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江戸時代の私人間のトラブル解決のルールについて
旧民法が施工されたのは明治31年、民事訴訟法が制定されたのはは明治21年ですが、それ以前の私人間のトラブルはどのようなルールの下、解決されていたのでしょうか? 更には江戸時代において、貨幣経済が発達し、当然取引のルールないと安全な取引ができないと思いますし、それに伴い私人間のトラブルも増えてきたと思おうのですが、それらは何を根拠にどのようなルールで解決されてきたのでしょうか? 漠然とした質問ですが、よろしくお願いします。
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いわゆる民事訴訟に相当するものは、原則としては町民や農民の自治組織である町役人や村役人に一任していました。 時代劇などでお馴染の町奉行所は原則的には刑事訴訟に関してのみ取り扱っていました。 藩幕制度というのは、軍事組織です。 民事に関しては、町民や農民の自治組織をそのままそっくり体制内に取り込んで運営されていました。 戦国時代には統治者が度々変わり、村落や都市の治安維持や統治をする人間がいなかったことから、自然発生的に自治組織が生まれて発達したことによります。 室町時代から始まり、戦後時代に発達して江戸時代に完成しました。 結果として、大枠は同じでも、具体的な内容となると、夫々の村落や都市では違っていました。 江戸と大阪、京都でも違っていました。 ある日突然オレは今日からここの大名だと威張ってみても相手にされませんでした。 次から次へと前例を持ち出されてしまいますので、他の地方から移転してきた大名の手には負えませんでした。 無理やりこれを変えることにエネルギーを使うよりは、この自治制度を体制に組み込んで運営した方がはるかに効率が上がります。 この自治制度の長や責任者を自己の管理下に置くことで目的を達成していました。 特に、大名領の場合には、武家は城下町居住を義務付けていましたので、領地の大半を占める村落部分を統治するのには、極めて便利でした。 関東地方は大名領、と旗本領、幕府直轄領(天領)がモザイクのように輻輳していた上に、旗本領では、統治すべき旗本も居住していない上に、一つの村でも年貢は複数の旗本へ収めたり、逆に一人の旗本が複数の村から年貢を徴収する、という極めて複雑な形態となっていました。 このような状態で武家が頂点に立って統治しようとしても無理が生じます。 この為に結果として村落ごとの自治に一任するという様式が一般化しました。 町人は大名領を越えて商いをしていますので、いよいよ一人の大名の手には負えません。 町人の自治組織に委ねるほうがはるかに効率的です。 更に身分制度上の問題もありました。 町民も村民も納税者だけが、町人あるいは百姓という取り扱いを受けて、非納税者には社会的権利も責任も認めていませんでした。 大名の命令を受けたり逆に何かを申請するような場合には、この納税者である町人や百姓だけが対象となっていました。 はやい話が長屋の熊さんや八っあんたちが奉行所に用事がある場合は、長屋の管理人である大家さんを通じて長屋の持ち主である家主さんにお願いして奉行所に出向いてもらう必要がありました。 熊さんや八っあん達は税金の心配もなければお祭りの寄付も必要がありませんでした。 すべて家主さんが負担していました。 熊さんや八っあんを一人一人管理したのでは手間がかかりますので五人を一組として何が起きても連帯責任という五人組制度というものが設けられていました。 このために民事訴訟で一人だけがグズグズ言うということは起きませんでした。 常に五人ひと塊となって解決せざるを得ませんでした。 民事訴訟事件はむしろお金持ちの家主さん階級で起きていました。 この場合には、家主さんたちの自治組織である、町役人が調停役となりました。 そもそも家主として認めてもらうためには、この町役人の認可が必要でした。 町役人は原則としては家主さんどうしの選挙で決められていました。 この形態は農村も全く同じでした。 この町役人や村役人が裁定する際の判断基準はあくまでも過去の事例に依存していました。 いわゆる習慣法(慣習法)です。 そもそも、奉行所でお奉行様が下す、判決の基準も正式には公表されていませんでした。 百叩きか、所払いか、という基準そのもが公表されていませんでした。 遠島や死罪は将軍の認可が必要でしたので、TVの時代劇のように、これにて一件落着!という訳にはいきませんでした。 民事訴訟で一番多かったのが金銭トラブルでした。 この場合は町役人や村役人では手に負えないものが出て来て、奉行所の裁決を仰ぎました。 この場合の奉行所は町奉行ではなく勘定奉行です。 江戸時代を通じて勘定奉行へ持ち込まれる件数があまりにも多く、勘定奉行も度々当事者間で内済にしろ、と通達を出してはいますが、すぐに元にもどってしまっていました。 以上ザットした説明ですが、何分にも五人組制度をもとにした相互依存、相互監視の社会でしたので、現在のように直ちに裁判に訴えるという習慣が全くなかった時代であったとお考えください。 明治政府も警察組織はサッサとつくりましたが、民事に関して制定が遅れたのは、このような社会制度でかつ地方によって習慣的な裁決基準がバラバラだったことも原因しています。 逆に言いますと明治になっても何となく上手くそれなりに問題の解決が図られていたということです。 社会制度が完全に近代化するまでは、ある意味で余裕があったということです。 参考 町年寄 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/町年寄 町代 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/町代 地方三役 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/地方三役 庄屋 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/庄屋 平成21年度 収蔵資料展1 www.archives.pref.gunma.jp/deta/deta-tenji/moyooshi-21-1/moy... 具体的な事例が記載されています
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- takuranke
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民間は基本慣習です。 当事者同士で解決できない場合は、仲介人を立てたりして話し合い、長屋なら大家が仲介したり、商人間なら寄合の代表者なりが仲介しました。 それで解決できなければ町役人(ちょうやくにん)が取次して奉行所へ申し立て。
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回答ありがとうございます。
- f272
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> 旧民法が施工されたのは明治31年、民事訴訟法が制定されたのはは明治21年 旧民法は明治23年に公布されましたが,施行することはありませんでした。 現行の民法は明治29年および明治31年に制定されました。施行は明治31年からです。 旧民事訴訟法は明治23年に制定され,大正15年に大きく改正され,平成17年に廃止されました。 現行の民事訴訟法は平成8年の制定です。 > それ以前の私人間のトラブルはどのようなルールの下、解決されていたのでしょうか? 法基準としては,幕府直轄地,大名領,旗本領に分けてそれぞれが裁判を行ってきましたが,幕府法に準じていましたから実質的には全国で統一されていました。 法の運用は,前例に従うことが基準です。しかしだんだんと前例が多くなると調べることが大変になったので8代吉宗のときに公事方御定書が作られました(ただしこれは公開されていませんでした)。いわゆる判例集です。しかし実際には裁判を行う人の裁量が大きいのが通例でした。 もともと訴えることなく争っている人どうしで和解することが奨励され,それができないときでも双方の言い分をよく聞いて調停に努めるのが基本です。判決を下すと言うよりは仲裁を行うイメージですね。 審理は町奉行,勘定奉行,寺社奉行のそれぞれが担当部門の裁判を行いましたが,複雑な案件や重要案件は評定所で審理されました。また武士については別体系であって,旗本は目付が,大名は大目付が審理を行います。 明治になると,民法が施行されるまではこれらを引き継いでいました。町奉行,勘定奉行,寺社奉行に替わるのが県知事であって,各地に裁判所ができてくると県知事の裁判権が移されるようになりました。
お礼
詳細な回答ありがとうございます。 公事方御定書は中学校の歴史で習ったのですが、内容はそういうものだったのですね。意味も分からず単に暗記していました。 ありがとうございます。
- kamobedanjoh
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江戸時代には町奉行の制度が作られ、当初は確立された法律も無かったので、庶民からの訴訟は町奉行扱いと成り、奉行の独善的裁断が行われていました。 これでは公正さを欠くとして、過去の判例や民間の仕来りを調べ、判断の基準を定めたのが、かの有名な大岡越前守でした。 それ以来、判決内容の統一化が進み、不公正の不満は少なくなりました。 尚、町奉行が裁くのは町人まで。 武士(大名家や旗本、御家人)が絡めば大目付の管掌。寺社が絡めば寺社奉行の管掌でした。 各藩でも江戸(幕府)の仕組みを取り入れるようになりました。 商取引でのトラブルの例は、歴史事実に詳しい森鴎外の作品にもモデル化されています。
お礼
ありがとうございます。 奉行所が行政も司法も行っていたわけですね。裁断も奉行所の裁量だったのですね。 大岡越前守といえば、親子の話で息子を引っ張り合うという話が有名ですが、現代においてはこんなやり方は問題ですよね。 森鴎外の作品読んでみます。
お礼
回答ありがとうございます。 詳細なところまでよくわかりました。