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Fランク大学の意義と日本の教育のあり方
- Fランク大学とは、大学運営に問題のある大学のことを指し、就職に難があるなどの理由から低評価されています。しかし、教育の機会を広げる観点からは意義があるとも言えます。
- 大学全入時代においては、ある程度の教育を受けることが可能であり、再教育の機会を提供する役割も果たすことができます。
- 日本の教育のあり方については、教育の質や学生の選抜方法などに課題がありますが、多様なニーズに応える教育制度の充実が求められています。
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こと大学進学に関しては、「少子化」は言い訳に過ぎません。この後本格的に減ることは分かっていますが、数年前までは大学進学希望者数自身が大幅に減るという現象は起きていませんし、大学進学率も大きく増えているわけではありません。少子化を支えるくらいに高校進学率が極限まで増えてきたことと高校中退者への手当てが進んだ が大きかったみたいですよ。あとは浪人生の減少ですかね。浪人のママ進学をあきらめる層が皆無に近くなりました。どーせ受からなかった人が減っただけかと。 ご質問にFランクという言葉があるので、これを前提に回答しますね。 Fランクとは、某予備校の実施している某模試の精度の問題で、その模試では弁別がつかず、最低点をとった人でも合格者がいる大学を指します。その模試で判定基準ラインを引けない大学に対して、判定としてFを出したことに由来します。 決して、名前がかければ誰でも入れるとかという意味ではありません。 で、この定義でいうと、これに相当する入試の定員って、全部足しても数千人のオーダーで、そういう入試をやっている大学の定員全体に広げても数万人程度の話です。早慶や明治、東海、帝京などだと1つの大学相当の規模しかありません。 専門学校のような専門的な内容ではなく、高校の延長ではなく、小学校や中学校のやり直しをさせる、学び直しの大学があっても私はこれくらいの規模ならいいのかな、と思います。 学生が「研究」をしているわけではないですから、その手の大学の代表みたいになっている日本橋学館みたいに、そういう学生を教え社会に送り出す技術を磨く「研究」や「実績」を行っているところも、十分に社会的に役立つ「研究機関」だと思っています。先に挙げた、どーせ受からなかった層 を現役で受け入れて使いものにする研究が進んだのかと。 日本では、大学進学ができるかどうかは、学力よりも家庭の資金力に拠っています。模試をやっているとよく分かりますが、卒後即収入が得られたり在学中も返還不要の奨学金がもらえる看護学校を志望校にしている子たちの中には、早慶の合格ラインを軽く叩き出している人がけっこう多くいます。その手の子は予備校的な情報に乏しいし、受験用の学参も多くは買えないので、どこまで勉強したらいいか分かっていない状態で、どこまでも勉強をしてしまっているみたいです。 ネットのスラングのFランクまで大学の対象を広げたとしても、問題はそっちにあるのではなく、本来、東大や早慶に行くべき子が金銭都合で行けず、単に予備校で教え込まれただけのような才能や自律のない子が金銭で買った受験環境で大学に受かるためだけの学力をつけて行けてしまうことのほうが問題だと思います。所詮ドーピングでレースに勝ったような付け焼き刃ですから、大学が欲した子ではないわけです。東大はとうとう学力入試を諦めて、推薦入試を始めるようになってしまいました。 日本はODCA参加国の中でも大学進学率はかなり低い方になります。進学率に問題があるわけではないと思うので、公立高、国立大の学費を0にする、低所得の親の子に直接生活保護を与えるなど、もともとの資質の高い子が思いっきり勉強ができる環境を整えたほうがいいです。
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- Akesimu2149
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研究なんて成果が出るのに最低でも10年はかかるのに今研究設備すらない大学なんて、 まず第一にまともな研究者は集まらない。 当然、研究設備を整えようにもその知識を持った人間がいないってことになる。 さらに、国から研究費をもらうこともできない。審査に通らないから。 研究できないから、まともな教員もそろえられない。 教員がそろえられないから研究設備もそろわないまま。 この悪循環を最初に作り出したのは大学側、 作るときにはまともな教授が必要なので 名前貸しみたいな感じで作るときだけいてもらって、すぐにいなくなってしまう。 教員も研究設備もそろわないから、学生を増やしようがない。 こんな状態で、これから20年以上子供の人口が減り続けることが確定してる。 こんな負け戦に誰が投資すんだよ。 このリストは文科省の人間が天下って、金をもらいにいきますというその口実でしょ。 Fランク大学の存在意義はつぶれるまでの間文科省の人間に金を吸い取られることですよ。
お礼
確かに、俗称Fランク大学の設置には、文科省など省庁関係者の天下り先という意味合いがあるのかもしれませんね。 ただし、研究設備に巨額の資金が必要になるのは理工系や医療系などの学部であり、人文系の学部においてはそれほど設備費は必要はないように思います。 日本の大学のことを考えていると、やはり先進医療や理工科学系などの研究ばかりがどうしても報道や世間的認知など先行しているように思うのですが、ある意味で巨額の投資がなくても可能な人文系の研究分野にこそ、俗称Fランク大学の活路はあるように思います。 ですから、人文系の研究分野に対しての世間的認知度をあげることもそうですし、社会的貢献度などを大学側や研究者側がもっと社会に向けてPRする必要があると思います。 そういった人文系の研究への理解は、日本全体があまり高いとは思えないと感じますね。ある意味で数値化しやすく社会への効果が見えやすい工学系などの研究ばかりが一般的認知としてあがっていくようでは、役人を否定したくとも、世間の人々の多くも結果として役人と同じところしか見ておらず、否定できないようにも思います。
書き忘れ。 >たとえ大手有名難関校であっても・・・ 底辺校の経営難とおなじく問題だとぼくが思っているのは,東京の大手で「定員超過」が著しいことです。要するに,「入りたいという学生がおおいので,制限を緩めて入れちゃいました。授業料もよけいに入って濡れ手に粟,ごっつぁんです」。 大学の学生定員は,文科省の許認可を通じて,教員数や設備床面積などから算出された値であって,厳格に守らなければいけない性質のものです。たとえば,座席指定の映画館で座席数をこえるチケットを販売し,「座れない人は通路で立ち見してください」とアナウンスすれば,客は激怒しますよ。それと同じことをしているのです。しかし,学生が激怒してストライキを起こさないのは,「おいらも有名大の学生になれた」だけで喜んでいる,ちょっと脳味噌が足りないやつばかりだからといえそうです 笑。
お礼
文科省のリストの方でも、結構な数、定員超過での入学に関しての指摘がありますね。 確かに大学側としてはおいしい話です。 ただ、先のpassersby2さまのご回答に合わせて、となりますが、大学定員のカラクリをもう少し緩和しても良いような気がしました。 たとえば、最大定員と経営上最低限必要な定員というのを大学の内部的に設けて、大学側が求めるある一定水準を突破できていない受験生は、仮に定員割れを起こす(数字上では最大定員を合格者が下回る)こととなっても不合格にしてもいいのでは、と思ったりします。 日本ではほとんど実例がないかもしれませんが、予備定員のような形で、1年間の特別カリキュラムのようなものを組んで一定の水準を満たした後に、正式入学にする、というような。 定員を大きく超過するような有名かつ難関大学ではできないことかもしれませんが、定員割れを起こしている学力水準の低い私立大学などの方が、そういった取り組みはしやすいのかもしれない、とも。 もっとも、現行の法的にそれができるのかは知りませんが…。
No.3の補足。リプライもありがとうございました。 じつはぼくの回答は,質問に直接的には答えていないのですね。 底辺大学で問題になっているのは,ひどく低レベルの授業を「学士の学位を与えるための要卒単位」として行っていることであって,「補習授業」として行えば問題はないのです。そういう補習授業なら,高校でたとえば「生物」を履修しなかった理系学生(医学部生にもいるから笑っちまう)のための「基礎生物学」や,「英語」単位数が少ない農業・商業高校などを卒業した農学部生・経済学部生を対象とした「基礎英語」として,国立大学でも開講されています。ただし,その時間当たりの単位数は,大学一般教育水準の「生物学」や「英語」の半分とされ,成績に「A」(優)はつかないはずです。 底辺の私立大学は,学生が来ないので経営があぶないところがおおく,こういう手当ができないのです。教育予算,研究予算,図書購入数,光熱水道費などを片端がら切りつめる(夕方になると元電源を落としてしまう)。入試でも,もはや競争入試が成立しなくなるし,受験料収入もあまり稼げない。 教員も,事務的管理がうるさく学生指導に手間がかかるため,機会があれば他大学に逃げ出します。その結果,長期在職者は「教員公募の公開市場で値がつかないガラクタ」がたまっていきます。教員公募をかけても応募者が少ないので,理事長などが縁故で「ガラクタ予備軍」(とくに実学系学部で実務経験者)を連れてきます。そんな職場に,だれが勤めたいと思いますか。「悪貨は良貨を駆逐する」というわけ。 こういう総合的で構造的な問題があるのです。予算を確保するためには,「底辺校ほど授業料が高い」とするのも一理あるでしょうが,ますます学生は来なくなります。国の補助金をつぎこむ方法もありますが,それよりもぼくが前に書いた義務教育へつぎ込むほうがいいと思います。 しかし,私立大学は,たとえ大手有名難関校であっても,これらの構造的問題からフリーではありません。たとえば,指定校推薦入試は,みずから学生を選抜することを放棄し特定の高校と癒着した,「いんちき入試」です。どんなにあがいても,教員一人あたりの学生数は国公立大学よりも多くなり,指導が手薄になります。非常勤講師でまかなう授業もおおいです。ぼくは(知人から「出講してくれ」と拝み倒されて)非常勤講師料を稼がせてもらったほうですが,常勤としては決して勤めたくはありませんね。
お礼
構造的に、大学経営そのものが負のループになっているのですね。 そして、どの大学にもそこそこ有名な教授などもいますし、そこそこおもしろい講義もあると思いますが、同じくどこの大学にも、なぜこんな人が大学教員なのか、と資質を疑うようなガラクタ教員もいれば、まったく面白くもないし何にも結びつかない講義も存在しますね。 英語を例にあげれば、実際、私が過去に通っていた大学でも、「なぜ大学生なのに高校生レベルの英語がわからないの?」と英語の非常勤講師がやる気をなくすような授業実態(学生実態)もありましたし、またそういった学生個々のレベルを考慮し、学科や専攻などを横断する一般教養的な部分では、同一単位でもレベル分けがされ複数のクラス選択ができるようになっていました。 あと、たしか必修だった体育も、体育系が得意な学生の集まる体育と、可能なかぎり運動をしたくない体育と…。体育系が得意な方のクラスは球技や武道などの演習から指導方法、危険管理などまで幅広い内容が詰め込まれていましたが、体育が苦手なクラスは、1年間、ストレッチとダンスだった、とか。
- f272
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「Fランク大学」の意義は、社会に出ても使い物にならないような人間を集めて、社会的な不安を取り除くことにあるのでしょう。この役割を果たすためには大学である必要はなく、職業訓練校でも、企業に分散させてもいいのですが、今現在にFランク大学があるのですから、それを活用するのはいいことです。 何にも所属できていない人間が増えて、無職でプータローという人間がそこらじゅうにいる社会は危険です。
お礼
学力水準が著しく低い大学、というのの活用方法として、職業訓練とまでになってしまうと、やはり専門学校などの意味がなくなってしまうので、どうするんだろうか…などと思っていますが、そういった大学が半ば社会ボランティア的になっていくのは可能性として重要であるように思っています。 しかし、必ずしも俗にFランクとされるような、学力水準が著しく低い大学の出身者、もしくは大学に進学していない者が無職である、というところにはまだ疑問符が残っていたりもします。 ご回答ありがとうございました。
- sparkle719
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Fランでも卒業すれば大学卒と言う扱いですよね。 高卒よりも学歴は上という肩書きができます。
お礼
ご回答ありがとうございます。 Fランクでもやはり肩書きのうえでは大卒ですね。 そして、「あの人は大卒なのに使えない…」と言われてしまう要因でもありますね。 ただ、企業の採用担当などをしている知り合いによれば、地方都市などではFランク大学では知名度が低く、パッと見の書類の段階では判別がつきにくいので、それよりも出身高校などを見る、という話もあったりします。 要するに、知名度のない大学の名前だけで「大卒」だからOKとするよりも、出身高校が地元であるか、また地元の中でも優秀な高校なのか判断したり、または工業高校などの出身である、という部分を優先したり、などなど、いろいろあるようです。 このように、確かに「大卒」という肩書きは一般的に使えるようでいて、無名の大学になってしまうと、地方都市ではむしろ地元の高卒と大して変わらない、という話も聞き、そうなると「Fランク大学」の意義がなくなってしまうなぁ、と思いました。
- GIANTOFGANYMEDE
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まず『Fランク大学』という言葉は質問者さんが書かれている通り俗称です。定義はその使用者によって異なります。極端な場合だと「東大以外全部Fラン」と言う人もいますからね。 とりあえず質問者さんの意図が本来の定義である「BFの大学」を指しているものとします。 当然、Fランク大学は最初からBFの大学を目指して設立されたわけではありません。それどころか、以前は偏差値がついていたのにBFに転落したという事例もあるでしょう。 文科省の当該文書にも数多く出ている、定員充足率が低い大学はBFだったりBF予備軍ですね。 Fランク大学の意義や価値を挙げよと言われれば幾つも提示できると思いますが、私が一番に挙げたいのは、教育水準が高いほど社会は安定するということです。 最終学歴別に犯罪発生率を比較すると、単純に高学歴になるほど発生率は低下します。 大卒の刑務所入所者数を1とすると、高卒は5、中卒は30です。 高等教育就学率は昭和50年から昭和の終わりまでがほぼ横ばいで、平成に入ってから急激に上昇しています。そして高等教育就学率と同期して、少年犯罪は横ばいから急激に減少しています。 俗に『教育問題』と言われる事柄は大きく分ければ三つの要素から成り立っていると考えます。 三つの要素とは、家庭教育、学校教育、社会教育。 最も重要なのが家庭教育であることは言うまでもありません。 勉強する子、勉強出来る子に育てるのは学校の役割ではなく家庭の役割です。 ルールやマナーを教えるのも家庭が主であり、学校や社会は補完する立場です。 Fランク大学をFランク大学のままにしておくか、レベルアップしていくかは大学の問題と言うよりは入学者の問題です。極端な話、日本中の受験生全員が東大合格レベルになれば、Fランク大学だってアルファベットだの分数だのをやる必要は無くなります。 根本的な問題は、これから子どもを産もうとする若い親に対する子育て教育がなされていないことです。 最も重要な部分をほったらかしにしているから、馬鹿な親が馬鹿な子どもを再生産するのです。 私は長年地域の青少年育成に関わっていますが、小学生段階ではどの子も理解力に大きな差はありません。 正しく育てればどの子も東大レベルになれます。 そうならないのは小学校高学年から中学にかけての勉強に取り組む姿勢の問題であり、そこに至るまでの子育ての問題です。 マスコミはよく教育格差に経済格差をからめたがりますが、それは嘘です。東大でも早慶でも塾や予備校の世話にならずに入学した学生が大勢いるのですから。 多くの子どもが能力はあるのに馬鹿な親に強制的に馬鹿に育てられている。 いまFランク大学に通っている学生だって、ちゃんと育てればノーベル賞級の学者になっていたかもしれません。 簡単に解決できる問題だと思いますよ。 インターネットがあるのですから、妊娠した母親、そして父親に毎日1時間の通信教育を義務付ければいいのです。10ヶ月あれば子育ての要諦を伝授することは簡単です。そんなに難しいことではないのですから。 国にせよ地域社会にせよ、肝心なのは『人』です。人こそが最大の資源です。 人を良くするのも悪くするのも親です。 Fランク大学は馬鹿な親のツケを払わされているに過ぎません。 それでも社会の安定を考えれば無いよりはマシでしょう。
お礼
家庭教育は重要かもしれませんね。 しかし、家庭教育を補完するのが学校教育であり、その学校教育を補完するのが社会教育であって、また社会教育を補完するのが学校教育であって、といったような状況にあるのでは、と思うところもあります。 そしてまた同意する点として、仮に家庭に経済力がなくても、また周辺に学習塾などがない状況の中で、特別な教育をお金を払って受けることなく、ごく普通に学校教育のみで難関大にいとも簡単に合格してしまう学生も少数ではないですね。 ですが視点を変えると、みんな最初はデキる子だが、落ちこぼれた子を再びデキる子に戻すには、やはり学習塾などの必要もあると思うので、あながち経済格差と教育格差は無関係と言い切れるものでもないように思います。 大学全入時代に入って、そういった意味でなおさら、経済的に余裕のある家庭であれば、「バカな子でも親がお金さえ払えば入れる大学がある」となってしまうので、難関大レベルにおいては経済格差はさほど大きな問題にはならないかもしれませんが、中堅~下位レベルでの大学となると、結局、お金を持ってる家庭の方が選べる大学の選択肢が多いとも言え、そのあたりでは高等教育を受ける機会の格差として、経済格差も影響する要素のひとつであるように思います。 ただ、やはり、それが親であるか教師であるか、それとも自治会や町内会などでの人とのつながりであるか、その属性は置いといて、それらに共通して存在する「人」という部分の重要性は、大事な認識であると思いました。
補足
すでにお礼を差し上げてしまったので、補足からのコメントで申し訳ありません。 >極端な場合だと「東大以外全部Fラン」と言う人もいますからね。 なるほど。ただ、これって東大生自身や東大出身者なら言えることですね。東大出身というブランドを維持するために「東大以外全部Fラン」と言いたくなる感じはわかります。ですが、東大生ならば日本のすべての大学に合格できるか?と言われると、そうではないことも多々ありますね。 「私は東大しか受からなかったんです…」なんて学生もいそうな気がします。
- tkycpt
- ベストアンサー率7% (69/901)
何ランクでもいいですが、自分の教育レベルに会ったところに行くのがいいと思います。 もし、Be動詞を教え直してくれるところの方がいいのであればそこでもいいと思います。
お礼
そうなんです。私も、ふと、そう思ったりします。 もしも、be動詞のような、英語の最初の一歩でつまいづいてしまったような学生でも、その学生を受け入れる大学というのがあることはある意味でありがたい、と。もしかしたらそれも大学としての「柔軟な姿勢」なのかも…と思ったりします。 それぞれの学生のレベルに合わせて、ある程度のお金を払えば大学に行きたい人はいつでも大学に入れる…という状況は、もしかしたら学生にとっては幸せなのかもしれませんね。
- kngyk
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大学も商売なので、しょうがないですね。 学生やその親が消費者としてしっかり見ることと、企業も学生の採用時にその人となりまでよく見ることができるような採用方法を取ればいいと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 今や国公立大学も法人化して久しいですし、やはり「大学運営」が「大学経営」へと変わったのは大きいのかもしれません。 たとえ学力がかなり低い大学であっても、逆に学力の低さを売りにして、とりあえず「大卒」という肩書きが欲しい学生が集まってくれれば、入学定員を入学者が下回るようなこともないのかもしれません。 ある意味で大学側が、もっと開き直って、「うちは全国最低水準の大学ですが?」という謳い文句で経営できれば、もしかしたら活路はあるのかも、などと思いました。
まずは義務教育をしっかりさせるべきだと,ぼくは考えています。これは底辺大学だけの問題ではなく,成人日本人全体で,公立高校の入試問題が苦労せずに解ける(中学生時代にその水準に達し,その学力が何十年も定着している)人がどれくらいいるでしょうかね? そこそこの有名大学卒でもあぶないと思いますよ。もし自信があれば,豚児を塾通いさせなくても家庭教育できるはずですしね。 さらに大学入試センター試験になれば,そこそこの有名大学在学生でもあぶないだろう 笑。義務教育(事実上は高校も含む)充実のために予算を使うのは賛成です。しっかり勉強した高卒なら,大学に行かずに就職していいと思います。ぼくは大学教員だから自分の首をしめる発言になりますけど。 国立大学教員として迷惑千万なのは,底辺だろうが国立だろうが「大学」と一括して,実態調査や評価が行われることです。常識的にアホみたいな評価項目ばかりですが,それにもきちんとデータをそろえて回答しなければならず,おそろしい時間と神経を浪費する(管理職のひとりとして評価対応委員になれば)。しかし,アホみたいな項目に「×」がつく大学もあるということなんですよね・・・。
お礼
そうですね。義務教育の重要性は第一かもしれません。 というのは、義務教育における学校の定期テストの100点(満点)とは、「どれだけ勉強ができるか」ではなく「どれだけ授業を理解しているか」ということであり、本来ならば得点ではなく達成度(%)で表されるべきものだ思います。要するに、授業で教えていない高度な内容をテストに出すのではなく、あくまでお授業で示した範囲の理解を確認する意味で定期テストを行っているわけですから… ですので点数が悪かったとか平均点くらいだとかで優劣が決まるのではなく、100%に近い達成度を示せない限り、その子の学力は義務教育の水準を満たせていないに等しいことになりますからね。 ですが、半ば高校もほぼ義務教育化している状況ですが、学習の範疇で考えたとき、高校までもを義務教育的にとらえる必要はないかもしれません。中学までの義務教育がある意味で徹底された場合には、高校であれば、授業の理解度や達成度を測るテストではなく、本人の学力+思考力を測るテストであっても構わないと思います。 逆に言えば、高校が、義務教育の次の水準での教育の現場なのか、それとも義務教育の水準を再教育する場なのか、というように、そこで選択肢があればよいのであり、高校の授業の見直しによって、いわゆる「Fランク」とされてしまう大学での教育レベルも改善されるのかもしれませんね…。
- hiraganagennnai
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moritaroh様、おはようございます。 書いておられる大学の意義ですが、地方の場合は 地元に根付いた形での進学が出来るという事もあるのではないでしょうか。 皆、都市圏の方へ憧れを持って進学していきますが 留年、中退、卒業してその先も見つからないというような状況もありますし 卒業後の就職は田舎へ帰らずにそのままという形に。 大学は卒業しても就職が出来ない事が多いので 本格的な職業訓練をさせる場所にするのも考えの一つかと思います。 以上、ご参考程度に。
お礼
ご回答ありがとうございます。 確かにそうですね。文科省のリストを見る限り、東京など都市にも「Fランク大学」は存在しますが、多くの、たとえば定員割れを起こしているような大学は、やはり地方が多いように思います。 で、職業訓練校というのも一理あるのですが、地方という部分に限定したときは、下手に「国際◯○学科」のような、地方にあって「国際的な」を謳う現実感のない学科をつくるより、むしろ設置学科も地域性などを強く押し出した方が良いのかもしれませんね。 「Fランク大学」レベルの学生だと、自分の出身地の地理も気候も風土も歴史も民俗も、大して理解できてない場合が多いですし、地方の「Fランク大学」ならば、むしろその地域の『地元学』みたいなもののスペシャリストを養成できるようになれば、案外活路はあるのかもしれない…などと思いました。
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お礼
ご回答ありがとうございます。 そうですね、Fランク…もとい、それはネットスラング的な話ですので、少し置いといて、多少ご回答の内容と異なるかもしれませんが、いわゆる大学全入時代という、受験者総数に対して全大学の定員数の合計の方が上回る時代でも、確かに、浪人生というのは存在していますね。 ですから、結果的には知名度や学力などで勝る大学に受験者が集中し、本来の学力に合わせれば合格可能な大学ではないところを受験してしまう高校生なども多いのだと思います。同時に、浪人したくない、という気持ちから、さほど学力(主に偏差値)の高くない大学に進学するということの是非が、焦点であったのかもしれない、と思いました。 結果として、これは少子化が最大の要因というより、大学の置かれた社会環境などが最大の要因なのかもしれません。 そして、質問者さまのおっしゃる通り、某予備校などが偏差値として数値化できない大学(アンサイクロペディア笑にも記載されていますね)なんかは、学力試験のみではない入試選抜方法などで、結果的に偏差値としては数値化できず、また非常に難関な倍率となっていることもあるでしょう。 私の論点としても、最終的には、経済格差などがどのように大学進学に影響するか、ということにも興味があり、経済力のある家庭に育った子供の方が「大学進学までの間にレベルの高い教育を受けられる」というのではなく、「大学の選択において『情報が多い』ことや『選択肢が多い』」といった感覚が実情なのではないか、と思っています。 そういった意味で、既存の学力検査や某予備校の測る某模試での偏差値のような数値化がもはや全大学においてあまり意味をなさず、大学側が求める学生と、受験生側が求める大学とのマッチングというのが重要になってきてるのでしょうね。 その点では、やはりまだ大学側の方、『実際にはどのような学生を入れたいのか、というところの言語化が、まだ取り組みとして少ないように思います。 特に、東大などを例としてあげておられますが、いくら東大が推薦などを行ったところで、結果として高校の内申点のようなものが判別の基準として大きくなりそうで、その高校の内申点というものも結果として定期試験などでの学力を優先してしまっているので、おそらくは何も変わらない、ということになりそうな予感もします。 現状として高偏差値で推移していたり、化け物のような倍率を誇る大学の方にこそ、それだけ多くの受験者数があることに安穏としているのではなく、真摯に、本当はどんな学生を育てたいのか、ということの説明責任があるように思います。