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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:コロンブスより前に日本人が北米に到達した可能性)

コロンブスより前に日本人が北米に到達した可能性

このQ&Aのポイント
  • 日本人がコロンブスより先に北米大陸に到達した可能性はあるのか?という質問です。
  • 日本人は太平洋を渡る航海技術がなかったのか、技術はあったのに何かタブーでもあって太平洋の航海に乗り出さなかったのか、それとも室町時代以前にも船の難破などで北米に足を踏み入れた可能性は高いが、戻ってこれなかったので確かめようがないのか、どれだと思いますか?
  • 日本とアラスカの間には黒潮が流れており、成功率は低いでしょうが動力がなくても船に乗っていれば北米大陸に到達することはできたはずです。室町時代には日本人の海賊である倭寇が日本から中国沿岸を荒らしていたくらいですから、世界的にみて当時の日本の航海技術は決して低くなかったはずで、一部の野心的な日本人が太平洋の先に目を向けていてもおかしくありません。また、地理的にも黒潮の利点に加え、千島列島とアリューシャン列島といった中継地点があり、ある程度の航海技術があれば北米に行くのに最も有利な立場にいるはずです。

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noname#224207
noname#224207
回答No.22

No.13.17です 再度お礼を記入頂きありがとうございます お礼の中に若干ご意見がありましたので、補足をさせて頂きます。 >それは滅亡が避けられないと分かった時に最後の逃亡先として太平洋に漕ぎ出すことです。 こような状況下で窮地を脱して活路を見出すべく太平洋へ乗り出した人はいなかった訳ではありません。 逸話伝承としては鎮西八郎為朝(源為朝)がいます。 八丈島には沢山逸話が残っています。為朝百合という特有種の大型の百合もあります。 ただ史料が見当たらないので大学の先生が認めていないだけです。 伊豆大島ではそうとう暴れ回って国司が手を焼いたようです 史実としては頼朝と榎本武揚がいます。 頼朝は伊豆で敗れた後に現在の神奈川県真鶴町から出航しています。 榎本武揚は江戸開城の後艦隊を引き連れて江戸湾を抜け出しています。 ただ二人とも太平洋の東を目指しませんでした。 頼朝は房総半島の突端の安房を目指し現在の鋸南町付近に上陸しています。 当然ご先祖様の為朝の話は知っていたでしょうけれども伊豆の島嶼は目指しませんでした。 榎本武揚も近代的な外洋船の艦隊を引き連れていてアメリカという国も国力も軍事力も熟知していましたがアメリカへは向かわずに仙台から函館を目指しました。 なかなか太平洋の東を目指す人はいませんね~ >私が北条のトップであれば、落城が近づいたら自分は首を差し出すべく出頭しますが、その前に息子に家来数人をつけ、船に食糧を積み、太平洋に送り出しますね。どっちみち殺されるだけですから、息子だけは敵に殺されたくないと思うはずです まぁ~個人的な情としてはよく分かります。 ただ権力闘争に参加するには、チト難しい考え方かと思います。 家族の安否が気になるようであれば初めから権力闘争などに参加して戦などしなければいいだけです。 北条氏にせよ長曾我部氏にせよ、それほど家族が大切ならサッサと降伏して領地を差し出して恭順すればいいだけです。 家臣に命がけの戦をさせておいて、やばいから自分の家族だけ逃がすなどということをやったら、いくら息子でも権力も金も手に入らないでしょう。 こんな考えの御大の息子でぬくぬく生き残っているような人間についていくようなお人好しの家臣はどこにもいません。 権力を得たいあるいは維持したいと考える人間は常にリスクは織り込み済みです。 自分の子供を人質に出すなどということは平気でやります。 こういう精神構造でなくては、権力闘争に参加する資格はありません。 又当てもなく戦線を離脱することはありません。 必ず捲土重来を期して行動します。 自分がだめなら子供に託します。 見ず知らずの土地へ流れついても捲土重来を図ることができません。 こんな無計画な行動を採るようでは権謀術数の渦巻く権力闘争の世界では生き残れません 生きて行くのがやっとでは、何のために苦しい逃亡生活をするのか分かりません。 日本の戦では、ヨーロッパや中国のように都市を廃墟にしてしまうような戦争はしませんでした。 総大将が自刃して、残された子孫が恭順の意を表すればお構いなしという暗黙のルールがありました。 そもそも頼朝や義経が生きながらえたのも母親の常盤御前が清盛に恭順の意を表明した結果です。 秀吉も高松城の清水宗治の切腹をもって兵を引いています。 小田原北条氏は方針が決まらずグズグズ軍議を続けのちに小田原評定と呼ばれるような事態を引き起こしていました。 氏政がサッサと腹を切ればことは済んでいました。 関東一円の支城が悉く落とされた後で海上へ逃れても行くあてなぞありません。 逃れる隙があるなら陸上を逃げた方がよほど生存率は高かったでしょう。 現在のような警察力がある訳ではありません、全国指名手配して首尾よく捕まるなどという確率は遥かに低かったでしょう。 家康も本能寺の変の際には鈴鹿山系をスタコラ逃げ回っています。 堺の茶屋四郎次郎を頼ればいくらでも海上へ脱出できました 義経も頼朝に睨まれてから逃げ回って陸路平泉を目指しています。 北陸地方には逃亡中の義経に纏わる伝説が沢山残っています。 義経が九郎と名乗ったのも為朝の八郎に因んだものです。 為朝の話を知らなかったはずがありません。 まぁ~伊豆諸島ぐらいしかない太平洋というのは何時の時代も逃亡先としては魅力がなかったようです。 小笠原列島の存在が周知されるのは江戸時代以降です ところで、島で暮らすというのはどのようなイメージでおられますか。 日本近海でカリブ海のロビンソンクルーソーのような生活はできません 八丈島でも冬には零下になります。 人が住んでいれば、当然なんだアイツはということになってときの権力者に訴えられてしまいます。 流刑すなわち島流しという処罰がありますが、これは裸一貫で放り出すわけではありません。 受け取る島側の統治者に指令を下すとともに最低限の食料も支給しました。 佐渡島の日蓮も隠岐の島の後醍醐天皇も衣食住には不自由していませんでした。 頼朝も流刑の身でしたが家臣もいれば鷹狩も楽しんでいました。 我が身大事に安穏に暮らす気であれば何事もない生活環境でした。 源氏再興という野心を持ったからこそ戦もし海上へも乗りだしました。 後鳥羽上皇は恨みつらみで怨霊となりましたが後醍醐天皇は野心を持って小舟で命がけで島を抜け出しました。 江戸時代には八丈島から島抜けをした連中は幾らでもいました。 ただし18回中1回だけ成功したようです。 流人伝、恐ろしきは女なり www.webfrog.jp/papa/essay/essay-12.html この連中も太平洋へ乗り出した野心を持った日本人に数えられますか?

fumidera2
質問者

お礼

それにしてもよくご存知ですね。 太平洋に逃げた人は殆ど居なかったが、全くいなかったわけではないようですね。まあ、日本はいいところですから、日本を脱出したくないのはわかります。 それにしてもここまで様々な観点から20を超える回答を頂き、全ての回答者さまありがとうございました!

その他の回答 (21)

  • jack-a3
  • ベストアンサー率38% (316/822)
回答No.21

最初に、可能性があるかないか、というレベルの質問に対しては、「あるでしょうね」と答えます。ですがその可能性は限りなくゼロでしょう、とも答えます。 その上で。 まず卑弥呼や聖徳太子の時代から、渡来と言えば日本海の向こうにある国との行き来しかありませんでした。太平洋の向こうからやってきたのは大航海時代以降です。その日本海側の向こうの国には船で数日~1週間ですが、では反対側の太平洋にも同じくらいの距離に大陸、国があるだろうと考えて冒険した人はいたかも知れません。でもその程度の装備で行けるのは伊豆諸島やせいぜいが小笠原まで。その先は数日でたどり着けるレベルでありません。途中であきらめて引き返した人は「何もなかった」と言いますし、引き返さなかった人は帰ってこなかったので、当時の権力者や知識人は太平洋側の先には何もない、と考えたことでしょう。 また、仏教伝来(これも日本海側からもたらされた)以後、これは太平洋に先には浄土があると考えられるようになり、他の回答者さんも挙げているように補陀落渡海という風習が生まれました。ここから転じて、太平洋の先は彼岸、つまりあの世である、というメンテリティが生成されたと思われます。罪人を流刑にするのに伊豆などに送るのもそこから来てますし、流し雛や精霊流しなどの風習などもそういった世界感を補強します。 そういうワケで、昔の日本人は、その地理的状況、文化的状況から考えて、太平洋を越えてアメリカへたどり着くような冒険をしたとは考ええにくいです。遭難して漂流した結果たどり着いた、という可能性は残りますが、そのような痕跡、記録も残っていません。科学的、学術的には、「存在する証拠(歴史学的には記録や遺跡、遺物)がないものは存在しないものとして扱う」というスタンスになろうかと思います。

fumidera2
質問者

補足

日本人が太平洋の向こうに冒険しに航海に出たというのは、少なくとも権利者はやっていないですし、記録にありません。 でも、江戸時代には北米に漂着した日本人が何百人もおり、アメリカで記録も残っているようですから、室町時代以前にも当然居ただろうと思います。

回答No.20

可能性はとても低いと思います。 しかし、空想で歴史ロマンを語るだけでいいのなら、可能性は否定できません。義経のチンギス・ハン説もロマンの一つです。真偽については、私は否定しますが、空想して楽しむ分にはそれでいいと思います。 倭冦は海賊ではありません。古い歴史書は、時の権力者が、自分の都合の良いように書いたのです。 倭冦がなぜ都合が悪いかと言えば、現代風の説明をすると、密輸業者だからです。貿易業には政府(幕府)の認可が必要で、認可を得るためには多額の加盟金と、利益が出るたびに関税を支払う必要があります。これは政府の財源になります。 倭冦は許可を得ていません。加盟金も関税も払わないので、利益を全額手にできます。脱税ですね。脱税が多くて困ったのが歴史書に残っているのです。 歴史の教科書はこのように読むといいです。

fumidera2
質問者

補足

日本人が意思を持って北米に到達した可能性は限りなく低いという点では、私もそう思います。そういうことでいいんですよね? でも、到達の意思がなくても遭難して北米に流れついた可能性は高いでしょう。八丈島に行こうとして黒潮にさらわれたら、北米への一本道ですから。倭寇にしろ、経済的利益の有無にかかわらず黒潮に流されることはあったはずです。

回答No.19

●それともあなた、英語が読めないのですか?それは失礼しました。 ○はい、読めません。具体的な名前を書かれないのでまた出所不明の話かと思ってしまいました(笑)。 ●アメリカ大陸には日本由来のものが毎年、流れ着くのですよ。 ○海がつながっている以上、どこへでも流れ着く可能性はあります。 ●「可能性が極めて低い」と断言するなら根拠を教えてほしいですよ。歴史は連続しているのです。 ○江戸時代は太平洋も千石船が航行していましたが室町時代あたりだと瀬戸内海や日本海が交易の中心です。  太平洋岸には中世港は少なく、行き来する船も少なかったはずですから少ない船の何パーセントかが難破し、そのうちのわずかが北米にたどりつき、その中で生きていた人がいた、と考えるならかなり可能性は低いでしょう。さらに江戸時代は千石船のような大型船がありましたが室町時代の東日本でそのような大型船が運航していたとは思えません(そのような船がつける港もあるのかどうか)。倭寇の活動範囲は九州から朝鮮半島、東南アジアですからそこで難破しても北米までたどり着く可能性は低いでしょう。 ●日本人が行ったというのが気に入らないとか? ○根拠がないからです。「漂着した可能性がある」ということと「漂着した」ではまったく違います。  再三述べているとおり「可能性がある」では歴史学は語れないのです。それが理解できない人たちがウリジナルになったりするのです。 ●専門家の立てた仮説を簡単に否定できるほど ○一応は考古学の専門知識は持ち合わせていますし、バルディヴィア土器と縄文土器では器の形状が異なるのでこれを同一系統の土器群とみなすことはできないかと思います。  何かの論文で否定されていたと思いますが、手元にないので明示できません。  ちなみにウィキペデイアでは否定されています(笑)  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%AF%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2  専門家といっても考古学や人類学の専門家でこれを主張している人はいなかったはずです。  いずれにせよ「可能性」で歴史学は語れません。少なくとも北米で中世日本の遺物(陶磁器や難破船の残骸など)が発見されない限りは、ただの妄想や想像にしかすぎません。また発見された資料が後世に持ち込まれたものではないことを証明する必要もあります。  そうした検証や明確な資料に基づかないと「旧石器ねつ造事件」や「東日本外三郡誌偽書事件」などになってしまうのです。

fumidera2
質問者

補足

あなた、詳しいところもありますね(笑)。そして正直なところもある。 本州と伊豆諸島の間には弥生時代からの交流がありますが、間に流れの速い黒潮が流れているため、昔の航海技術ではたどり着けずに潮に乗って東に流されたことが多かったと容易に想像されます。 そして考古学って仮説は立てないのですか?学問なんてのは皆、仮説を立ててそれを検証する繰り返しです。数学の世界でもリーマン予想のように未解決の仮説は多いですが、だからと言って妄想などと誰も言いませんよ。捏造や偽書って、嘘を言っていることですから、仮説とは全く異なります。証拠がなければ妄想だと言うのなら、例えば古代の古墳を仁徳天皇陵とか応神天皇陵などと言うのは宮内庁の妄想ですね(笑)。世の中は妄想だらけで困っちゃいます。

回答No.18

No.16の続きです。 ●19世紀にアラスカの政治家だったアメリカ人が、コロンブス以前にも日本人の船乗りが黒潮に乗ってアメリカ大陸に漂着した可能性が高いと主張してましたからね。 ○政治家の歴史認識なんてあてにならないでしょう(笑)。  ではその政治家の名前と出典を記してください。 ●私一人の考えではありません。 ○ウリジナルを主張する人も何人もいますよ(笑)。 ●19世紀と16世紀の造船技術と航海技術は格段に違うとあなたは言われますが、具体的にどこがどう違うのか説明できますか? ○残念ながら船舶の歴史にさほど詳しいわけではないので説明はできません。  というと「違いも説明もできないのに否定するのか」と言われそうですが、室町時代に北米に日本人が到達・漂着した証拠も示さず可能性だけを主張する質問者さんとそう変わりはないので本議論においていはあまり問題にならないでしょう(笑)。  当然、質問者さんは19世紀と16世紀の造船技術と航海技術について詳しく説明できるのですよね。もっとも江戸時代だって咸臨丸以前に「北米まで渡航しよう」とした事例がそう多くはない(「慶長遣欧使節団」くらいか)はずなのであまり有力な証拠にはならないと思いますが。  いずれにせよ19世紀と12~16世紀を直接比較すること自体に意味がありません。 ●音吉が乗った船は、少なくとも外洋航海用のものではありませんよ。 ○そうですね。江戸時代には外洋航海用の船舶の建造は禁止されていましたからね。音吉だって「航海」ではなく「漂着」しただけですから。 繰り返しになりますが「コロンブスより前に日本人が北米に到達した可能性がないとは断定できないが、可能性は極めて低く、その証拠もないので現時点では妄想・空想にすぎない」です。 江戸時代に北米に漂着した船が何隻あろうとまったく意味をなしません。

fumidera2
質問者

補足

James Wickershamというアメリカ人です。前の補足に記載したリンク先に出典があるので見てくださいね。 それともあなた、英語が読めないのですか?それは失礼しました。 それにしても、ものすごい噛みつき方ですね。確かに証拠はないですが、アメリカ大陸には日本由来のものが毎年、流れ着くのですよ。 江戸時代(17世紀初頭からあったと記録されています)に日本から北米に漂着した船が数多くあれば、それ以前にも漂着していたと考えるのが普通でしょ?「可能性が極めて低い」と断言するなら根拠を教えてほしいですよ。歴史は連続しているのです。 そこまで断言されるなら、あなたは太平洋の気象や交流の歴史、先コロンブス時代のアメリカ史、海洋・船舶工学のどれかの専門家なのでしょうね。それとも、日本人が行ったというのが気に入らないとか?まあ、海路で行くとしたら中韓より日本の方が行きやすいですから。 陸路だったら沿海地方からシベリア極東地域を通ってベーリング海峡を渡るコースになるので、中韓の方が行きやすいですね。 そして南米土器と日本土器の関係は全くないと断言されてますが、専門家の立てた仮説を簡単に否定できるほど、あなたは偉いのですか?

noname#224207
noname#224207
回答No.17

No.13です わざわざお礼を記入頂きありがとうございます 太平洋へ出て行った権力者や金持ちはいませんでしたが、積極的に出て行った人がいなかった訳ではありません。 長い歴史の中で補陀落渡海というものがありました。 「野心的な日本人」というのはどのようなイメージで仰られているのか分かりませんが、命がけで観音菩薩の浄土に往生しようというのですからこれほど野心的なことはないと言えるのではありませんかね~ 補陀落渡海 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/補陀落渡海 抜粋 『熊野年代記』によると、868年から1722年の間に20回実施されたという。 この他、足摺岬、室戸岬、那珂湊などでも補陀落渡海が行われたとの記録がある・・・ 補陀落渡海についてはルイス・フロイスも著作中で触れている。・・・ 『日本書紀』神代巻上で「少彦名命、行きて熊野の御碕に至りて、遂に常世郷に適(いでま)しぬ」という他界との繋がりがみえる。・・・ 補陀落船の写真もあります ただ残念ながら北米西海岸にまではたどり着かなかったようです。 どこかで首尾よく(??)成仏したんですかね 日本列島の沿岸というのは潮流や風向が複雑で現在も世界中のヨットマン泣かせの海域です。 黒潮の流れと一言でいいますが教科書などに書かれているのは黒潮の軸流と呼ばれているものです。 軸流と海面での流れ方は若干違いがあります 海洋速報&海流推測図 - 海上保安庁 海洋情報部 www1.kaiho.mlit.go.jp/KANKYO/KAIYO/qboc/ このサイトの海流、黒潮5の図と観測値とをご覧下さい。 上記のWikipediaでも「日秀上人のように琉球に流れ着き、現地で熊野信仰及び真言宗の布教活動を行った僧もいたと伝わっている」と書かれています。 単純に読むと黒潮に逆らって南下したような印象ですが、実測値からすれば充分に有り得ることです。 海域全体の予想図は下記のサイトにあります 日本近海の海流 - 日本の島へ行こう imagic.qee.jp/kairyuu.html 一つ一つの矢印を見ると海域ごとに向きがバラバラです 逆に言いますと西海岸に無事たどり着いた人は運がよかったとも言えます。 風向きも幸いしたのでしょう。 帆なぞなくても海面に浮いていれば風に吹き流されます。 ヨーロッパの大航海時代も経済史的には追い詰められて、打開策の一つとして手掛けられたようです。 結果論として大成功ということです。 単純に新天地を求めての冒険航海ではなかったようです。 大航海時代 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/大航海時代 一攫千金を狙って出かけるのを野心的というのであれば、日本はたまたま太平洋の東へなんぞへ出て行く必要性がなかったとも言えます。 例えコロンブスよりも前の時代に北米大陸の西海岸にたどり着いても日本人として何のメリットもなかったでしょう。 組織的に行っていれば何かメリットがあったとお考えですか。 当時の日本は世界有数の産銀国でした。金も不自由していませんでした。 広い土地なら、北海道がそもそも手付かずでした。 敢えて海の向こうというのであれば勝手知ったる中国大陸も東南アジアもありました。 何も喧嘩腰で行く必要はありません。 友好的に行けば日本人を受け入れる余地はいくらでもありました。 現に東南アジア諸国には日本人町が沢山できていました。 倭寇だなんだといっても大半は中国の連中でした。 朝貢貿易しか認めない王朝にしてみれば全て密貿易です。 秩序も何もありません。 気の荒い連中は腕力にうったえるでしょう。 江戸時代の長崎の中国船も明に言わせれば密貿易船です。 実利本位で黙認していただけです。 蛇足 他の回答者さんの御答えを見ていますと日本製の船について多々誤解があるようですので書かせて下さい。 和船の歴史も技術も洋式帆船に劣るものではありません。 洋式帆船と和船の構造の違いは下記のサイトにあります 帆船から学ぶ海と日本 - 日本財団 図書館 nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/01046/contents/003.htm 以下のサイトで和船の詳細な構造と造船技術がわかります 氷見地域の和船とその建造技術~他地域との比較検討を通して ... museums.toyamaken.jp/documents/documents016/ まとまった書籍としては 石井謙治著『和船(1)』『和船(2)』法政大学出版局 というのがあります。 遣唐使船については以下のようなサイトがあります 平城遷都1300年祭『平城京歴史館/遣唐使船復原展示』 (by 奈良に ... small-life.com/archives/10/04/2402.php 復元された遣唐使船の写真が」あります 遣唐使船|クリップ|NHK for School www2.nhk.or.jp/school/movie/clip.cgi?das_id=D0005403015_0000... 遣唐使船の模型の詳細な画像があります 室町時代戦国時代というのであれば 小早、関船 安宅船などという軍船がありました 小早 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/小早 関船 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/関船 安宅船 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/安宅船 信長の巨大な軍船は有名です 織田信長の軍船(鉄船)復元 – 藤井戦国史 www.sengokushi.com/sengokushi/?p=1182 これだけの船を持っていても太平洋の東の彼方など見向きもしませんでした。 宣教師を優遇したくらいですから知らなかったわけではありません。 アユタヤの日本人町で有名な山田長政が奉納した戦艦図絵馬と呼ばれる当時の船の絵があります。 長政関連文物 sengendori.com/nagamasa/nagamasagoods.html 明治初期に日本の船大工が造った洋式帆船の再現模型を作った際の記事です。 いろいろ薀蓄が書いてあります。 和船(千石船)とヘダ号(洋式帆船)の違い 戸田村再発見 web.thn.jp/yamanobu/wasenn.htm 地震の津波で船を失ったロシア人一行を送り返した船です。 まぁ~室町時代以降にその気になれば何時でも太平洋を横断するぐらいのことはできました。 波の荒い日本海を自由に航行していました。

fumidera2
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 補陀落渡海とは初耳です。 海に送り出して成仏ですか。そういう風習もあったんですね。それに関連して、権力者が海に乗り出すかもしれない理由を一つ思いつきました。 それは滅亡が避けられないと分かった時に最後の逃亡先として太平洋に漕ぎ出すことです。例えば平氏、北条氏(鎌倉、小田原)、長曽我部氏などが滅亡する時に、敵に殺されるよりはと一か八か船で太平洋に出ることを考えてもよさそうですが、そういうことは全く無かったのでしょうか?鎌倉や小田原など、周りを囲まれてしまえば海以外に逃げ場がありませんが、伊豆諸島が近いですから八丈島あたりまで逃げれば一息つけます。 私が北条のトップであれば、落城が近づいたら自分は首を差し出すべく出頭しますが、その前に息子に家来数人をつけ、船に食糧を積み、太平洋に送り出しますね。どっちみち殺されるだけですから、息子だけは敵に殺されたくないと思うはずです。

回答No.16

No.14の続きです。 ●江戸時代には293人を超える船に乗った日本人が黒潮に流されて北米に漂着したと書いてありますね。 ○出典が問題になりますが、ジョン万次郎の事例その他から鳥島やその他島嶼に漂着していた日本人がアメリカの捕鯨船に救助されてアメリカに渡った、という人もいるはずで、その点を整理する必要はあるかと思います。  また「マカ族」に関する記事はウィキペデイアでも日本語版があり(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AB%E6%97%8F)、ご指摘のとおり日本人・音吉らが14ヶ月の漂着ののちにアメリカに漂着したとの記事があります。  しかし、これらは19世紀の話であり、質問者さんの言う室町時代は12~16世紀は300年以上前です。  300年の時代差があれば船の構造や大きさ、航海技術も格段の差があります。「江戸時代後期にあったのだから室町時代にあってもおかしくない」というのはおよそ非科学的で、まさにウリジナル的発想です(笑)。 ●これでも妄想とかウリジナルとか言えますか? ○言えますね(笑)。  最初から指摘しているとおり「コロンブスより前に日本人が北米に到達した可能性はないとは断定できないが、可能性は極めて低く、その証拠もないので現時点では妄想・空想にすぎない」のです。  可能性だけでよいならなんでもありです。それこそ韓国起源説がすべてまかり通ってしまいますよ(笑)。  

fumidera2
質問者

補足

19世紀にアラスカの政治家だったアメリカ人が、コロンブス以前にも日本人の船乗りが黒潮に乗ってアメリカ大陸に漂着した可能性が高いと主張してましたからね。私一人の考えではありません。 19世紀と16世紀の造船技術と航海技術は格段に違うとあなたは言われますが、具体的にどこがどう違うのか説明できますか? 音吉が乗った船は、少なくとも外洋航海用のものではありませんよ。

  • tettua
  • ベストアンサー率22% (4/18)
回答No.15

No.4の回答者です 母国の祖先達に夢を見たいのはわからんでもないですが、証拠(記録、物証)が無いのひとことに尽きると思うのですが。 漂着の可能性はゼロじゃない、に反論しても、漂着してなかった事を証明してみせろみたいな話にすると、水かけ論というより悪魔の証明のようになるのでは? あと、日本人の漂着がコロンブスより早かったらスゴいぜぇ、と思うのも変です。 コロンブスは大航海時代においてアメリカ海域への航海の先駆けになったというわけで、その彼より先に漂着した日本人がいたとしても、別に仕方がないというか(反論されそうですが)。ネイティブアメリカンのDNA調べたら日本人の血が混じってる人がいるかも? ヴァイキングは、コロンブスよりもはるか先に北米大陸に到達して、居住地を作っております。

fumidera2
質問者

補足

漂着なんて格好いいものでも何でもないですし、ポリネシア人もやっていたことです。 ただ、江戸時代に何十回も北米に漂着していたのは事実ですから、コロンブスより前に漂着した可能性は極めて高いですよ。 日本人が凄いわけでもなく、地球儀を見たら日本と北米の距離は結構近いのは紛れもない事実です。黒潮も流れてますからね。 それに、西欧がアメリカ大陸でやったことこそインディアンの虐殺とインディアン文化の抹殺ですから、非難こそすれ褒められたことでは全くありませんよ。

回答No.14

No.7の続きです。 ●食糧運搬船が遭難して船中に生き残ったのが2人とかの状態になれば、三ヶ月分くらいの食料は何とかなるでしょう。 ○食料があっても水がなければ生き抜けませんし、少人数になれば操船もできなくなり、荷物を満載していれば転覆もしやすくなります。  そもそもヨットのような小型船で航行を目的としても3カ月かかるのですから荷物を満載して重い船が漂流したとなれば漂流期間は長くなるでしょう。  東日本大震災での流出物で全長約6mの漁船や全長約18mの桟橋が北米に漂着しましたが、見つかったのは2012年7月で、震災から1年3ヶ月も後です。小さなものなら数ヶ月で漂着したとしても大型の物であればそれだけ時間がかかるということです。(出典:北米報知 http://www.napost.com/2012/06/20/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E-%E6%9D%B1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD%E6%BC%82%E6%B5%81%E7%89%A9%E3%80%81%E8%A5%BF%E6%B5%B7%E5%B2%B8%E3%81%AB%E7%9B%B8%E6%AC%A1%E3%81%8E%E6%BC%82/) ●ロケットのように精巧なものを作らなくても ○「中世に日本から船で北米にたどりつく困難さ」を現代に当てはめると、という話であって「精度」のたとえ話ではありません。 ●人を乗せて長期間浮かんでさえいれば ○嵐に遭えば船体が痛みますし、何もなくてもずっと海上に浮かんでいればそれだけで痛みます。数ヶ月ならなんとかもつかもしれませんが、1年近くとなると無理でしょう。 ●漂流してもたどり着けずに死んでしまう方が何十倍も多いことは承知しています。 ○それだけの犠牲を払ってでも「太平洋を横断しよう」という積極的な意思がどこから生まれてくるのでしょうか? そのことを認識していれば「コロンブスより前に日本人が北米に到達した可能性はほぼない」のはわかるはずです。 ●北米にたどり着ける可能性があると言うことです。 ○「可能性がある」というだけなら「玄奘三蔵より前に日本人がインドから経典を持ちかえった」「マゼランより先に日本人が世界一周をした」ということだって言えてしまいます。  現状において「到達したという証拠」がないのですから「妄想」の範囲を超えません。それこそ「ウリジナル」と大差ありません(笑)。  小説などのフィクションであれば「可能性」や「史実を踏まえての創作」はいくらやってもかまいませんが、歴史学でやろうとするならば少なくとも何らかの根拠資料は必要です  ちなみに「南米・エクアドルで縄文土器に似たバルディヴィア土器がある」ことから「縄文人が到達していたのではないか」との奇説がありますが、縄と竹管での施文方法が類似するだけで両者にはなんのつながりもないことは明らかです。

fumidera2
質問者

補足

No.9さんからの情報です。 en.m.wikipedia.org/wiki/Pre-Columbian_trans-oceanic_contact#Japanese 英語版wikipediaには、江戸時代には293人を超える船に乗った日本人が黒潮に流されて北米に漂着したと書いてありますね。江戸時代にこれだけ流されているのなら、室町時代以前の日本人漁民が北米に漂着しておかしくありません。 日本語版にはありませんから、おそらくアメリカ人が書いた記事でしょう。 In the 1890s, lawyer and politician James Wickersham[88] argued that pre-Columbian contact between Japanese sailors and Native Americans was highly probable, given that from the early 1600s to the mid-1800s several dozen Japanese ships were carried from Asia to North America along the powerful Kuroshio Currents. Such Japanese ships landed from the Aleutian Islands in the north to Mexico in the south, carrying a total of 293 persons in the 23 cases where head-counts were given in historical records. これでも妄想とかウリジナルとか言えますか?

noname#224207
noname#224207
回答No.13

単に言葉の上で到達した可能性というのであれば可能性は幾らでもあったでしょう。 新しい土地を求める意志をもってたどり着いたかどうかということとなると史料が無い以上はなかったということになるでしょう。 航海技術があったかなかったかということとは別次元の話となります。 意志はあったけれども道具が無かったからたどり着けなかったという論法を立てるのは難しいのではないのでしょうか。 海の上を漂うというのは左程難しいことではありません。 丸木舟でもアウトリガーがあれば転覆の恐れはまずありません アーカイブ/ウッドカヌーとは?/丸木舟とアウトリガーカヌー(ヒロウッデン ... www.woodencanoe.net/archive/canoe1/dugout.html 日本人はどこから来たのか、という議論の際にも南方から船でやってきた、という説明がよくされます。 旧石器時代に使われた鏃の原材料としての黒曜石の中には神津島産のものがあることが知られています。 このことは神津島と本州の間を人が行き来していたことを示しています。 黒潮の流れを横切って往復するためには、それ相当の船が必要です。 本州から神津島へ無駄なくたどり着こうと思えばそれなりの知識と技術が必要になります。 当てずっぽうで海へ乗りだしたのでは、たちまち黒潮に捕まってそれこそカナダ海岸へつれていかれてしまいます。 つまり旧石器時代の人達はこのような道具も知識も持っていたということになります どんな船を使っていたのか実証できるだけの史料がないだけです。 海を渡った黒曜石 www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/umiwata.html 細石刃狩猟民の黒曜石資源需給と石材・技術運用 - 明治大学 www.meiji.ac.jp/cols/english/research/6t5h7p00000de6rx-att/0... わざわざ倭寇など持ち出さなくても海上を航行できるだけの構造船は古墳時代にはすでにあったことが舟形埴輪などから知られています。 実証再現をした人もいます 埴輪 船 - e国宝 www.emuseum.jp/detail/100579/000/000?mode=detail&d_lang=ja&s... 古代船の復元|大王のひつぎ実験航海事業 - 宇土市 www.city.uto.kumamoto.jp/museum/10hitugi/hukugen3.html 遣唐使船も国産です。 渤海からの使節が帰国する際には時の朝廷が新しい船を造ってやっています。 こうなってきますと、道具や技術がなかったから太平洋の彼方へ出ていかなかったということにはなりません。 つまり意志がなかったということです。 野心がどうの言っても船という道具を手に入れるだけの財力が必要になります。 コロンブスも船と船員を集める費用を出してくれるスポンサー探しに苦労しています。 まぁ~日本の歴代の為政者や金持ちが太平洋の向こうへ行くことに興味も関心もなかったということでしょう。 北海道は朝鮮半島よりも遥かに近くにあります。 朝鮮半島とは歴代なにやらゴタゴタやっていますが、大和朝廷にしろなんにしろ北海道が歴史に登場するのは何時の時代からとお考えでしょうか。 京都盆地や奈良盆地に住んでいて新天地ダ!というのであれば、サッサと北海道へでも出かければ十分ではありませんか。 関東以北に陸奥蝦夷の広大な大地が広がっていることは日本武尊の昔から知っていました。 天皇以下朝廷のお公家さん達は、高句麗などからの移住者を関東地方へ送っても自分達が移住しようとはしませんでした。 高望王はあえて関東の上総へ下向して平氏一門の繁栄の基礎をつくりました。 ましてや北海道の先の千島列島やアリューシャン列島へ出掛けていく必要性などまったくなかったのではありませんか。 野心家がどうのと言われますが信長も秀吉も九州を手に入れようとはしても北海道には見向きもしません。 朝鮮半島にまで軍を送った秀吉も最大の政敵であった家康を関東へ移して安心しています。 北海道へ移そうとはしませんでした。 とまぁ~太平洋の向こう側まで行こうと考えるような人間が見当たりませんね~ タブーもへちまもないでしょう、行く必要性もなければ関心もなかっただけのことです。 なお日本の船大工に洋式帆船(ゲレオン船)が作れなかったわけではありません。 伊達政宗が派遣した遣欧使節団が乗った船は日本の船大工が造りました。(サン・ファン・バウティスタ号) 使節帰国後にはヨーロッパで長い間使われていました。 需要が無いから造らなかっただけです。 慶長遣欧使節 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/慶長遣欧使節 蛇足 コロブンスが北米大陸を発見した訳ではありません。 コロブンスが行こうとしたのは黄金の国ジパングです。 インドではありません。 黄金欲しさに出かけただけです。この手の男を野心家といいますかね~ 金欲しさに略奪を繰り返すのが野心家ですか? カリブ海の島にはたどり着きましたが本人は南北アメリカ大陸には関心がありませんでした。 何度もカリブ海へ出掛けていますがジパング探しに明け暮れていました。 北米大陸を発見したのはジョン・カボットとされています。 参考 クリストファー・コロンブス - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/クリストファー・コロンブス 抜粋 ・・・『東方見聞録』にある黄金の国・ジパングに惹かれていたコロンブスはここに西廻りでアジアに向かう計画に現実性を見出した。・・・ 1498年5月、6隻の船で3度目の航海に出る。今度は南よりの航路を取り、現在のベネズエラのオリノコ川の河口に上陸した。その膨大な量の河水が海水ではなく真水であったことから、それだけの大河を蓄えるのは大陸であるということをコロンブスは認めざるを得なかった。しかし彼は、最期まで自らが発見した島をアジアだと主張し続けたという。 ジョン・カボット - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/ジョン・カボット 抜粋 中世の航海者。カトリック教徒。北アメリカ大陸の発見者として知られる。 アメリカ大陸の発見 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/アメリカ大陸の発見 抜粋 ポリネシアではコロンブス以前から南米大陸原産のサツマイモが栽培されており、ポリネシア人が南アメリカ大陸から持ち込んだと考えられている。クック諸島では紀元1000年前後の痕跡がある。現在の学説ではポリネシアには紀元700年頃に持ち込まれたと考えられている。よって、少なくともその当時以降ポリネシア人は南アメリカ大陸と交流が有ったと思われる。 ボリネシアの人達はどんな船で太平洋を渡ったのでしょうかね~

fumidera2
質問者

お礼

日本人は縄文時代から一定の航海技術は持っていたようですね。でも、江戸時代以前に太平洋の彼方に関心を持った権力者や金持ちがいなかったのは確かです。 コロンブスと書いたのは、ガボットと書いても分からない人が多いだろうし、アメリカ史では「先コロンブス時代」という時代区分があるためです。 ご回答ありがとうございました。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11121/34623)
回答No.12

九十九里浜や茨城などに行くと分かりますが、あのへんは太平洋に直接接しています。だから波が荒いんですね。九十九里浜はサーファーには人気ですが、それは太平洋から荒い波がやってくるからで、海水浴場としては事故が多くて危険な浜として有名です。「九十九里は引き波が強いから気をつけろ」ってサーファーの間でもいわれているそうです。 だから、東北から関東にかけての太平洋岸での海上交易というのはあまり盛んではありませんでした。江戸時代に北海道の松前で獲れた昆布は日本海から瀬戸内海を回って江戸に運ばれていました。距離的には仙台を回ったほうが近いのですが、太平洋に直接接しているのと、千葉辺りで潮の流れに逆行しなきゃいけないのでそのあたりがネックになったのではないかと思います。 江戸時代になっても和歌山沖と伊豆下田の先あたりは太平洋に接するので航海の難所として有名です。西伊豆も入り江になってないところはかなり波が荒いですよ。 私たちは現代人の知識として「地球は丸い」ということを知っていますが、当時の人たちにとってそれは知らない知識だったわけです。太陽系の外がどうなっているか現代人がほとんど知らないのと同じことです。それ以上ともいえますよね。 何かの拍子に帰ってきたやつがいるなら「この向こうに島がある」という情報も伝わるでしょうが、「流されて帰ってきたやつはいない」となれば余程無謀なチャレンジャーでもない限り出るには勇気が必要だと思います。 とはいえ、風船おじさんみたいな人がいたっておかしかないとは思います。 縄文時代は今より暖かったそうですから、アリューシャン列島あたりまでは交易(交流)があってもおかしくはなかったと思います。しかし帆船(丸太船)の速度やいくら今より暖かったとはいえ冬には航海には出られなかったことを考えれば、行き来ができる物理的な距離の限界はアラスカ辺りまでじゃないかなあとは思います。 太平洋側は航海に適さず、日本海は夏は非常に平和な海ですが、冬がものすごく荒れるので、安定した航路は瀬戸内海くらいだったので、なかなか艦船や航海の技術が発達しなかったというのはあるでしょうね。 あとは、あんまり外に出たがらない民族気質もあるんじゃないかしら。今の若い人たちで「パスポートを持ってない」って人、多いじゃないですか。アラフォーの私の世代くらいはとにかく深い意味もなく「外国に行ってみたい」と思っていた世代ですけど、今の若い人は(一般的な傾向として)すごく内向きですものね。 「日本になぜ大航海時代が生まれなかったのか」は、おそらくは「外に出ていかないとやってられないっていうほど貧しいわけではなかった(イギリスは作物が育たない土地です)」になると思うのですが、それ以上に「なぜ中国に大航海時代が生まれなかったのか」ってのがありますからね。 羅針盤も元はといえば中国の発明で、大航海時代になるまでの航海テクノロジーの最先端は中国でした。明の時代に鄭和という人がインドやアフリカに行ってるんですね。一説によると、南大西洋を越えて南米にたどり着いたのではないかともいわれています。 不思議な、とても不思議なことは、鄭和が亡くなると、彼の功績というのは明の公式資料から一切が消されてしまっているのです。なぜ彼の資料が消された(処分された)のか理由はよくわかっていないそうです。ひとつだけいえるのは、彼の功績はないことにされたということです。さらに、彼は中国史においても偉大な功績を残した人物といえるはずなのですが、現代中国でも再評価はされておらず、むしろ海外での評価のほうが高いくらいなのです。 東アジア人(中国、朝鮮半島、日本あたり)は海への冒険はあまり好きじゃないのかもしれませんね。 もちろん「行った可能性はある」ことを否定するわけではないですが、それを証明するのはなかなか難しい(同じ系統の人種のため、DNAでの判定も難しいと思います。また絶滅したネイティブアメリカンも多いと思います)かもしれませんね。#9さんがおっしゃるように、メキシコで縄文式土器らしきものが出土したなんて話もありますからね。

fumidera2
質問者

お礼

伊豆沖、和歌山沖は荒れやすいからこそ、その近辺を通った船が台風などに遭難して黒潮に乗ってカナダに流されることが昔からあったみたいですね。八丈島は室町時代以前から本土と船の行き来があったようですから、そういった船が流されたらそのまま北米行きです。 食糧運搬船が漂流したら、雨水を飲んで1年粘れば生き延びられるでしょう。 ご回答ありがとうございました。

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