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ウェーバーの政治倫理について

ウェーバーは政治家には心情倫理と責任倫理が必要だと言っています。そのなかで、善から悪が悪から善が生まれる、悪魔と契約する覚悟が必要だと言っていますが、この部分がよくわかりません。悪から善が生まれるとはどういうことですか? 悪魔と契約するとはどういうことですか?

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回答No.1

はじめまして。 「悪魔と契約する覚悟」・「心情倫理」・「責任倫理」ですね。 心情責任:「自らの行為の価値を純粋に信じて、その結果は神に委ねて省みない態度」→過程責任 責任倫理:「予測できる限りで自らの行為の結果を考慮し、その責任を引き受けなければならない」→結果責任 心情責任とは、「キリスト者は正しく行為し結果を神に委ねる」という態度のことで、人事を尽くして天命を待つ、つまり「自分の全力をかけて努力をしたら、その後は静かに天命に任せるということで、事の成否は人知を越えたところにあるのだから、そんな結果になろうとも悔いはないという心境のたとえ」となります。 これに対して、だからと言って最善は尽くしたが結果として国が滅んでは元も子もないので、近代的価値観としては結果が求められることになります(結果責任)。 ここで問題になるのは、結果を求めるということは、心情責任においてはあくまでも過程として正しい行為が求められるのに対して、過程としての正しさは結果において判断されるのですから、過程そのものが倫理的に正しくないとしても結果として正しい(妥当性)ということが言えます。 これは「行為が引き起こす結果を予想・考慮して、倫理的に悪しき手段を用いてまでも、目標を実現しようとする態度」をもって政治を行うということです。 この「倫理的に悪しき手段」を用いることが出来る人のことを悪人=悪魔と呼ぶこともできそうです。 この上で、以下のように考えることが出来ます。 悪とは力そのものであり、人々が生き延びようとする意志であり(ホッブス)、大変大きな仕事をなすことが出来ます。 生き延びようとする意志と目的のために、常人にはとてもできないほどの仕事をすることが出来る半面、近代的市民的秩序としての倫理において、何を仕出かすかわからないという無秩序さをもっています。 社会を統治し、国家を運営していくというのはとんでもない大きな仕事であり、国の存続をかけての行為ですから、倫理的にふるまい、つつましく暮らしている常人にはとても行うことが出来ないことです。 一種の狂気といってもいいと思います。 ここですさまじい力をもっており、結果のためには手段を択ばない人=悪人=悪魔に国家の運営を任せるということになります。 しかし、悪魔は何を仕出かすかわからないということで、監視する必要があります。 監視するためには、議会や選挙という仕組みを作って制度的に監視するという方法があります。 これを議会制民主主義といいます。 この考えがわかりにくいのは、儒教的伝統において政治を考えるためです。 儒教的政治家観だと、政治家が最高の倫理観を供えもち、仁をもって国を治めるならば、おのずと天も味方し、天変地異や戦争や飢饉も起こらないという考え方がどこかで前提としてあるからだと思います。 例えば、有名な話ですが、戦後に大きな台風が来て大被害を起こしたのですが、 「台風が来るのも吉田(総理大臣)のせい!」といわれたのは、この最たるものです。 いまでも、何か問題が起きたりすると、総理大臣の人格や倫理観を問題にする人たちがいますが、これほど儒教的政治観に近く、近代的政治観から遠い考え方もありません。 とはいえ、実際のところ、儒教の本家本元の孔子は、政治家がどんなに不正や残虐な事や酒池肉林の生活をしていたとしても、結果としてよい政治をしていたら、高く評価していましたけどね。

参考URL:
http://homepage3.nifty.com/tanemura/re3_index/3S/se_verantwortungsethik_und_vesinnungsethik.html
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質問者

お礼

わかりやすい解説ありがとうございます

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