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神とは「悪」なのか?

私はいつも善と悪について考えています。 それを生んだ神という存在についても考えています。(この神とは何々教の神ではありませんし、神の存在について問うものではありません。創造されて何かがこの世界にある。森羅万象を作る源と扱います) これまで「善」=「神」だと思っていました。 人間については性善説ではなく、性悪説をとっています。 善と悪の戦いです。ですが、あまりにもの世の中の不条理に出会うたび、神はいないのではないかと思うのです。つまり神に失望したのです。 もし神が善なる存在でしたら悪は排除されるはず(べき)です。 では、神に対する人は希望なのでしょうか。 人が悪に対する希望だとしましょう。しかし人が善を求め、成長するために心や魂をもつものとしたら悪はそのための概念です(物語は絶えず悪を排除し、カタルシスを求めるところに人は善を求めている証しもみられる)。しかし悪というものの実態は破壊そのものであり存在意義すら許されることではありません。 善は善のままであってもよいはず。二律背反の法則で(?)悪があるとしたら、善そのものの美(という表現が適切かどうかはわかりませんが)が悪のためによって傷つけられ、汚され、破壊されるのが「現実」です。それでしたら善が善である存在意義がありません。 なぜ悪はあるのか。そして強烈に悪をしらしめるのがこの世の実相でしたら、もうこれは愛や創造のためではなく、破壊がこの世の、人のなかに前提として存在を許された(では「誰」に?)ものなのでしょうか。 このようなことを考えると、神はもしかしたら悪なのではないかと思ってきました…

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  • ベストアンサー
  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.12

インドの宗教では、破壊の神、創造の神、維持の神という三柱が基本的な神と呼ばれているそうです。その三柱を宇宙の法則と見て、森羅万象を理解する一助にしているのでしょう。 したがって、こういった世界観によれば、この世は静的な完全無欠の世界ではなく、動的で、欠点の多い世界であるということになります。例えばこの世では事故や不意の死というものが唐突に起きます。また、日常的に他の生命を奪って自らの血肉とせねばなりません。時に大災害が起こり、築き上げたものは水泡に帰します。健康に生き長らえることは難しく、若さなどは時とともに必ず萎れて行きます。また人と人の間には衝突や諍い、争いがあり、自分が起こさないとしても、何時それに巻き込まれるかわかりません。このようにこの世は混濁したものであり、それを時に美しく見せるのがこの世のマジックというものでしょう。この世は混沌なだけでなく、法則性が見られそれに従い運行しているのが観察されます。この法則というものが、混沌とした世界に美をもたらしているように見えます。  また、善については、それは人間の心が生み出しているのではないでしょうか。例えば他の生き物を取って食べなければならないのは哀しいことだというのは、おそらく人間の心にしか生まれないでしょう。他の生き物ならば、獲物が取れればやっほーい!で終わりだと思います。人間の心は、自然界からは少し距離があり、またその法則が支配する世界とは別の一つの世界を形作っているようにおもわれます。故に時に自然に抗います。 天国や涅槃、理想郷の可能性のある場所は、人間の心を除いて他にあるかどうかは知りません。人間の心、人の生き方によって、その人が精神的に何処に住んでいるのかが変わるものだと思います。 したがって、神、森羅万象を作る源、それを司る何かが悪というよりは、人間の中に善悪、天地の境涯があるのだと見るのが現実的であると思われます。 安寧に帰したいのであれば善について学び、悪を控えること、だと思います。

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >時に美しく見せるのがこの世のマジック あぁほんとにそうです。 私は人間については性悪説をとります。 もともと争いを回避できないのが人間であり、人、社会、国のなかの平和は奇跡だと思います。 基盤がそれだとすると、意思や努力でかろうじて脆い平和が継続されているにすぎません(たとえば国単位でみれば、憲法9条の意義は普遍ですが、事実、今それが危機に陥っているなど)。 >この法則というものが、混沌とした世界に美をもたらしているように見えます。 あぁだから私は法則が好きなのもしれないです。 >例えば他の生き物を取って食べなければならない いえ、人間は選択できる生物です。 これは生き物がどこまでの範囲か分りませんが、牛や豚を食べないという選択もありますし食べてはならないものを禁じている宗教もありますよね。 ですが植物も生物だとしたら他の動物と同様、人間も肉体的には動物ですから「哀しいこと」というのは生きとし生ける存在すべてということになりますね。 >人間の心は、自然界からは少し距離があり、 人は本能が壊れたという説があります。 自然から離れると肉体と精神の病にかかる。 自然との乖離を避け、いかにして生かされようか(実際に死なない程度に)、ということは生涯を通じたテーマでありライフワークです。 >混沌とした世界に美をもたらしている a_honaさんは混沌には美を見いだせないというお考え? そもそも混沌ってなんだろう。これについてもよく考えます(いつかこの質問をたてたいなと)。 たとえば秩序が乱れて戦争がおきますよね。今の時代、戦争そのものは美ではありません。しかしいくさが日常であった当時、武士は君主に命を惜しまないことを美学としていた。それでもやはり彼らは和平を望んでいたのでしょうか。 現代に生きる私は武士魂は美とは思えません。主君が暴君でもなぜ死ねるのか。真の自己犠牲ではなくて、与えられた価値観(美学)への自己陶酔だからでしょう。これ、武士社会は完全に総思考停止状態ですわ。むしろ虐げられている民のほうが実存的に何かを悟っていたと思われるんです(と言いつつ、大河ドラマでうるうると感動してしまうんです私笑)。 だから当時信じて疑わなかったものが実は信じる価値のあるものではなかった、というのは時代によって変わりますよね。 >自然界からは少し距離があり、またその法則が支配する世界とは別の一つの世界を形作っているようにおもわれます。故に時に自然に抗います。 同感です。 >天国や涅槃、理想郷の可能性のある場所 やはり人の心の中にしかないのでしょうか… 自然は天国や地獄という概念はなく、それに左右されてない。だからこそ「自然」の大きな意義があるのですが、苦があるから地獄や天国を想うことは、苦や楽という考えを得てしまった人の希望であり絶望なのでしょう。

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その他の回答 (13)

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.3

履歴を見たら私の質問に回答していただいてましたね。 こりゃ失礼!

frau
質問者

お礼

shift-2007さん、おひさしぶりですね。 えーと、私関連した質問に回答したこと忘れてます。よければそのリンク先を貼っていただければさいわいです。

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  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.2

参考にしてください。 http://okwave.jp/qa/q8718784.html

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 性善説、また性悪説というのもやはり人の概念ですよね。 リンク先は回答数が多いのでのちにじっくり読ませていただきます。

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回答No.1

その場所に千年以上存在してる樹木があったとして人が傍らに住んでて 樹木が小さいうちは景観が良いと褒められ 少し背が高くなれば敷地の目隠しになって重宝すると言われ 長い影を落とすようになれば日当たりの妨げになると恨まれる 樹木はたまたまその場所に種が落ちたので芽を出しただけのことで 条件に恵まれたからスクスク育っただけのことで 傍らに住む人間に喜ばれようとか悪さしてやろうとか全く思ってない ある時は善とされ、ある時は悪とされる フラットな状態から善に向かう過程を眺めて、己に都合が良ければ既に善 善の状態から悪に向かっていても己に都合が良ければそれも善、逆も然り 自分の生命サイクルにあてはめて神が居るの居ないのと論じるのはどうか 地球が出来て40億年以上も経ってから現れた人間が神が・・・って言っても あちらのサイクルは何百億かもっと長いのか人間にはわからないんだから どこかへ向かう過程の中のほんの一瞬を取り上げて善だ悪だ神は神が、とか たまたま象に踏まれたアリが象は悪だと言い糞に食料が混ざってたら善と言い そうゆうのに似てると思うよ 神に善も悪も無い、人一人の人生の長さではそれは量れない、と思うが。

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >神に善も悪も無い 確かに己の都合で善悪を考えるのが人間です。 木の例がでましたが、自然からすれば絶対悪は人間です。なぜなら自然は完璧ですから。 「神に善も悪も無い」とは、人間の観点です。 神は悪と申しましたが、善も悪もないのではないか、ということは考えています。一見中庸的です。しかし善も悪もそれぞれは絶対的なものだと思うのです。 個人、社会、それぞれが多様なできごとや現象、考えや思い、感情、価値観で生きています。ですが、個人のなかに最初にあることで、最後に帰結するものです。それをお互いに譲れないからこそ、争いは終わらないのでしょう。 そのような理由から善悪というのは二律背反でありながら、人類に唯一と問われている相対的なものだと考えます。 >どこかへ向かう過程の中のほんの一瞬を取り上げて善だ悪 達観したような感じですがあきらめとも思えます。(としたら私も、結論のような過程的な考えはあきらめたゆえかもしれません) しかし過程のなかで人類は悪を手本とし善を追求し進化していくのでは。 >人一人の人生の長さ 確かに人一人の人生や個人で唯一無二の決定的な結論(真理)をだすことはできないかもしれません。でもその一人一人の長さは違えども、その質において、神が善であるのなら、また悪であるのなら、彼にとっての神をみていると思います。そうした思想や行為の結論、その総和なのではないでしょうか。 統計的にそれを集計することはできませんけれど、人がどういう人生を送っているか、神(善悪)に対してどういう態度をもっているか。 行いの傷痕、そして残したもの。次に生まれる人間は残されたものを課題として考えます。(個人単位ではそれをあの世でふりかえり、現世において収束するのが業という考えですが)。 もしかしたらこの世で悟りを得た者は、学ばない人なのかもしれません。 人の悟りというのが神からしたら一笑に付すものだとしたら、その者は神になったふりをするだけで課題を放置したままで悟りと死のエクスタシーをもって肉体だけ消滅するだけかもしれません。 と考えると「普通の個人」こそが神の一部を体現しているものであり、善も悪も質的に同時にもちえる者こそ神であるというもの(つまり神に善も悪もない)ということになりましょうか… (蛇足ですがあと千年後には人は神をみるそうですよ。)

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  • 悪は存在しない。その名の現象があるのみ。

     ( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?  ( b ) いないと答え得るならば むしろ人間どうしのあいだで 善悪の定義をせざるを得ない。あるいはつまり善と悪との互いの区別について考え合い 或る程度は決め合うことができるのではないか?  ( c ) すなわち 善悪観をわれわれは共有しうるのではないか?  ( d ) 善とは このように話し合ったりして共生するところの存在を言い この存在つまり人間存在を〔色をつければ よく〕保ち守ることを言うのではないか?  ( e ) その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 心について人と話し合いができるということではないか?  ( f ) 以上のかぎりで 悪とは この善を傷つけることであり 善が傷ついたその部分のことをも言う。特には コミュニケーションを閉ざし壊す行為を言うのではないか?  ( g ) コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始させるという場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではないか?  ( h ) 対話の中で張られた鎖国政策に対処するときに この質疑応答の場でブロックすることは そのブロックする者も 対話を閉鎖していると言わなければならないか?  ( i ) この場合も 人は難儀するが もっと難儀する場合というのは おそらく《我れは神を見た。神と話をした》と言って その大前提たる主義主張に固執して話をすすめる場合ではないか?  ( j ) ちなみに人は 神を見ることがあるのだろうか?       *  (参考) 善を損傷することは 負の善であり これを悪と呼ぶ。(つまり 悪独自の実態はなく 悪という呼び名があるのみである)。   §1 善でも悪でもないものごと  (1) たとえば ものを食べるのに箸でかフォークでかあるいは手でかという選択は 善悪にはかかわりがないと考えます。衛生に気を配れば手で食べても――寿司はそうしますし――かまわないでしょう。  (2) あるいは右利きか左利きかも 実質的に言って 善悪とは関係ないでしょう。  (3) クルマが右側通行か左側かも どちらが善でどちらが悪かという判断とは関係ないと思われます。  (4) 善か悪かに関係なく その判定をしないものを 《無記》と言うかとも思います。    §2 ここで 社会性を必ずしも帯びない段階での善悪を定義します。  (5) 善とは そう(善だと)見るところの主観である。ただし《わたし》の善は おおむね《わたしたち》の善である。そういう共通感覚または共同主観が成り立つと考えられる。すなわち:  (6) すなわち 善は おのれの心に逆らわないことがらであり 逆らうことは 負の善・すなわちひと言で名づけて悪である。  (7) たとえばウソをつくこと これが 善を損ねることであり その損傷行為を悪と名づける。  ウソをつくとき人は 胸騒ぎが起こり顔を赤らめたり言葉がしどろもどろになったりする。(これに慣れて鉄面皮になった状態は別だとしても。つまり 別だというのは そのようなヤマシサ反応が無効になることではない。ただ隠すすべをこしらえただけである)。そういう共通の感覚が観察される。  (8) このマイナスの善としての悪 この悪の起こりは このウソあるいはイツワリあたりにあるのではないだろうか。  きわめて主観的なことでありつつ この主観――身と心――の動きは 自然本性として人間に共通であると推し測られる。  §3 善悪観に社会性を導入すると どうなるか  (9) 主観とその心が 善の基礎となっている。そうすると 心ないし主観の基礎としての身および全体として存在じたい これも――それがなければ 善の基礎が成り立たないのだから―― 善である。  (10) つまり 人間存在は――これまでの話の限りで――善であり ここに社会性を導入するなら とうぜんのごとく存在どうしのとうとび合い あるいは 共に生きること これが善であるとなる。  (11) 《共生》が善だとしたとき その存在を守りつつともに生きるというのであれば やはりとうぜんのごとく《話し合い》が もっとも肝心である。相手の意志ないし心をおのれのそれと同じようにとうとびおもんじるという基礎的な意味内容である。     

  • この世に 悪は 存在しない。

     ( a ) 悪は存在しない。  ( b ) 主観としての善をねじ曲げ傷つけること これが悪である。  ( c ) すなわち 善は それとして存在するが 悪はその善の損傷としてこれをひとことで悪と呼ぶ現象があるのみだ。  この問いを あらためて問います。    たたき台を あらためてさらにおぎないます。    ( d ) 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそ・いつわりのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。  ( e ) ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼びます。一人ひとり《わたし》の主観によって決まります。そのとき 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。  ( f ) つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく そうではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考え方です。  ( g ) 自然本性と言うべき心としての善――おのれが捉えている善です―― これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。  ならば 悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。   

  • 「正義」「悪」とは一体何ぞや? ‐ 神様、現実って?!

    川崎で万引き少年が、店主に警察へ通報され、逃走途中に事故死。 店は愚民からの嫌がらせによって閉店しております。 私は、この事件がきっかけで、「正義」と「悪」について 考えるようになりました。 先ほど、男女逆差別を危惧する方の質問に回答しました。 そこで、私は偽善者の話をしてきた訳ですが、 質問内容とは直接関係ないものの、 書きながら、どうも人間には、「善」を好む性質もある一方、 あえて「悪」に向かおうとする、性質があるのではないか、 と思いました。 さて、 【質問1】 皆さんにとって、「正義」「悪」とは何ですか? 【質問2】 絶対的な「正義」「悪」は存在すると思いますか? 【質問3】 生まれつき「悪い人間」というのは、存在すると思いますか? 【質問4】 昔、アメリカで多重人格症であるという理由で、 殺人を犯した男性が無罪になったようです。 殺人を犯した人格以外の人格を、尊重するという考えのようです。 (多重人格者は、他の人格でいる時の記憶がないそうな。) 詳細は知りませんが、皆さんはこのような判決について、 どう思われますか? 【質問5】 中学生のころ、学校の漢文の授業で、 「自分が、蝶になった夢を見ている人間なのか、  人間になった夢を見ている蝶なのか、わからない。  (人間と蝶の、どちらが本当の自分かわからない。)」 という内容の漢文が出てきたのを思い出しました。 皆さんにとって「現実」とは何ですか? また、「真実」とは何ですか? 【質問6】 よく宗教信仰者などで、 「悪いことをすると、神様が天罰を下す。」などという人がいます。 “神様”という言葉を使う人をどう思いますか? 【質問7】 あなたが死んだ瞬間、「正義」と「悪」は、 “この世から”消滅すると思いますか? 「悪」も必要だから、この世に存在するという人がいました。 正義・悪の区別は、人間が勝手につけたものだとしても、 「二つの相反する力が、引っ張り合っている」のは確かな気がします。 正義感が強い人間ばかりを集めて一つの社会を作っても、 その中から、悪の“補欠候補”が順番に悪人に姿を変えて、 結局は、全体のバランスはほぼ同一になると思います。 仮に、何らかの理由で、どちらかが大幅に偏った社会集団は、 天秤が壊れて倒れるように、 結局はこの世から姿を消す運命になるような気がします。 ただ、私もやはり絶対的な「正義」と「悪」が存在するかは、 かなり疑問です。 だいぶ前、猫ちゃんと一緒に遊びました。 猫ちゃんには、どうやら人間が言う正義・悪は関係ないようなんです。 (当たり前だと、言われるかもしれませんが。) 同じ空間にいても、猫ちゃんと自分が見ている世界は違います。 脳や目の構造が違います。 人間同士でも、視力も違えば、気質も違う、見ている世界は、 個人ごとに少しずつ違うはずです。 当然、「正義」「悪」にも、感覚にズレがあるはずです。 教育によって授かった知識は、同じなので共通部分も多いが、 脳の構造に起因する感覚には、多少ズレがありそうです。 上の漢文の話ですが、現実世界=自分の知覚するもの、でしかない、 即ち、自分という主体が主観的に捉えるものが全て、と考えると、 夢もまた、ある意味、現実なのかも知れません。 真実(第1義的世界)は一つしかなかったとしても、 現実(第2義的世界)は人格の数だけあると考えることも 出来るような気がします。 この、第1義的世界を(もしそんなものが存在するとすればですが)、 人間は客観的にそれ見ることは出来ないことになります。 自分もその世界の一部だから。 キリシタンの中には、神様という言葉を使って、 人間の外に、そういう人格がいて、「悪」人に制裁を課すような 言い方をする人がいますが、 神=真実を司るもの とすると、 正確には、自分も神の中にいる、というのが正確な気がします。 上で言う、第1義的世界です。 人は、自分が作った第2義的世界に生きながら、 客観的に捉えることの出来ない、第1義的世界で 互いに影響を及ぼし合っている、 そう考えることも出来ないでしょうか? (言葉の表現が下手でごめんなさい。ちょっとわかりにくいですね。) 皆さんはどう思われますか?

  • 悪は存在しない。善の欠け=悪 と呼ぶ現象のみだ。

     たたき台は つぎのようです。    1. 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。ウソ・イツハリのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 動悸を速め 時に顔を赤らめます。  2. ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。  3. つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎない。という考えです。  4. 自然本性と言うべき心としての善 これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことをも 悪と呼ぶ。     5. 悪は 存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。

このQ&Aのポイント
  • 質問者はWindows11に買い換えた後、ブラザーMFC-J6770CDWでの両面印刷ができなくなり、印刷速度も遅くなったというトラブルに悩んでいます。
  • 質問者の環境はWindows11であり、USBケーブル経由でブラザーMFC-J6770CDWが接続されています。
  • 質問者はひかり回線を使用しており、関連するソフト・アプリについては記載されていません。
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