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人間はあくまで孤独?それとも社会的存在?

人は一人で生まれてきて一人で死ぬ、と言います。 人は孤独な存在なのでしょうか?理解し合う事は出来ないのでしょうか? それとも人は社会的存在だから 一人では生きていけない 少しでも人と心を通わせなければ人で在り得ないのでしょうか? そのどちらも言えると思いますが 実際生きていくに当たって 人間は一人だから自分を信じるべきか。人は独りでは生きていけないから人を信じるべきか? あなたは基本はどちらだと思いますか? 騙されても人を信じるか 孤独でも自分を信じるか? 端的にご意見を聞かせていただけるとありがたいです。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.17

用は、人の何を信じるのかだと思います。人が存在していることの意味のようなものを考えると、自分や他人と言った垣根を越えるような信を見出し得るのでは無いでしょうか。

yuniko99
質問者

お礼

確かに 人間のことを考えていると 自分の為でなく 自分が居なくなってからのことも 考えますね。宇宙規模のことも考えます。 その中に真を見出そうと考えているのかもしれません。 これはどうも大変ありがとうございます。

その他の回答 (18)

回答No.19

 やはり長くなりますが。  【Q:《孤独》は アートマン(霊我)の電磁場である。】 =====   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8585828.html  或る質問への回答をお借りして 孤独をめぐって 問い求めるものです。   ◆ ~~~~~~~~~~~~~~   (2) 心は外にある。     ・・・  (あ) 個は、〔心がたとえとして《風船》の中にあると一見思われるとき そうではなく 外にあると見るならば 個はその〕風船のまわりをぼんやりと包んでいるものであり、神秘的領域のものです。   ☆(質問者註) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~      あたかも母船から解き放たれて宇宙遊泳しているがごとく か?      これを 或る方は 《宇宙のみなしご》と呼んでおられる。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    (い) ただ個という形を持って、それ故有限な存在として異なるのみの、本質は、神とよばれる無限の一者に包まれた神秘です。   ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    その個の占める《場》は すでに 周りの世界と通底している。    ゆえに ひとの一生としての有限性は じつは 必ずしも限られてはいない。か?   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (う) 死(個の消滅)とは、神秘的領域に同一化するということです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ (う)を承けて 端的に申すなら:  (え) 《個》が―― 一人ぽっちなる存在として――《神秘的領域に同一化する》のは じつは 個の消滅という死に際してというよりは すでに生まれたときから いま・ここで・つねに あたかも神の場と同一化している。ことであるかも知れない か?  (お) つまりは もし想定がすでにあたかも常識のようになっているとしたなら 一切衆生 悉有仏性というごとく 神の霊(《仏性》)はすでにひとに――どの人にも―― やどっている。これでよいか?  (か) つまりは (い)です:   ◆ (い) ただ個という形を持って、それ故有限な存在として異なるのみの、本質は、神とよばれる無限の一者に包まれた神秘です。  (き) 《包まれている》と《同一化している》との違いは おそらくブッダター(仏性)なる潜在性としてのチカラを自覚するかどうかなのではないでしょうか?  (く) 自覚するかどうかを別として ひとは すでにその自然本性において 神なるナゾ――神秘――のもとにある小宇宙である。か?  (け) その神の霊は アートマン(霊我)ともブッダター(仏性)とも呼ばれる。プネウマともルーアハとも呼ばれる。無神論の場合には その神の霊じたいが アン‐アートマン(無我)と呼ばれる。  (こ) 神は神秘でありナゾであるから 雲をつかむような話として《霊》と呼ばれ その名前はいろいろ違っても 同じく神であり霊でありその場である。これを《無い神》として捉えることも 自由であり じつはその中身は同じである。  (さ) ひとが孤独であるというのは この神の霊をやどした存在としてあることを言っている。つまり 霊は人間には分からないのだから 人間の目から見て ひとなる存在は《ひとりぽっち》であり この一人ぽっちであることにおいてこそ 孤独であり アートマンのチカラが 電磁場のごとくにはたらいている。のかも知れない。  (し) この孤独からのがれようとするのは 人間の目から見ての一人ぼっちにならないように その意味での除け者にならないようにするためのウゴキなのである。  どうでしょうかねぇ みなさん。  ======================

yuniko99
質問者

お礼

?? ムズカシイ 分かるような分からない様な スピリチュアルが入ってるんですかねえ? >どうでしょうかねぇ みなさん。 皆さん評価してください よろしくお願いします どうもありがとうございます。

yuniko99
質問者

補足

あんまりいろいろ書いてあるので 成る程と ?が色々あって ベストアンサーにしたいけど 読んだ人が分からないかもしれないので 申し訳ないですが たって気に表した人にすることにしました どうも大変ありがとうございます。お疲れ様でした。

  • larme001
  • ベストアンサー率44% (271/608)
回答No.18

端的に言えば、そんな単純な話じゃないのであってどちらも大切だということですよ。それはあなた自身が最もわかっていることだと思います。  どんなにサバサバした人間でも、人恋しくなるときがあったりします。逆に、相手にどっぷり依存している人間であっても、どんなにそれを受け止めてくれる人間が周りにいたとしても結局は他人であるゆえにその人がすべてを同一の認知、感性の元で受け入れているかなんてわからないのですから。人間まったく同じことを考えたとしてもそれはその人の思考、すなわち「言語」や「経験」というものを介しているのですからね。それは、たとえばこの質問におけるあなたの真意(「一人を」というのと「他者を」信じるという言葉の背景にあるイメージ)は本当に同じかということと同じように完全にはわかりません。勝手に納得することは可能ですが。  というわけで、元も子もないですが何事も善悪、優劣、信じる信じないなどの端的な答えなど存在しないのです。孤独に耐えられなければ何かにすがってみることも必要ですし、他者からは得られないものについては自分で解決するしかありませんから。前者はよい人間関係に恵まれることであり、後者は自分自身の能力を高めておく必要がありますよね。その辺の心地よさが丁度いいところ=要するにバランスを持っていることが、一番幸せだということです。

yuniko99
質問者

お礼

どうも丁寧な解説をありがとうございます 私としては どっちが本当の自分と思えるかと言うか イメージとしてどっちを強く感じるかと言う事を知りたかったのです。 個人主義ならどうか。和の文化ならどうか。実際にどうか という事を。 やはり日本では圧倒的に一人で生きてない 生かされてるんだ という意見が多いようです 今のところ。 どうもありがとうございます。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.16

yuniko99様、こんにちは。 >「あなたは基本はどちらだと思いますか? 騙されても人を信じるか 孤独でも自分を信じるか? 端的にご意見を聞かせていただけるとありがたいです。」 「判ってみれば、なんだ、そんなこと。」 ・・・そういう存在に、なってみたいですねえ。

yuniko99
質問者

お礼

こんばんは クリナルさん おめでとうございます。 判ってみれば・・・と言うのは なんだか数学の正解のようですねえ。 クリナルさんは達観してるから 僕のような俗人では思いつかない答えを出しますねえ。 成る程です どうも大変ありがとうございます。

回答No.15

人間は一人だから自分を信じるべきか。人は独りでは生きていけないから人を信じるべきか、ということですが、どちらも信じる人もいれば、どちらも信じられない人がいると思います。 人間は一人だけど、人は独りでは生きていけないからできるだけ人を信じて生きたほうが楽しい、あるいは、 人間は弱い存在だから自分も他人も信じるに足りない未熟な部分がある。人間は一人だけど、人は独りでは生きていけないから、今周りの人に生かされていることに目を向けて生きたい、・・・・そんな感じですかね。

yuniko99
質問者

お礼

>どちらも信じる人もいれば、どちらも信じられない人がいると思います 人によって違うけれど、人に生かされてることに目を向けていきたい と言う事ですね。 成る程どうも大変ありがとうございます。

  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.14

人間は群れで生きる動物であるが、その群れの中に家族の縄張りを持つ動物でもあるのです。社会的でもあり家族孤立でもあるのです。正月はその家族を強く感じる時期でもあります。 家族単位の縄張りなので家族がおれば孤独ではありません。孤独を感じるのは家族を感じることが出来ないからです。 人間は一人ではありません。自分を信じ、家族を信じ、社会を信じて生きています。一人では生きてゆけないことを誰もが知っているはずです。

yuniko99
質問者

お礼

人間は消して一人じゃない と言う事ですね。 家族がいる人ならもちろん 天涯家族がいない人でも 社会を信じれば生かされる 人は独りじゃないんだ と言う事ですね どうも大変ありがとうございます。

回答No.13

 No.2&5です。  長い回答でよければ 次です。  【Q:《虚数》という想像力の世界に現実はあるか(つづき)】 ~~~~  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8873741.html  1. まづ タトエと推測とによって話を運ぼうとするお話です。というのが 前提です。  趣旨説明を述べます。  2. まづ ことは ひとの意志行為です。これに注目します。  3. たとえば実数であれば 意志のあり方は――その表明にまで到ればなおさらですが―― イエスかノーかあるいはその中間でまだ決められないか この二つないし三つに分かれると思われます。まづほかにはないでしょう。  4. ところが 虚数の概念を仮りに導入したら どうなるか?    5. たとえば イエスもノーもまだまだ決める段階にはない。いえ その情況はすでに相手から答えを求められ決断を迫られている段階ではあるのですが どういうわけか(つまり これが 虚数の世界であるかも知れないのですが) 実数としての意志決定をしぶっている。  6. つまりは言いかえると これは 大きく見れば いまの段階としては〔その人にとっては〕不確かな実数の世界( a )とそして同じくいま考えあぐねているその想像の雲に乗った小世界( b i )とで構成される複素数( a + b i )としての実態である。ということになりましょうか? いえ どうなのでしょうか?  7. いまもし ひとがたとえば人間不信に落ち入っていて世の中に反感しか持ち得ず もはや実数としての意志決定を成し得なくなっているとしたら どうなるでしょう?    8. いまの仮説のかぎりで その人は 虚数の世界にのみあることになります。すべては 想像をめぐらしつづけているだけとなる。と言えばまだ恰好がついているかも知れませんが 実際は その想像というのは うたがいに満ちさらにはその猜疑心があるいは敵対心にまで広がっているかも分かりません。  8-1. ということは 現代韓国人の――特には日本人に対する――心的現象を分析しようとしているわけです。  9. もし人の生きることが 自己表現であり 自己表現は それとしておのれの文体を成すとしたら おそらくそれは《わたしがわたしであるそのわたしが わたしする》動態であると見ます。  10. 言いかえると わが自己表現の文体は 《わたしがわたしである》その自己同一性のさらに自乗として限りなくつづく過程である。   11. 《わたし》が 数として一であるならば 一の限りなき自乗として一である。と同時に ときには多少とも道草を食いつつまたそこから脱線をもしつつ 元の一に立ち戻って生きる( 1^n = 1 )。  12. ところが 現実は 複素数である。かも知れない。  13. 虚数の動きが 外から心に忍び込んで来るゆえなのか自分から何を思ったかおのれ自身をめぐるあらぬ物語を紡ぎ始めるゆえなのかどうなのか 起きて来る。  14. おまけに《一》から脱線したときには 元の動態とその軌道が分からなくなる。もはやそこでは あたかもあの悪名高きムラカミハルキ・ワールドつまりモヤモヤ・ワールドのごとく 虚数なる想像一色の世界となる。  15. 自己表現の動態としてありつつも 実数としての意志決定が・したがって意志表明もが できない。できなくなる。  15-1. ただ敵対すると思い込んでいる相手つまり仮想敵に対してあらん限りの罵りをのみ叫び続ける。  16. 代わりに ひょっとするとその虚数なる想像力をたくましくしてあたかも巨大な繭をつむぎその時空間の中にあそぶというかのような虚構世界を生きるということかも知れない。《ウリナラ・ファンタジー》。    17. もしこの現実としての複素数なるわが文体が その中で実数( a )が消えてゼロになり 虚数( bi )のみによって成るかたちを取ったとしたら どうなるか?    18. 《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス一( -1 )となる。  18-1.ひとつの解説をすでに得ています。  ◇ ~~~~~~~~~~~~  一度の《へそ曲がり》は潜在化の過程、さらに《へそを曲げる》と顕在化する。   1×i = i : (へそ曲がりの)潜在化の過程   i×i = -1 : (へそ曲がりの)顕在化の過程  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  19. これでは 社会における交通(マジハリ)が成らない。成し得ない。    20. というふうに推し測った仮説です。  いづれの論点についてでもよいですから ご教授ください。  21. おまけもしくは余分: 悪名高きモヤモヤ・ワールドは 精神分析ワールドでもありますが 日本人のあいだでは やはりむしろブディズム――その悪しき部分――に放射能源はあるのではないか?    22. つまり《さとり》についての満ち溢れるゴミ解釈が社会の処理能力を超えて無限に造り出されていはしまいか? 虚数としてかんたんに誰でも言えるからのように。  23. これは 人間にとって不幸である。千年一日のごとき生活幻想がつづく。そういう部分がどこかで根を張っている。言いかえると ゴータマ・ブッダの《大芝居:大化城》なる桃源郷に避けどころを見出そうとする心の動きである。  24. つまり――減らず口をたたき続けますが―― わが日本人にあっては 外に仮想敵をつくり敵対心を発散させることによって 日頃のうっぷんの捌(は)け口とするシワザは おこなわないようではある。  25. ひとはすべからく現実に向き合わざるべからず。過去は捨てよう。  26. なおこの設問は 《存在とは何か?》なる問いに答えようとする問い求めです。《現実存在 つまり 要らぬ過去(脱線)を捨て余計な想像世界(本質論)を脱ぎ捨てて現実に向き合う存在⇒つまり 実存》 これが 《わたし》であり《存在》だという仮説です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このように自分勝手な想像の世界に自分から入って行かないならば ひとは互いにそこそこの話し合いが出来ますし 相互理解も成ります。  言いかえると 見解の相違ということで互いに合意することが出来ます。あとは 自然史過程にゆだねられます。自由に・機会があれば何度でも対話をすすめればよいはずです。  孤独は 孤独関係であるならば 時間および空間の中に位置づけられています。社会と一体です。  社会が病んでいるならば わたしも病みます。あなたが孤独ならば わたしも孤独を感じます。  しかも こういう見方をつねに持つことが出来るのが ひとという存在なのだと考えます。  それは クリスマスツリーの飾りを脱ぎ捨てて樅の木だけとしてあるかのごとく おのれの固有のときを持ち得るその意味での孤独なるわたしを知ったひとに おとづれる場でありそのチカラです。

yuniko99
質問者

お礼

面白い考察ですねえ。ただ結論がハッキリしない様な気も・・・ ちょっと長くて項目が多くて読み込みきれませんでしたが でも最後の文句は良かったです どうも大変ありがとうございます。

回答No.12

設問に無理があるように思います。 a 人は孤独な存在なのでしょうか?理解し合う事は出来ないのでしょうか? b それとも人は社会的存在だから 一人では生きていけない &  少しでも人と心を通わせなければ人で在り得ないのでしょうか? 《そのどちらも言えると思いますが》 c 《実際生きていくに当たって》人間は一人だから自分を信じるべきか。 vs 人は独りでは生きていけないから人を信じるべきか? d あなたは基本はどちらだと思いますか? 騙されても人を信じるか vs 孤独でも自分を信じるか? e 人間はあくまで孤独?それとも社会的存在?   f 【二者択一できるものではありません。人間は基本的に孤独でありながら社会的動物として生涯を終わるのです。】⇒ どちらでもあるという事ですね 成る程 それも言えますね g 私の考えは人に伝わりません 孤独です しかし私は多くの人を尊敬しています 例えば僕が8年間毎日腹痛で悩んでいて それを人に話しても 同情はしてくれても痛みをともに共感してくれることはできません 逆もそうです 人間は孤独だと思うか けっして独りではないか と言うことです。 h 人が信じられないと思っても、孤独でも 心を閉ざさないで関係を持つことは出来ると言う事ですよね。現実はそういうところですかね i 人間は一人だが 信じられる人を信じて生きて行くのがいいということですね 確かに誰でも信じてたら裏切られたり詐欺に遇ったりしますねえ。 j 人は一人では産まれて来れないし、死ぬまで周りの人が心配している という事ですね つまり人は独りよりも人への感謝とともに人と生きるのが良いということそうしか出来ないという事ですね。 k でも一人で死んで行くにしても 死んだら無になる それまでに他者に自分の存在を託して逝かなければ 無意味な一生に終わってしまうのではないでしょうか? 【自分を信じるか、人を信じるかの二者択一ではなく、白か黒かの両極端ではなく、双方のバランスでしょう。どの程度のバランスがいいかは人それぞれであって、自分で探るしかなく、こうだという万人に当てはまる正解はありません。】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 同じ事件に巻き込まれて同時に複数の人間が死に、多胎で複数の児が生まれることもあるし、腹痛や腰痛・尿管の痛みで一人痛がり、失意・失恋・失敗・無能感・孤独感に襲われうつ状態に移行することもある。言葉は社会や他人から教わり、衣類・食糧・水・安全も社会や他人から得ている。質問サイトを作って運営している人々・各種インフラに関わるヒトがいて、ガラスや鉄、コンクリ、道路、下水、廃棄物処理や学校などもあるので何とか生きていける。過去の社会が作ってきた膨大な遺産や多くのヒトが明日や将来のために努力していることがなければ、とてもこのような環境は存在しないし、このような環境がなけれな今があり得ない。恨みや憎しみ、敵愾心が多数存在し、勝ち負けも絶えなく起きるし、支援やそそのかしも頻繁にあるし、同情したり、愛で慈しみ気分や優しさも起きる。偶発的な事故もあれば、他人や他所の成功や繁栄がもたらす敗北感や喪失感もあるし、暴動やヘイト行為に繋がる同調行為や共感的感情も起きる。窃盗、強盗、詐欺、陥れ、裏切り、だまし討ち、強大な相手に敵対するための仲間結成や一体意識の醸成強化もする。国境なき医師団や難民支援、災害地支援もする。行政組織内・警察や病院内でのいじめもする。家族や恋人の結束もあれば、DVもある。弱者支援にも精を出すし、社会的安定や格差対策に税を納めたり自分の不便を甘受することも正義だ思っていたりもする。 こうした実態があるのがわかっていて、無意味な人生、有意義な人生、信じるか、信頼するかというような単一の意味づけを求めるのは、設問に無理があると言うことだと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 【自分を信じるべきか/人を信じるべきか?】【騙されても人を信じるか 孤独でも自分を信じるか?】あなたは基本はどちらだと思いますか? 実際生きていくに当たって ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 現実的に、実際も、色々の場面、色々の時期で、様々でアリ、一つではないのだということでしょう。 自分を信じることなど出来ない時も、他人を信じることが出来ない時も、相手を騙してでもその場をしのぎうまくやることに努力する時も、無能で苦痛が耐えがたい状態にある自分を捨て去ることが難しい時も、すべてあるようにしか出来ないでしょう。 それが実際に生きていくという現実でしょう。自信満々や自己昂揚感に快感を得るのも、他人を慈しみ大切にするのも、社会や未来に託す気持ちに自分を預けるのも心に快をもたらすものです。もちろん、不信と猜疑、不安に生きたいという方向で選択する道もあります。 どれが正しい/間違っているというのではないでしょう。 『人間は一人だから』『人は独りでは生きていけないから』などを根拠や理由にして考えようとしても、無理があると思います。 こうしようと自分であるときのスタンスやあるときの方向性を決めたときに、その決定を「○○だから」と根拠づければ良いのだと思います。 こうしようというのは、その時々で変わって何ら問題ないです。(それを、あるべき姿、人間の本来根源、基本の道と名付けても、何ら構わないと思います)

yuniko99
質問者

お礼

人は時としては独りと感じ、時によっては人に生かされている事を感じ感謝する。 だからそのどちらが基本かとい言っても、設問に無理があると言う事ですよね。 それは確かにそうですが どちらと究極感じるか と言う様なつもりです。 どうも大変ありがとうございます。

回答No.11

今や身の回りの衣食住、あらゆる物が世界中から届いて おり、社会の順調な営為なしに個人も存続し得ない。 ただ、そうした自己存在の実態を自覚せずとも、目先の お金のために物理的なノルマを果たす、条件反射的な 行動によっても、貨幣制&資本主義の“見えざる手”に よって、社会は「順調な営為」が可能である。 本来助け合っている社会でありながら、お金や出世といった “馬車馬の目の前のニンジン”に操られ、奪い合う事による、 弱肉強食の擬似ジャングルと化している。 どんなに人がたくさん居ても、目をつぶれば孤独である ようなものだ。 それは、認識の発達による環境への経験的適応=後天的な 多様化=自律的社会行動によって社会化するヒト型の進化か、 遺伝的に多様化し条件反射的社会行動によって他律的社会化 するアリ型進化の選択であり、自然界には両方が並存しており、 議論の対象ではなく個々人の選択の問題である。

yuniko99
質問者

お礼

個々人の選択な訳ですね。 孤独と感じる 活かされてると感じるという現実もありますが 自分の選択によってどちらを求めるか選べるということでしょうか どうも大変ありがとうございます。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.10

"人は孤独な存在なのでしょうか?理解し合う事は出来ないのでしょうか?"   ↑ 1,人間は孤独な存在です。 2,他人を理解することは出来ません。   理解出来たと思っても、それは錯覚でしか   ありません。 ”人は社会的存在だから 一人では生きていけない”      ↑ 人間は、社会で育たないと二足歩行すら 出来ません。 つまり、人間が人間たるためには、社会が必須です。 ”少しでも人と心を通わせなければ人で在り得ないのでしょうか?”     ↑ 人間は、他人の心を推察したり、自己の中の自己と 話し合うことが出来る動物です。 その意味で、心を通わせることが出来ない人間は 人間ではありません。 人間の形をした他の生き物です。 ”人間は一人だから自分を信じるべきか。人は独りでは生きて  いけないから人を信じるべきか?”      ↑ この部分が変ですね。 一人だと自分を信じる、一人では生きていけない から人を信じる、という二者択一には根拠が無い と思います。 人を信じようが信じまいが、人間は独りでは生きて いけません。

yuniko99
質問者

お礼

一つ一つ答えて頂いてありがとうございます。 信じるかどうかは別として 人は独りでは生きていけない と言う事ですね。 人間は孤独なものであり また社会的存在でもある 成る程 どうも大変ありがとうございます。

回答No.9

 人間は、自分の枠を超えることに接することで成長し、自分なりの人生の醍醐味に気づいていくことができるのではないでしょうか。その際良好な人間関係から得られるものは計り知れないと思います。そこに必要なのは人を信じることです。「人間が動的なものであることの副産物」に対する用心を時に加味しながら基本的に人を信じるというのが、一番よさそうな気がします。  その際自分なりの核を持っていないと流される一辺倒になってしまいます。人生のある時期はそうした核を作ることの重要度が高くなるのでしょうね。  自分を信じる/他人を信じる、これらは社会的動物であって同時に個性を持った存在である人間の、人生の成長段階に応じて重要度における占有率を変えながら人生街道の両端に位置する「信ということに関する路側帯」みたいなものかもしれません。

yuniko99
質問者

お礼

自分を信じる/他人を信じる は人間として占有率を変えながら人生街道の両端に位置する >信ということに関する路側帯 その両方を必要としながら生きるのが人間だというわけですね 成る程です どうま大変ありがとうございます。

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