びつきにくいのですが。

  • 浄土真宗親鸞会って怪しい団体なんですか?

    うちは浄土真宗西本願寺派です。 私自身、中学・高校と西本願寺派の学校に通っていました。 新聞の広告で、ちょっと気になる本があったので読んでみました。 「親鸞聖人の花びら 桜の巻/藤の巻」 「思いやりのこころ」 「幸せのタネをまくと、幸せの花が咲く」 これらの本を読んでいる間に、この三作が全て「浄土真宗親鸞会」という新しい(?)宗派の人が書いたものと分かりました。 本自体の感想としては、「思いやりのこころ」と「幸せのタネを~」は普通に読めたのですが、一番期待していた「親鸞聖人の花びら」は、 「あれ?親鸞聖人の教えってこんなんだったっけ?」 と思って中学高校時代の仏教の聖典や教科書を引っ張り出して見比べるところもありました。 (とは言っても元が難しい文章なので解釈の違いと言われればそれまでですが…) ネットで「親鸞会」で検索すると、被害者の会のサイト、元はものすごく怪しいと思っていたけど今はすっかりハマっている人のブログ、など色々出てきます。 特に後者のブログでは、最初は本願寺派の住職が「そこは怪しい」というので「やっぱり怪しいんだ!」と思ったところ、実際に講演とかを聞いたら「こっち(親鸞会)が正しい、今のお寺は親鸞聖人の教えを正しく教えていない」と思うようになった、ということが書いてありました。 私はここ数年、身内や親類の不幸が多くて、お坊さんのお話を聞く機会も多かったのですが、確かに「このお坊さん大丈夫かな?」と思う人もいます。 かといって本願寺派を否定するつもりは全く無いし、中学高校には僧侶と教師を兼任している人もたくさんいて、その中には本当に信頼できる人もいました。 親鸞会に肯定的な意見の人のサイトを見ると 「カルト宗教なんかではない。今のお寺が教えない、本当の親鸞聖人の教えを広める会だ」 という話なんですが、実際のところどうなんでしょうか? ご存知の方教えてください。

  • ひろさちやは浄土宗?

    Wikipediaによると浄土宗と記載あり。 昔、30年前、彼は。 親鸞聖人の真宗門徒の記憶が・勘違いでしょうか?

  • 坊さんの頭(髪)、伸ばしてだめなんでしょうか?

    少し前からお坊さんとお付き合いしてます。 とてもいい人なのですが、なかなか慣れないことが一つあります。 それは頭に髪が全くない=スキンヘッド。 (注:ハゲではないです。髪は生えるのに剃る) ふつうに丸刈りくらいならいいんですが、まったくつるつるで、 自分にはかなり違和感があり、どうしても見慣れないんです。 人は見た目じゃないっていわれればそれまでなんですが・・ ちょっとくらい髪って伸ばせないんでしょうか。 何となく遠慮してしまい、髪型のことは本人に聞くに聞けません。 浄土真宗の坊さんは髪型自由らしいです。 彼は曹洞宗、坊さんになって4年位です。 一生ツルツルなんでしょうか・・?

  • 浄土真宗大谷派のお坊様に、新盆の法要をお願いするについて

    浄土真宗大谷派のお坊様に自宅に来ていただき、新盆の法要をお願いしたいと考えているのですが、とても、複雑な状況なので、どなたか、下記に記載のような場合に、どうしたら、良いか、知っていらしたら、教えていただきたいのですが。 今年主人が亡くなり、葬儀は、私が、喪主で、行ったのですが、主人の母のたっての願いで、納骨は、義父の入っているお墓に入れることになり、私の両親や親戚からは、主人が、独立して生活しているのにそれはおかしいのでは、といわれたのですが、義母は自分の意志を曲げない性格のため、終始「浄土真宗は自由ですから、お宅様は、宗派が違うので、わからないかも知れませんけど、いいんですよ。」と言うので、そのまま、お骨と一緒にあった、埋葬証書(と言ったか、サダカではないのですが、お役所から、頂いたものです)をもって行ってしまいましたので、もう納骨は、義父のお墓に入れるしかないとあきらめたところ、仏具屋さんに、分納すればいいとアドバイスをもらい、小さな、分納袋を購入し、母が取りに来る、前日に、少し、お骨を入れました。このことは、義母には内緒でしました。 そして、大方のお骨は、そのまま、義父のお墓のある、公営墓地へ納骨しました。その後、四十九日法要には、一般参列者と言う扱いでしたが、子供と私とで、参加させていただきました。ところが、先日、もう他人ですから、私や私の両親等には、新盆に参加していただく、必要はないと義母から、電話があり、私と子供は、新盆に参加できないことになってしまいました。そのため、私のほうで、私の親戚を呼んで、ささやかでも、新盆法要をしてあげたいと考えたのですが、いざ、そう考えても、お葬式に来ていただいた、お坊様は都内の方ではなく、お葬式の後に、義母が、いろいろと納骨の件で、申し立て、結局、その後、お呼びする機会を作れませんでしたので、いまさら、お呼びしていいのかわからず、できれば、自宅の近くのお寺様へお願いしたいと思うのですが、檀家になっていなくても、きていただけるものなのか、また、このような状況で、分骨したものは、どうしたらいいのか、など本当に、わからないことばかりです。また、費用もどれほど、かかるものかもわかりません。まだ、お位牌があるのみで、阿弥陀如来様をおまつりしてもおりません。と言うのも、住まいが変わる予定なので、仏壇は、引越し後に、小さいものを購入しようと考えていたからなのですが。そのような状態で、お坊様をお呼びするは、やはり失礼になるのでしょうか。 実家は日蓮宗で、浄土真宗のことは、私も両親もわからないことだらけです。どなたか、ご教示頂ければ、幸いです。どうぞ、よろしくお願いいたします。

  • 浄土真宗の親鸞は、日本の仏教界を腐敗堕落させた張本人ではないでしょうか

    浄土真宗の親鸞は、日本の仏教界を腐敗堕落させた張本人ではないでしょうか? 親鸞は初めて「肉食妻帯」を行いました。こともあろうに流罪中に結婚したのです。 親鸞には2人の妻がいたという説まであります。 蓮如はなんと5人の妻と関係をもち、27人もの子がいたのです。 「源氏物語」の光源氏は創作でしたが、それ以上ともいえる人物が現実にいたのです。 作家・杉本苑子も蓮如に対し、性に溺れる僧侶の罪深さを痛烈に批判しています。 (これらの場合の妻とは籍を入れる入れないに関わらず、実質的な妻と言う意味) また明治時代の暁烏敏(あけがらす はや)も、性的欲望に翻弄された僧侶でしょう。 「宗教の自殺」梅原猛 山折哲雄 共著 PHP 「真宗大谷派の宗務総長を務めた暁烏敏などは、歳をとって目が見えなくなっても、 まだ女好きがやめられなくて、あっちこっちに若い女がいた。 それで懺悔し阿弥陀様に、われらごとき煩悩多きものをお助けくださいと 熱い涙を流す。そういうのはやはり甘えです」梅原 現在の日本仏教界の僧侶は真宗だけに限らず、日蓮宗も真言宗も天台宗も、 ほとんどみんな僧侶は妻帯者となってしまった。 日本が中国などを侵略したときだけは、彼らの寺院の僧侶も妻帯者とした。 しかし、戦後は妻帯を認めていません。 日本以外の仏教界で肉食妻帯を認めている国はないのではないか? (あるのなら具体的に、ご指摘ください) 本来の釈迦仏教は出家が前提で、妻帯などはもってのほか、女人禁制でした。 愛欲と非難され、異性は修行の妨げだった。 それが日本の親鸞になって肉食妻帯を肯定してしまった。 妻がいれば子が出来るのも自然である。そういった世間の煩雑さに僧侶が巻き込まれ、 煩悩の世界から抜け出せなくなる。まさに生臭坊主ではないか? それを、日本の仏教界全体がほとんど承認し実行してしまった。 これでは修行など出来るものではない。涅槃の境地、悟りの境地など遥かに遠い。 この肉食妻帯は、今や仏教界にとどまらず宗教界全体、宗教団体の教祖にまで蔓延している。 宗教界の腐敗堕落は、肉食妻帯が原因だと思いますが、いかがでしょう? その腐敗堕落の原因の発信源・発病元は、親鸞であると考えますが、いかに?

  • 真宗のお坊様とのセックス

    お坊様を尊敬し敬いながら、デートをして、日夜そういうことになってしまいました。 抱かれているとき、聖なるものに生贄のように貪られている感覚があり アンチクリストの儀式を彷彿したほどショックでした 尊敬心がその結果薄れてしまい、男として対処すること、そして仕事上の対面への 気遣いなどから傷心、疲労困憊となり、通常のお付き合いができないこととなり お断りをしてしまいました。 お坊様として尊敬してやまないのに、女としてしか扱われず、頭の中と体の火照りから 相手にも大変混乱したようすを見せてしまいました。 どんなに崇拝して究極の愛を捧げたかったか それは言葉にはとうてい表すことができません 神への愛と同じ神聖なものが私の中で崩壊し、穢された気持ちでいっぱいです。 牧師様、僧侶様、私の敬虔な思いを上からやさしく包み込んでくださる超人だと 期待していた私が間違っていたのでしょうか。 実際には、このお坊様は女遊びをされているようで、不誠実な方でした。 二重に深く傷つきその思いを相手にぶつけましたが、理解されませんでした。 真宗では女犯はない、とのことですが、本来仏教おおもとの教義では妻帯どころか 姦淫は許されないと理解しています。パルマの僧侶のように、聖なる修行を積む そういうのが本来の姿と学んでいました。 寺嫁になれば、僧侶は内面的にも理解をされる寛容な職業という噂を聞き、長い目で お付き合いを本気に考えていました。 でも、一度抱かれてしまえば、もう一線を越えてしまい、仏を誘惑したという罪悪感と 男女間のどうしようもない錬金術で恋しくて気が狂いそうでした。 私からお別れを申し上げて、そしてとても苦しみました。 今でも尊敬し愛しています。でも、内面の葛藤から私一人では乗り越えられず 相手の僧侶にもその苦しみを理解して欲しいのです。 今となっては相手にこのメッセージを伝えることもできません。 これほど愛したことはありません。尊敬と崇拝と錬金術、忘れることはとうていできないでしょう。 宗教心がなければこれほど苦しまなかったはずです。 お坊様、私の心をご理解ください。 親鸞聖人のようにもっと冷静に受け止めていただきたかった。 残念でした。 みなさま、この話を読んでどう思われるか、そしてどのようにして 相手にこの思いを伝えるべきか、ご指導ください。 参考にさせていただきます。 拝

  • 真宗大谷派に於ける名前の「由来」について

    真宗大谷派のお門徒ですが、名前に対し非常に「違和感」がありますし、また純粋に疑問にも感じる為、お尋ねします 1 「真宗」の由来について 教祖は御存知、親鸞聖人ですが、学校では「浄土真宗」と習った筈ですし、世間一般の認識はそうであると思います なのに何故「名前が真宗」なのか?これではまるで自ら「傍流?」である!と宣言しているようなもの、お西さんの勢力が強力な為に「浄土真宗」を名乗れないのか? いや、単に「名前」なんですから、そんな事はないでしょう、親鸞聖人が呼び名を「浄土真宗」或いは「真宗」の両方を認めたのか? 仮に、そうであったとしても「世間一般」の認識が「浄土真宗」である以上、その名を堂々と名乗るべきだし、それが真宗大谷派にとり大きなメリットになる筈 なのに、何故名乗らないのか?非常に疑問を感じると共に、不満に思う所です その不可解な事柄に対する「本当の理由」は何なのか? 2 「大谷派」の由来について 派閥の名前と言えば、例えば、政界では「中曽根派・三木派」といったように「人物」の名になる筈 で、この大谷というのは、京都の大谷という名の「地域」とか?・・・正しいかどうかは知りませんが もし、そうだとしても、名前で派閥を名乗るのは、全く持って「合点」がいきませんし、とても派閥とは思えず宗派であるとも思えません なのに何故、このような名前になっているのか?恐らくは「歴史上」の意味では?と、思うのですが、もしそうであれば、そこの所の「本当の理由」を詳しく知りたいものです 以上2点、書かせて貰いましたが、無論「不満」をぶつけている訳ではなく、あくまでも「純粋に本当」の事を知りたいと思っておりますので、そこの所は、どうか誤解無きよう願います 「正確に理解しよう!」と思えば、恐らくは「歴史」を詳細に把握するしかないのでは、と思っておりますが、詳しい方、どうぞ宜しくお願いします

  • 奥の院の親鸞聖人の墓について

    どこでお伺いしたらよいのか分かりませんでしたので、ここでお伺いいたします。 以前、高野山の奥の院に行った時、親鸞聖人を墓を見つけました。どういういきさつで、浄土真宗の親鸞聖人の墓が奥の院にあるのか、とても知りたいです。 もし、お知りの方は教えてください。 よろしくお願いいたします。

  • お坊さんとお経について質問

    今日、浄土真宗の葬儀に参列しましたが、次の素朴な疑問に答えてください。 1)今回のお坊さんは、頭髪を剃っておらず、常人と全く同じヘアスタイルでした。浄土真宗では頭髪を剃る習慣がないのでしょうか? そもそも仏教の坊さんが頭髪を剃るのは、規則ではないのでしょうか? 2)通夜では阿弥陀経(?)が読まれましたが、鼻にかかったあまりカツゼツのはっきりしない読み方をされました。なんで、あんな発音をするのでしょうか? それともたまたまあのお坊さんのくせだったのでしょうか? 3)キリスト教の葬儀なら、参列者に式次第(文章・賛美歌)が配られ、参列者一同で読みあげたり、歌ったりするのに、なぜ仏教では、意味不明の(現代日本語でない)お経がお坊さんだけに読まれ、我々はしびれ足をこらえて、聞いているしかないのでしょうか? (私は、般若心経などを声を挙げて読むのが大好きなのですが・・・)