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明治維新時に江戸時代の城は焼かれた?

江戸時代の象徴である城は明治維新で焼かれたのでしょうか? 各地に城跡とあるところはその結果でしょうか? 

みんなの回答

回答No.7

弘前城なんかは全く焼けてませんよ? ご存知と思いますが弘前城は復元ではなく津軽氏が建ててから今まで1度も焼失していません 明治維新でも焼かれていません ちなみに江戸城は明暦の大火で天守閣が焼失して それ以降再建されていません 皇居(元江戸城)に天守閣が無いのはそのためです

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.6

江戸時代の象徴である城は明治維新で焼かれたのでしょうか? ↓ 積極的には焼かない 江戸城は、幕末に焼けたので、そのまま。 使わない城郭は売りに出された例もある。 移築とか古材の再利用というのは、現代では少ないようだが、ちょっと昔までは多かった。 私が生まれた家も60年前に古材で作ったらしい。 なので、解体して再利用された。 天守閣などは、大きすぎて解体が大変なので残ったという例も多いようだ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%9F%8E 1870年(明治3年)から1872年(明治5年)にかけ、城内の建造物はほとんど取り壊され、天守台には大久保神社が建てられた。 お城の跡地は、都心の中心にまとまったスペースとしてあるので、軍隊の駐屯地や役所とか学校とかに使われて、役所や学校が移転すると公園にするとかになり「城址公園」になる例も多い。 桜の名所ってのは、旧陸軍が「桜」を植えたので桜が多くなり、軍隊がいなくなったので公園になった。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%98%E5%89%8D%E5%9F%8E 1898年(明治31年) - 三の丸が陸軍兵器支廠(のち第8師団兵器部)用地となる。 1903年(明治36年) - これ以降桜が植えられ、桜の名所となる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%94%B0%E5%9F%8E 1870年(明治3年)に本丸御殿、三重櫓などを焼失。 1873年(明治6年) 廃城令によって存城処分となり焼失しなかった建造物も取り壊された。 陸軍第13師団の入城時に3000本を超す桜(染井吉野)が植栽され、現在でも日本三大夜桜のひとつに数えられる

  • nene-k
  • ベストアンサー率42% (118/279)
回答No.5

先の回答者様がおっしゃっているように、いらなくなったお城は、燃やしたらアブナイですし、残すとしても維持管理が大変です(当時はまだ、歴史的価値はありません)ので破却=壊すか、ほったらかしにするかですが、それこそ、今後、必要か必要でないかも含めて、その城によって様々だと思います。 質問者様が思い描いておられる「各地に残る城跡」というのは、どちらかと言うと戦国時代の城跡の事だと思いますが、戦国時代には、天守閣のある大きな物から砦に毛の生えた、あるいは、ちょっと立派な屋敷程度の物も含めれば、とてつもない数の城がりました。 それを天下統一した徳川家康が「一国一城制」を導入して、一つの領地(藩)には一つの城だけという事にして(例外はありますが)、小さな支城は破却されました。 でも、その藩というのは、スゴイ数です。 明治維新となって廃藩置県した直後は、江戸時代の藩をほぼそのまま府県に置き換えたので全部で3府302県ありました。 それを、毎年のように調整していき、やがて明治二十二年(1889年)に3府43県となって落ち着き、その後、東京府が東京都になり、北海道が入って、現在の1都1道2府43県に至っています。 つまり、ごくごく簡単に言うと、江戸時代に305あったのが、明治に47になったという事で、当然、その中から、その後も使用する城と、いらなくなった城が出て来る事になるわけですが、いらなくなった城は、ほぼ壊される運命となったでしょう。 一方、使用する場合の城は、 たとえば、福井県福井市にあった福井城…現在の地図をご覧になればわかりますが、現在の福井城跡には、福井県庁と福井県警が建ってます。 つまり、江戸時代に藩の殿様やってた、地方自治と治安維持を、そのまま、その場所でやってる事になります。 そして、もう一つ、大きな都市には鎮台(陸軍)が置かれました。 先の回答者の方が、「西南戦争の時に熊本城が…」みたいな事を書かれていましたが、熊本城には熊本鎮台が置かれていたので、明治になっても、ほぼ、そのまま形で残っていたと思われ、西南戦争で敗れた西郷隆盛が「明治政府に負けたんじゃなくて、我々は加藤清正公に負けたんだ」というような事を言ったなんて話も残っているとか… また、現在は公園で天守閣が再建されている大阪城にも、明治の頃には東洋一の陸軍施設が置かれ、それは、太平洋戦争が終わるまで、東洋一のまま維持され、その向かい側の大手門の所に大阪府庁や大阪府警(一時城内に大阪府警があった時代)があります。 廃藩置県の直後には、大阪府の周辺に高槻県、麻田県、堺県、伯太県、岸和田県、吉見県などがありましたが、それらの県の城は、大阪府に吸収された時点でいらない事になってしまいまいますので、市庁や区役所、あるいは別の使い道を、それぞれ、当時の人たちが考えたと思います(高槻城や岸和田城は、現在も城跡として残ってますね)。 お話が長くなりましたが、要は、その城の状況により、軍や政治の拠点となるか、あるいは良い意味では公園のような公共施設として使用されるか、あるいはどなたか個人の物になるか、まったく不要なら、その場所さえわからず町並みに溶け込んでしまっている場合もあり、千差万別で、一言で「こうなりました」と言える物では無いのではないかと思います。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11122/34624)
回答No.4

まだ消火技術が発達していなかった明治時代も、江戸時代も、最も恐れられていたのは火事です。当時の技術では消す術がなかったからです。火が燃えていると、火の粉が飛びます。そしてそれはときに風や火災による上昇気流に煽られて離れた場所まで飛びます。日本の家屋は木造ですから、そこでまた火事になります。だから火事は怖いのです。 そういうことがありますので、戦争や失火によるものではない限り、「燃やして処分する」ってことはありません。ほとんどのお城は頃合いを見て破却されたのです。 廃藩置県でお城の主であるお殿様はお城から離れることになりました。県知事さんたちはなにもわざわざ時代遅れのお城になんか住まなかった(元々天守閣は住む場所ではありませんでしたが)ので、主のいないお城は朽ちるにまかされたわけです。 木造の家なんて、人が住んでないともうみるみるうちにボロボロになるんですよ。なぜ人が住まないと家屋はこんなに簡単にボロくなるのか建築士に聞いたことがあるのですが、彼によると「人が住まないと空気が回らなくて澱んでカビが生えるからじゃないか」ということでした。日本は高温多湿なので、人が出入りして空気を入れ替えるのが重要なんでしょうね。 ボロくなった木造建築がそのまま残っていると薪の山があるようなもので、火が出ると危険です。だから、頃合いを見て片づけられたのです。「この柱は使えそうだから再利用しよう」とか「薪になる」というのもあったかもしれませんね。 石垣のような土台部分は燃えませんし頑丈だからそのまま残されたわけです。 犬山城も松本城も、明治時代にはかなり傷んで倒壊の危険があったようです。

  • trajaa
  • ベストアンサー率22% (2662/11921)
回答No.3

>城は明治維新で焼かれたのでしょうか? 城と言っても、天守そのものを指すのか?或いは、石垣や櫓全体を指すのか?微妙ですが 明治維新によって藩が無くなっても、行政機構として知藩事が残ったので全ての城が破却ハキャクされたわけではない とは言っても、天守が必要な時代ではないので、建物は破壊して跡地が軍隊の駐屯地になったり、学校などが建てられたり、鉄道などの敷地にされたりなど様々な用途に使われた 尚、明治政府は明治七年?六年?に「城郭破却令」と言うモノが出されて、盛岡とか米沢とか萩とか島原とかそう言ったお城の破壊処置がされている かといって全てが破壊された訳でもなく、昔の状態のまま残されたお城もある

回答No.2

シニア男性です。 江戸城は燃えず、無血開城されました。 NHK大河ドラマ「篤姫」でも描かれています。 その時各地に存在していた(一部の)城の多くは、 取り壊されました。 今も天守閣が残る熊本城は、明治10年、士族 最後の反乱である西南戦争で、攻防の舞台にも なりました。     http://japan-web-magazine.com/japanese/castle/index.html   http://www.manyou-kumamoto.jp/contents.cfm?id=463

  • tzd78886
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回答No.1

大半は他の用途に転用するためや、廃藩置県以降維持する意味がなくなったために壊されたものです。もっとも、戦国時代の城の中には江戸時代にはすでに城そのものが無くなっていたところもありますから、一概には言えません。

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