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五稜郭における軍事顧問について
つい先日、旅行で函館へ行って来ました。 そこで五稜郭も訪れたのですが、資料館のようなところを見たところ、『フランス軍事顧問団は本国からの帰国命令をも無視し、旧幕府軍と共に戦闘に参加した』というような記述を目にしました。 幕府側にはフランスの援助があったということは知っていましたが、この点について全く知らなかったのです。 このフランス軍事顧問団について詳しい事をご存知の方、どうかご教示下さい。
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フランス軍事顧問団は、慶応2年勘定奉行小栗忠順・栗本鯤とロッシュの間で600万ドルの借款とセットで締結されました。顧問団の到着は遅れ、日本に到着したのは、慶応3年初頭でした。団長は元清国分遣隊参謀長の参謀大尉シャノワンのほか、砲兵隊長・大尉ブリュネ、騎兵隊長・中尉デシャルム、歩兵隊長・大尉デュ・ブスケ、工兵大尉ジョルダン、他に歩兵の士官としてメスローがいました。最初は15名程度で後に2~3名増員されましたが士官は、名前を書いた6人でした。彼等は、単純な兵学の教師であるのではなく、フランスの勢力を日本に植え付けるために派遣され、幕府の軍制の大系的な変革と反幕派に対する軍事戦略を指導しようとしました。しかし、上野戦争の敗北で幕府側は決定的な打撃を受け、新政府は軍事顧問団の存続を許さず、慶応4年7月に解散しました。明治元年8月19日、品川沖の榎本指揮下の軍艦にブリュネと、伍長カズヌーブが軍隊を脱走して、「日本の知己にむくいるため」乗りこんできました。仙台でも、フォルタン、マルラン、ブュフィエーの3人の下士官が加わり、函館でさらにコラッシュ、クラトー、ブラジェー、クラトー、フリビューが加わり、合計10名になりました。彼等は、兵の訓練をしたり、砲台を作り点検・整備するのが仕事でしたが、宮古湾の海戦などで敗北し、コラッシュが捕虜になり、連戦連敗のとき、函館沖にあったフランスの「コエトローゴン」号に援助を求め、9名を収容して、横浜に到着し、これを知ったフランス公使はコラッシュの引渡しを政府に求め、サイゴンに向かうフランス船で追放しました。後にブリュネの懲戒免官を日本政府に通告しました。ブリュネの脱走を知りながら、1ヶ月余も公使に連絡しなかったシャノワンは後に大将に上り、陸軍大臣を務め、ブリュネは、この後どうなったかわからないが、一説には翌年の普仏戦争に参加し、退役後、国会で活躍したといわれています。 詳細は、歴史読本昭和54年9月号所収「フランス顧問団の実態」に載っていますので、参考にしてください。
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- tomato1963
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旧幕府軍と行動をともにした、ブリュネ大尉のことは下記を参考にしてみてください。
- totoro196
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私自身はフランス軍事顧問団については 詳しいわけではありませんが参考URLをどうぞ。 Google などで 五稜郭 フランス軍事顧問 のキーワードで検索すると色々あります。
お礼
大変参考になりました。shoyosiさん、tomato1963さん、totoro196さん、どうもありがとうございます。