• 締切済み

ブラフマンは善なのか?

~~~~~~~~~~~~~~ 「正しい御指摘です」と彼は言った、「しかしそれでは、ほかならぬそのこと、神々の物語についての規範とは、どのようなものなのでしょうか?」 「おそらくそれは、次のようなものであるはずだ」とぼくは言った、「神がほんとうにそうであるような性格を、つねに必ず与えなければならないこと――神を詩の中で描くのが、叙事詩にいてであろうと、抒情詩においてで あろうと、悲劇においてであろうと、いずれの場合にもね」 「そうしなければなりません」 「そうすると、いやしくも神であるからには、真に善き者であるはずであり、そしてそのとおりに語らなければならないわけだね?」 「たしかに」 プラトン 国家 第2巻 18章 379A~379B ワイド版岩波文庫 国家(上) プラトン 著 藤沢令夫 訳 159~160ページ ~~~~~~~~~~~~~~~ プラトンは神を善にしているようです。 プラトンがキリスト教に影響を与えているなら 旧約聖書の神が無理があってもキリスト教において 善になってしまうのですが、 それはともかく、インド神話 マーヤーが気になるので、ブラフマンについて、 ブラフマンは善なのでしょうか? マーヤーによって人を欺くかもしれない?

noname#207067
noname#207067

みんなの回答

回答No.4

 人はなぜ善、悪と云う心情を持つのでしょうね。不思議です。  由ってしばしば考えてきた事柄です。  罪悪感と云いますが、今は敢えて“善悪感”という表現で考えて。  生命は「生きること」なのに、なぜか人は俺が俺がと自身に執着しすぎると罪悪感を持ちます。  反対に好ましい心を他者に向けているときは却って“善行感”に浸れます。之もまた不思議ですね。  全体と個。  方向性として人の心は全体に向かう時はその精神性を妨げるものがなく、個に向かう時は障害が現れるようで、そう思うといきなりの、そして唐突の感想ですが、ここに神仏の想いを感じてしまいます。  大河の流れは大海に。  生命の流れは大霊に。  個に向かうのは破壊。  大きな流れに対する逆流。  ☆ 善、と感じるのは流れに沿うものだから!  こんな風に思いました。  追記・生命へ注がれる仏の慈悲の涙は、自身が産みだした「命」故に。

noname#207067
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 ブラフマンを善かどうか質問してみたのは、 ブラフマンを善として扱うことに違和感が出てきたからです。 道徳的なものではないような気がしてきました。

  • hiak123
  • ベストアンサー率16% (14/87)
回答No.3

がさつはがさつが気になる。 どろどろはどろどろが気になる。 自己を知って発奮すしたければそれも良し。

回答No.2

 こんにちは。  ブラフマンというのは、善悪というよりは「人間存在に先立つ宇宙の普遍的な流れ」のことで、自然崇拝の流れを受けて東洋的な考え方の共通項になっているものの一つなのではないかと思います。道教の「タオ」や仏教の諸法無我の「法」ともルーツは同じものだと私は理解しています。そして、現代の自然科学的スタンスからの目線で見ると「ビッグバン以後の自然界の法則に沿った宇宙の展開そのもの」くらいの解釈になると考えています。

noname#207067
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 タオはカオスで、法はコスモスという感じがしませんか? 自然界の法則に沿っているとすると、 コスモスとして捉えているのかもしれませんね。

回答No.1

こんにちは。 ☆旧約聖書の神が無理があってもキリスト教において 善になってしまうのですが ◇《善》ではなく、正しくは《義》ですね。 義、justice、正しいかどうかが問題なんですよ。 そして、行いが律法にかなっているかどうかが問題になる。 かなっていれば、《義》となる。 善は、英語ですとgood(ness)で、義・justiceとは異なる。 善の根拠は、快・不快の《快》であってもいいし・・・。 「いやしくも神であるからには、真に善き者であるはずであり」が既にプラトニズムなんでしょうね。 ☆マーヤーが気になるので、ブラフマンについて、 ブラフマンは善なのでしょうか? ◇《ブラフマン》をどのようにとらえるかでしょうね。 《天則・リタ》のようなものと考えれば、善の根拠になるんでしょう。 でも、《ブラフマン》は、発生的に、そもそもバラモンの祭祀に関係するものであり、 バラモン僧が儀式の規則に違反しているかどうかが問題になるのでしょう。 古くは、《ブラフマン》は、バラモン僧が祭式をすることによって神々に与える活力、エネルギーのようなものだから、善の根拠になるのかというと、ハテナ??? ☆マーヤーによって人を欺くかもしれない? ◇至高神は、愚か者に自身の真の姿を気づかせないためにマーヤーを使うんですよ。 選ばれた人にしか真実の姿を見せてくれない(笑い)。 梅原猛流に表現するならば、「真理は自身の姿を隠す」んですよ。

noname#207067
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 ブラフマンはエネルギーという感じがしますか。 こういうとき私は科学が苦手なので自然科学的な考察が出来ないのが 残念です。

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